9.9.藤江さんが俺を抱き寄せて背中をさすってくれた。 優しいところがあるのか。 「結構、たまっていたのか」 「え、えー!」 藤江さんから俺の匂いがする。 見れば顎に白い飛沫が。そしてネクタイにまで! あれは全部俺の仕業だよな……。 「どうした。顔色が悪いぞ」 「あ、あの。洗わないと!」 ネクタイを引っ張ると藤江さんが笑った。 「だから身だしなみを整えるのさ」 堂々と個室のドアを開け、おもむろにネクタイを外すとゴミ箱に捨てた。 そして、顔をさっと洗い流し、シートで汚れを取り除き、さっぱりとした顔になった。 「慣れていますね」 見上げていたら「ようやく懐いたか」といわれて、後ずさりをした。 「今更逃げるなよ? 事務所で少し尋ねるだけだ。私は警察ではないからね、蒼空を犯罪者として檻に入れない。しかし家族に心配させてはいけない年だ。そこを自覚して貰おうと思う。それでこの件は終了だ」 藤江さんは話しながら両手を洗っている。 「口もゆすいでくださいよ」 「コーヒーでも飲めば匂いも消える」 「や、やめてください!」 一歩近づいたら片腕で抱き上げられた。 しかしお尻に指が食い込んでいる! 「意外に硬いねえ。あまり遊んでいないな」 「構わないでください!」 頬を打とうとしたら遮られた。 その手首を捉えて「野良猫みたいだな。かつて味わったことの無いタイプだ」と意味深な呟きをした。 誤解されては困る。 「俺はそっちの気は無いですからね」 「そう? それは残念」 藤江さんは新しいネクタイを締めて身支度を整えると、鏡越しに俺を見た。 「何ですか?」 「気付いていないだけではないの?」 その爽やかな言い方が気になった。 探偵事務所なんて関わったこともないので、どんなところにあるのかと思ったら、駅裏の雑居ビルの一室だった。 飲食店があるせいか腐臭の漂う不衛生なエレベーターを避けて非常用の階段を上ると、真下にはレースに彩られた膝上十センチの妖しげな服を着たツインテールの女の子がビラを配っているのが見えた。 まさかこのまま、あんな子がいるような妖しげな店に連れ込まれて、挙句何処かに売られたりしないだろうな……。 先を歩く藤江さんの背中を見ながら、脳内で人身売買は法律で罰せられると現役学生ならではの知識を探っていた。 (しかし国内なら法に守られるが、外国だったら? ……どうしよう、俺は英会話も自信が無いのに! いや、英語圏どころかアラブの金持のところなんて行かされたら一生奴隷だ。何せ言葉が通じなければ……) 「あれ。顔色が悪いな。階段を上るくらいでへたばるのか」 むっとして顔を上げると、瞬きをした。 藤江さんが俺を見返りながら手摺に長い腕を乗せていたのだ。 まるでモデルのポーズではないか? 「何様ですか、そのポージングは」 「ん? 良い光景だと思ってさ。何だ彼んだ言いながらも私の後をちゃんとついて来ているから」 そういえばそうだ。もう手錠は外されたから自由の身なのに。 「あ、帰ります」 「こら、照れるなよ。お茶とお菓子くらい出すし。……喉が渇いているだろう?」 胸の鼓動が高まった。俺はフェラの後はいつも喉が渇くのだ。見破られているのか? 「おいで。私がお茶を入れてあげよう」 別に藤江さんが入れてくれなくても、誰でもいい。お茶を飲みたいだけだから。 「じゃあ、遠慮なくいただきます」 事務所は表札も看板も無い。 ビルの一室のドアにIDカードをかざすと開く。カードのキーの性能もあるようだ。 「珍しいのか?」 黙ってみていたから興味があると思われたか。 「別に、違います」 「可愛くない」 どんと背中を押されて開いたドアの向こうに飛び込んでしまった。 玄関の革靴に躓いて、咄嗟に両手をついてしまった。何て無様なのだろう。 「何の騒ぎだー? おお、藤江。お帰り」 メタボリックな人がいる。団塊世代に多いと聞く運動不足の膨らんだ腹。 「依頼主の息子さんを確保しました」 「この子がそうなの。へー! お母さんに似ているね、細身で綺麗で何となく派手そうなところが」 好きなように発言しているが、人をとやかく言える体格なのか? 「初めまして。この探偵事務所の取締役社長の大関です」 「社長?」 凝視してしまった。終身雇用が定着されていた団塊世代とは恐ろしいものだ、きっと権力に甘んじて危機感が失せ、肥満になったのだろう。 「顔色が良くないね。野菜ジュースでも飲むかい」 (それはあなたが飲むべきだ) 「蒼空は私がお茶を入れる約束で連れてきましたので、お構いなく」 藤江さんが僕を抱えあげて、突き進む。 「ど、何処に?」 10話に続きます。 |