フライト346【フライト346】上空346mの位置から地表を「俯瞰」するように、自分の人生を振り返って見ていく。その中には、家庭環境、両親との関係、地域性、師との出会い、現在の仕事の起点になった源泉、バルブ・フラッシュ、宇宙からのサイン、サブテーマなどが秘されている。過去は情報の宝庫。思いもよらないモノが見つかったりする。そしてそれらはこれからの人生を進んでいくにあたり「指針」的な役割を果たす場合が非常に多い。 ところでなぜ346mなのか? それはHeiz銀座に来ようとしなければ絶対わからない。 ■3月5日にHeiz交流会にてプレゼンをされた天宅(あまやけ)しのぶさんが 上空346mからご自身の人生の俯瞰にチャレンジします。 ------------------------------------------------- 【音職人の風景 第1話】 ~1967.5.1誕生→小学校前半~ 1967年5月1日、誕生。 生まれた時の記憶はない。 親から聞いた話だと、2,800g、ほんの一時間ほどで「スポッ」と生まれたらしい。(兄の時はそれなりに大変だったそうだけど) 家のことを何もしない父が、母が私を産むために入院してた時に卵焼きを作って兄に食べさせたらしい。 やるなぁ、父。。。 今みたいにコンビニ弁当もなければ、外食もあまりしない時代だ。 2才が近くなっても歩かなかったらしい。 親が関節や他の原因で歩けない子供なのかと心配して病院に連れていくと、 「どこもなんともありません。ご本人に歩く気がないだけです。そのうち歩きますよ。」 と言われ、恥をかいたと言っていた。 この頃から既に気分に左右される人間だったのだろうか? 3才まで長岡京市にいた。 その頃の記憶は・・・・ 近所によく吠えるスピッツがいて、とても怖かったこと。 お化けの夢を見て、とても怖かったこと。 そのくらいだ。 4才になる年に、京都市内の祖父母の家に引っ越す。 父は次男だが、長男夫婦が祖父母と折り合いが悪く、ウチの家族が本家に入ることになった。 当時のことはサスガにあまり覚えていない。 5才になる年、幼稚園に通い始める。 どうしようもない泣き虫で、一日何回も泣いていた。 送迎バスに乗るのがイヤで、母に車で迎えに来てもらったことが何度もあった。 何故バスに乗るのがイヤだったのか、覚えてないけれど、その時その時何か理由があったということは覚えてる。 バスに乗るのがイヤだったのではなく、大泣きモードに入って動けなくなってたのだ。 「どうしたの?」と聞かれても、しゃくってるから話すことも出来ず、精神的に追いつめられると更に大泣き、手のつけられない子供だっただろう。 (その点は小学校を卒業するまでずっと、だったのだが・・・) 絵を描くのが好きで、絵ばかり描いていた。 大人の用事に連れて行かれても、紙とペンさえ渡しておけば何時間でもだまって絵を描いて遊んでる子供だった。 年長組の時、先生に絵を誉められた。 それまではただ好きで描いていたけど、その時初めてぼんやりと「私は絵が上手なんだ」と自覚した。 同居していた祖父が道楽者で、趣味でバイオリンを弾いたり、色んな楽器を持っていて、京都では大手の楽器店&音楽教室の十字屋の社長と友達だった。 その人の勧めと、親の方針で、近所のヤマハ音楽教室の幼児科に通うようになる。 家にはまだオルガンしかなかったけれど、幼児科の課題はオルガンで十分だった。 どんなレッスンだったか、楽しかったのかどうかも、ほとんど覚えていない。 ただ、このころから宿題を真面目にやる子ではなかった。 オルガンでは課題ではなく、自分の弾きたいものを弾いていた。 幼児科を卒業する頃、宿題でもなんでもないのに、自分で勝手に曲を作って持って行って先生に見てもらった。 今思えば、なんちゅー子供だ。。。 その時の曲は今でも覚えている。 一曲は「となり町の女の子」(今じゃ作れないような神秘的な曲!)、もう一曲は「買い物ブギ」(まるでブギウギではないけど、調子のいい曲)。 他にもあったかも知れないけど、この二曲を覚えてる。 タイトルは何を思ってつけたのか、我ながら見当もつかない。 なんでオリジナル曲を作ろうとしたのだろう??? 当時の私は最もクリエイティブだったのかも知れない。 町内に「理恵ちゃん」という同じ年の女の子の友達がいて、基本的に毎日のように一緒に遊んだ。 ヤマハ音楽教室も一緒に通っていた。 それ以外の時間は、3つ上の兄の「金魚のフン」だった。 子供時代の遊び場だった近所のお寺「法然院」 【小学校就学~】 地元の公立小学校に入学。 4年生の兄は近所の同級生と毎日通学していたので、理恵ちゃんと毎日通学。 理恵ちゃんと私は二人とも激しい性格で、毎日のように「絶交」と「仲直り」を繰り返していた。 「町別子供会」が学校であり、新入生は自己紹介をする。 自分の名前を尻切れトンボで言えず、泣きながら兄に抱きつくアカンタレぶり。。。 感情の動きをまるでコントロール出来ず、調子に乗ったり大泣きしたり、の繰り返しだった。 父親の仕事(囲碁棋士)を、うっすらと理解し始めた。 具体的にはよくわからないが、他の家のお父さんとは全然違う、ということはよくわかった。 ほとんど毎日家にいて、のんびりしているように見えた。 よく一緒に遊んでくれて、ドライブに連れて行ってもらったり・・・ 夏休みはしょっちゅう父のゴルフの打ちっ放しにくっついて行って、ジュースを買ってもらって父の打ちっ放しを眺めてた。 口うるさい母と違って、父はおおらかな人だったので、父になついていた。 3つ上の兄の金魚のフンをやってただけあって、 なんでも早かった。 字を覚えるのも、九九も小学校1年ですっかりクリアしていた。 大好きな兄に追いつきたかった。 この時の気持ちが、その後「大好きな人に認めてもらいたい」の元になる。 兄は成績がよかった。 母はそのことをよく私に言ってプレッシャーをかけた。 (本人はプレッシャーのつもりじゃないと思うが) 兄にも追いつきたかったけれど、母に認められたかった。 なんでも後を追う立場の方が追われる立場より有利だ。 兄の後をくっついてた私は、その影響だけで十分に、学校の成績はとても良かった。 3年生から珠算教室に通った。 小学校卒業までやって初段まで、その教室では学年で一番優秀で得意だった。 そのお陰で計算が得意で、高校の数学まで楽をさせてもらった。 ずいぶん衰えたけど、今でも一般人よりは暗算が速いのは、珠算教室のお陰だ。 一方、ヤマハ音楽教室の幼児科を卒業後、試験を受けて、ヤマハの「ジュニア科専門コース」に入った。通常のジュニア科コースより専門的で英才教育的なコースで、京都では第一期生にあたる。 祖父の友人の十字屋の社長の勧めと、幼児科の先生の勧めで受けた。 その幼児科からは私だけがJ専科に進んだ。 人と比べる能がなかったのだけど、優秀だったのかも知れない。(多分そうだろう) J専科に進んで、エレクトーンを買ってもらえた。 すっかり有頂天で、弾いて遊びまくった。 カセットテープに録音できるエレクトーンだったので、兄と二人でデタラメな番組を作ってよく録音して遊んだ。 兄がDJ気取りで喋ったり歌ったりする、後ろから私は茶々を入れたり、BGMや効果音楽を入れたり。。。 (あれ?今とやってること同じじゃん・・・!) まるっきり遊びで録音したテープに二人とも深い想いなく親宛のメッセージみたいなのを入れてたことがあり、 父親が聞いて泣いていた、と後に母から聞いた。 意図してなかったのに、なんだか申し訳ない気がする。 小学校2年の夏、祖父が他界した。 胃ガンが肺に転移していて、入院してから家に帰ってこなかった。 まだ小さかったから、病院には一度しか連れて行ってもらえなかった。 一度だけ行った時はもう亡くなる少し前で、久々に会った祖父はもう、ずっと苦しんでいて私の方を見てくれなかった。 足の骨からふくらはぎに皮だけがブラブラしていた。 もともと細い人だったけれども、まるで別人だった。 漠然と「怖い」と思った。 お葬式の日、親戚中が集まった。 私がいとこ達(12人)の真ん中くらいで、一番上でも小学生、祖父の死を理解出来ない幼い子供達は、一室に集められて遊んでいた。 いとこが全員集合することはそうはないから、嬉しくてハイテンション。 悪気無く、「夏だから」という理由で、こともあろうに「お化け屋敷ごっこ」で大盛り上がり。 一人ずつ押入に隠れて、ドライヤーで温風を出したり、熱帯魚の青い灯りを使ったり、花火のちょうちんやハタキを使ったり、かなり凝っていた。 後にも先にもないくらい大はしゃぎして、大人達に大目玉を喰らう。 (兄ははしゃぎ過ぎて熱を出した) なんとなーく・・・ うっすらとした記憶をたどると・・・ 「お化け屋敷ごっこ」の言い出しっぺは、私・・・かも知れない。。。(^_^;) 【次は小学校後半へ。。。】 文/天宅しのぶ(あまやけ・しのぶ) text= SHINOBU AMAYAKE ------------------------ ■天宅しのぶ(あまやけ・しのぶ)プロフィール 京都市生まれ。父親が囲碁棋士という数奇な家庭環境の中で育つ。 幼少の頃から音楽の英才教育を受け、同志社女子大学音楽学科に進学後、 レストランなどでピアノを弾くアルバイトを始める。この頃から「ジャズ」にも目覚め、 多くのライブ活動に没頭。卒業後は任天堂に就職、スーパーファミコンなどの ゲームBGMを多数作曲する。 退社後、上京してからしばらくはジャズヴォーカルに専念。現在はプロの ジャズヴォーカリストとして銀座・六本木・赤坂などのラウンジやライブハウスで 毎週ライブを行っている。また多種多様な音楽をクリエイトする音楽制作会社 「AMKミュージック」の代表を務める。音楽の持つ「力」でそれを聴く人々を 幸せにしていく、という志を持つ。天竺バントのヴォーカルでもある。 ■LINK 天宅しのぶHP ・ジャズボーカリストとしての天宅さんのホームページです♪ 天竺バンド・リハーサル映像 ・宮崎考雄(g.)、七海人(dr.)とのトリオバンド「天竺」で天宅さんはボーカル・キーボードを担当してます。 ■AMKミュージック業務内容 ○任天堂DS等のゲームBGM制作 ○携帯電話の内蔵着信メロディ制作 ○各種音楽データ制作 ○声優・ミュージシャン演奏手配・録音など ■実績 Docomo=N902iX-HighSpeed Docomo=N703iD(佐藤可士和モデル) の両機種の全内臓着メロ制作 au=W52SH 内臓着信メロディ制作 au=MEDIA SKIN(吉岡徳仁モデル) 任天堂DS 「ポケモンレンジャー パトナージ」BGM制作 「ミラクル小学1年生」(学研)BGM&効果音制作 ■天宅しのぶ得意技 「モノのイメージを顕す曲作り」 任○堂の入社試験。 「絵を見て30分以内にイメージに合う曲を作って楽譜を作る」 彼女の場合、絵を見て、パッパッパッパ、と音が浮かぶ・・。 こういう能力にずば抜けている。 例えば携帯電話の音作りの実際のお仕事では 携帯のデザインコンセプトを聞いて、実際携帯を触り、眺め、 イメージを右脳でつかんでそれを音にするのがまず速い。。 それを担当者が聞いて「もっと丸い音」とか「もっと深い音」などと いう要求(イメージ)を拾い修正を加えることがさらに速いのである。 曲作りW速・・・とでもいいましょうか。。 文・取材/ 七條@七海人 ----------------------- 目次に戻る ■バックナンバー 【創刊号(2/15発行)】 Heiz銀座広報誌【新価値通信BE☆SEE 第1号】 ジャンル別一覧
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