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ヒロガルセカイ。

ヒロガルセカイ。

16。

  16。

武士に対して暴言を吐いた霜柱ですが、その手には武器がありません。
向坂甚内が抜刀すれば、命も絶たれるでしょう。
しかし夕映を守り抜こうと、体をはった男の気迫は、いかな修行を積んだ武士といえどひるまずにはおれません。
「松葉屋の男衆か・・。」
向坂甚内は、頭から水をかぶったように大粒の汗を流します。
「何ゆえ、この若造に説教されねばならぬ。」
やっと聞き取れるほどの小声でした。
自らの過ちを知りながら恋の盲目となった男は抜刀もせずに、でくの棒のように立ちすくんだままでした。
わいわいと野次馬が集まる中で番所からも役人と岡っ引きが駆けつけてきて、恋に狂った哀れな向坂甚内をしょっ引いていきました。

あの武士にはどんな罰が下るでしょう。
抜刀していないので、重い罪には問われないでしょうが。
懇意にしてくれていた馴染みの後姿を、夕映は黙って見送りました。

<自分のせいだ。自分があのひとを狂わせた。
わざとではなくても、そんな商売を自分がしているのだ。>

夕映は、自分の仕事の持つ影響を思い知らされました。
自分の存在で、そのひとの人生が変わることもありえるのです。
なんと因果な商売でしょう。
目を伏せても聞こえてくるのは野次ばかり。
「松葉屋の夕映格子が敵娼かい。」
「まだ子供じゃあないか。なにをとち狂ったか。」
「かわいい顔してたいしたタマだねえ、夕映格子は。この騒ぎで今日のお客も増えそうだ。」
霜柱が騒ぎの侘びを入れると、夕映を連れて歩き出しました。

<早くここを脱け出したい。
そのために、もっと仕事をこなさなければならない。>
高尾太夫が自分に仕事の量をこなすように指示するのは、そのためなのだとようやく悟りました。
<どれほど自分が焦がれていても、応えてくれないのは仕事をさせるためなのか。>
ずっと慕ってきた高尾太夫。
ともにひとの人生を狂わせることもありえる苦界に生きる花魁です。
夕映は、腹を決めました。気を引き締めないと涙が零れそうでした。

「夕映さん。」
すりむいた腕を気にかける霜柱に、顔を伏せたまま手を振って大丈夫と答えます。
その様子に「とにかく、見世に帰りましょう。」
霜柱が夕映を気遣うあまりにおんぶをしようとしたので夕映が苦笑しました。
「大丈夫です。歩けますから。」

「夕映さん。・・怖かったのでしょう。」
「いいえ、これは霜柱が愉快なことをするから。あまり見ないでくださいね・もう泣きませんから。」
声の確かさに安堵しながらも霜柱は夕映から笑顔が消えやしないか心配でした。
「泣いてもかまいません。無理しなくていいのです。あなたは物や花魁という商品ではない、人間ですから。」

<俺にとってかけがえのないひとです。>霜柱は、口に出せませんでした。
こんなときに言えるほど軽い気持で惚れたのではないから。
それに花魁と男衆の恋はご法度です。
たとえ自分の想いが通じていても、確かめることはできません。
この手に抱くことなどもってのほか。
その罪たるや、自分は甘んじて受けても愛しいひとにもその罪、背負わすことは出来ません。

そして、先ほど不本意とはいえ大門をくぐった夕映に突きつけられる罰が不安でなりません。
いかなものであろうとも、傍にいよう。
支えてみせよう。
霜柱は自分の立場をわきまえることに徹する覚悟を決めました。

その横顔を、騒ぎで近寄れなかった高尾太夫と司が見ていました。
「霜柱。」
あれが霜柱か?と問うような言い方を高尾太夫が呟きました。
なかなかひきしまった男の顔。
見ていて実に清清しいのです。
「高尾兄さん、よろしいなあ。あの男、ちゃーんと夕映さん助けてるやん。よう使えますね。」
司がはしゃいで見ていますが、高尾太夫は複雑な気持になりました。
「どうしたものかな。」
遅きに失した現実に苦笑します。
そしてほころびかけた気持からは、隠した想いが膨らんでいます。
「お似合いですなあ。聞けば同い年。ええやないですか。」
「花魁と男衆は色恋禁止だよ。」
見世に帰ろうと踵を返す高尾太夫の腕を捕らえて司が聞きました。

「へえ。じゃあ花魁同士ならどうなんです。」


夕映は馴染みのある香りに気づきました。かすかに香るこれは。
しかし何処にいるのかわかりません。
今までだって、呼んでも振り返らないひとでした。
伝えたくてもその余地のない、兄でした。
兄を越えなければ、ここを出ることは叶いません。

「傍にいてください。これからも。」
急に夕映の声がすこし震えたのを感じました。
「おりますとも。」
安心させたくて手を繋ぎました。
細く綺麗なその指の冷たさを労わると、強さを秘めた瞳が潤みました。
「早く・・ここから出たいのです。」
夕映の決意の声に打たれながらも、あの香りに気づかない霜柱ではありません。

高尾太夫、

霜柱が目を走らせても、見つけられないほどに吉原は人で賑わってきました。
やがて昼見世の準備です。
囃子声と、支度のために見世へ急ぐよその花魁たちの下駄の音。
この苦界から脱け出すには、いかなる虚言と手練手管が必要か。

霜柱のこころは矢で刺されたように痛みました。


もうすこし続きます。

16へ続きます。17話へ続くのでありんす。




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