535.陸軍大将異聞(35)「満州国を完全に日本の支配下に置く」ことを溥儀自らが承認する
(カモメ)昭和六年九月十八日午後十時二十分奉天北方、柳条湖付近で満鉄(南満州鉄道)の線路が爆破されました。柳条湖事件ですね。(ウツボ)そうだね。当時関東軍高級参謀だった板垣征四郎大佐は、直ちに奉天駐屯の関東軍部隊に北大営の国民革命軍への攻撃命令を発令、午後十時三十分戦闘が始まった。(カモメ)満州事変の勃発ですね。この命令は板垣大佐の独断専行でした。(ウツボ)当時の関東軍司令官は本庄繁(ほんじょう・しげる)中将(兵庫・陸士九・陸大一九・参謀本部支那課長・歩兵大佐・歩兵第一一連隊長・参謀本部付・張作霖顧問・少将・歩兵第四旅団長・在支那公使館附武官・中将・第一〇師団長・関東軍司令官・侍従武官長・大将・男爵・功一級・予備役・軍事保護院総裁・枢密顧問官・終戦・戦犯指名・自決・正三位・勲一等)だった。(カモメ)板垣大佐は、戦闘開始から三十分後の午後十一時に、旅順の官舎で入浴中の本庄繁中将に緊急電話をし、「奉天で支那軍と戦闘が始まり、緊急時であるから、自分の独断で関東軍の独立守備隊を動かしました」と報告しました。本庄中将は驚き、すぐに軍服に着替えて軍用列車で奉天に向かったのですね。(ウツボ)そうだね。この満鉄の線路爆破は、中国軍の犯行であると発表されたが、事実は、関東軍参謀が計画、高級参謀・板垣征四郎大佐が主導して行った。(カモメ)けれども、主に計画を立案したのは、作戦主任参謀・石原莞爾中佐(山形・陸士二一・六番・陸大三〇次席・関東軍作戦主任・関東軍作戦課長・歩兵大佐・ジュネーヴ軍縮会議随員・歩兵第四連隊長・参謀本部作戦課長・参謀本部戦争指導課長・少将・参謀本部第一部長・関東軍参謀副長兼在満州国大使館附武官・舞鶴要塞司令官・中将・第一六師団長・予備役・立命館大学講師・立命館大学国防学研究所所長・従四位・勲三等・功三級)でした。(ウツボ)とにかく、この二人と数人の参謀が中心になって計画し、爆破を実行したのは関東軍独立守備隊第二大隊第三中隊の河本末守中尉ら数名の日本軍人だった。(カモメ)九月十九日午後、東京の参謀総長・金谷範三大将(大分・陸士五・陸大一五恩賜・在オーストリア大使館附武官・歩兵大佐・歩兵第五七連隊長・参謀本部作戦課長・少将・支那駐屯軍司令官・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・参謀次長兼陸軍大学校校長・朝鮮軍司令官・大将・参謀総長・勲三等)から事件不拡大の命令が発せられました。(ウツボ)本庄軍司令官は陸軍中央の不拡大方針の命令に従う決意をした。これに対して、関東軍参謀たちは、本庄軍司令官に対し、必死になって作戦続行の意見具申を行なった。だが、本庄軍司令官は、頑として進攻中止の方針を変えなかった。(カモメ)さすがの、石原莞爾中佐も匙を投げて、事変はこれで終わるかに見えました。けれども、板垣大佐は本庄軍司令官に得意の粘り強さで、二十日夜から三時間にわたって説得を続けたのですね。(ウツボ)そうだね。板垣大佐の説得により、二十一日未明、遂に本庄軍司令官は、吉林出兵の決断をするに至った。これ以後、関東軍は、満州攻略の作戦と軍事行動を進展させ、昭和七年三月一日、遂に満州国が建国された。(カモメ)満州国建国は大成功で、日本国にとっては大躍進となりました。そうなると、本庄繁中将、板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らは、多大の功績があったとして評価され、後に、本庄繁中将は侍従武官長、板垣征四郎大佐は陸軍大臣、石原莞爾中佐は参謀本部作戦部長に補されています。(ウツボ)板垣大佐は、満州国建国に当たって、執政に就任する溥儀に、ある文章に花押しさせた。その文章は、関東軍司令官宛の書簡となっており、「満州国を完全に日本の支配下に置く」ことを溥儀自らが承認するという内容だった。(カモメ)ところで、板垣征四郎は、後に石原莞爾との関係について、次の様に述べていますね。(ウツボ)読んでみよう。「満州事変の作戦は石原君の平素の研究に基づく点が多い。世の中のことは、頭の良い人に案を立てさせておいて、時が来たら、それを皆で実現していくところに発展性がある。小我を張るのは禁物だよ」。(カモメ)一方、石原莞爾は、板垣征四郎を評して、「板垣さんの足に、もし、ブスッと、針を突き刺したとしたら、板垣さんは、一時間ばかりたってから、はじめてアッ痛いと気がつく人だよ」と述べています。(ウツボ)板垣大佐は、昭和七年八月少将(四十七歳)に進級した。同時に関東軍司令部附となり、満州国執政顧問に就任した。昭和八年二月ヨーロッパ出張。昭和九年八月関東軍司令部附(満州国軍政部最高顧問)、十二月関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官。(カモメ)昭和十一年三月関東軍参謀長、四月中将(五十一歳)。昭和十二年三月第五師団長、五月勲一等瑞宝章。昭和十三年六月第四十六代陸軍大臣兼対満事務局総裁。昭和十四年一月第四十七代陸軍大臣、九月支那派遣軍総参謀長。(ウツボ)板垣中将は陸軍大臣としては評価が低かった。五相会議でも自分の意見が定まらず、後で、発言を取り消したりもした。また、昭和天皇からは「お前は何をやっているのか」とよく叱られていた。(カモメ)日独伊三国同盟問題でも、昭和天皇が「撤回せよ」と言ったら、板垣大臣は「それでは辞表を出します」と返答して、ぶつかっています。(ウツボ)板垣中将は、昭和十六年七月大将(五十六歳)、朝鮮軍司令官。昭和二十年二月第一七方面軍司令官(兼任)、四月第七方面軍司令官(司令部・シンガポール)。(カモメ)終戦となり、板垣大将はシンガポールでイギリス軍に拘束されましたが、昭和二十一年五月三日極東軍事法廷が開廷し、戦犯容疑に指定されたため、飛行機で東京に移送されました。