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カテゴリ:日々の出来事
先日NHKで「瀬戸内寂聴の青空説法」を見ました。
昔(2011年)に放送されたものを再放送したものです。 東日本大震災の時に病床に伏していた寂聴さんですが、東北の惨状に ショックを受けて思わずベッドから立ち上がっていたそうです。 震災から約半年経った9~10月に被災地を訪れた寂聴さんの旅に同行し、 各地で開く青空説法や現地の人々との交流を追っていました。 そんな時、寂聴さんは被災した人々の話をじっと聞いていました。 まさに「寂しく聴いて」いたのです。 宗教では人を救えないのではという事を感じていながら、それでも尚、 人々を救いたいという熱い信念から説法に出かけているのです。 ほとんど8割は寂しく聴いているのですが、心に悲しみを持った人達は その悲しみを吐露することによって少しでも悲しみを和らげ、一時でも忘れる 事ができればと思って優しく説いていくのです。 今は京都のお寺にいる彼女ですが、昔はたった一人で岩手県二戸にある お寺で住職をしていたのです。 それも16年近く。 屋根も朽ちたぼろぼろのお寺を立て直し、多い時には12,000人も集めて 説法をするまでになっていたのです。 その説法の中で話した「もう懲りた」は印象的な言葉でした。 ユーモアを交えて話すのですが、本当は「盲己利他」。 これは天台宗の祖、最澄が説いた言葉です。 「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」との事。 調べてみたら正確には 「悪事を己に向え 好事を他に与え 己を忘れて 他を利するは慈悲の極みなり」 というもの。 悪事とは悪い事ではなく、人の嫌がる事、手間暇のかかる事。 好事とは、やりやすい事、苦労のいらない楽な仕事。 つまり、「やり易い仕事を他の人にまわし、手間暇かかる仕事は自ら進んで 引き受ける心掛けを持って他の人を思いやる事は最高の慈悲」 という事です。 これは「情けは人の為ならず」といよりも崇高なものとしています。 つまり見返りを求めないものだから。 情け・・・は、他人に施しをすれば池に石を投げた時にできる波紋は めぐり巡って自分の返ってくるもの。 それに対して盲己利他は、自らの幸福よりも他人の幸福を願わずにいられない、 見返りは求めないとするもの。 これを菩薩の行願というそうです。 慈悲の「慈」とは、いつくしみの心であり、人々の幸せを願う心。 慈悲の「悲」とは、人々の声にならないうめき声を聞き取り、 救わずにはいられないという心。 こうした慈悲を施す人を菩薩というそうです。 現在98歳の寂聴さんの顔を見ると確かに仏様のようです。 それも仏像ではなく田舎の道端にあるお地蔵さんのようです。 TVを見て凄く感動しました。 ほんの少しですが慈悲の心、仏の教えを教えてもらいました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.05.25 07:00:36
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