575.海軍大将異聞(35)「戦争指導には最も不適切だった人」という烙印を押されている
(カモメ)交換条件付きでゲリラから解放された福留中将らは、機密文書を奪われるという大失態を犯したにもかかわらず、海軍中央部で事情聴取を受けた後、不問に処されたのですね。(ウツボ)そうだね。この時の海軍大臣・軍令部総長・嶋田大将をはじめとする上層部は、福留中将らが、捕虜になったかどうかの身分取り扱いと、この事件をどう秘密にして統帥の権威を維持するかが最大の関心ごとだったと言われている。(カモメ)福留中将らが紛失した暗号書や機密書類がどうなったかについての関心は薄く、福留中将もこれに軽くふれただけでした。嶋田大将らもこの件で深く追求することはなかったのですね。(ウツボ)だが、この暗号書と機密書類を解読した米軍により、これ以後の戦いは、ことごとく敵に裏をかかれて、日本軍は潰されていった。(カモメ)つまり、全てを敵に知られていながら、知られていないつもりで、嶋田海軍大臣・参謀総長ら海軍中枢が行った作戦指導により、考えられない破局を生んでしまったのですね。(ウツボ)そうだろうね。「四人の軍令部総長」(吉田俊雄・文藝春秋)によると、嶋田海軍大臣・軍令部総長の評価は、よく言われているのだが、「戦争指導には最も不適切だった人」という烙印を押されている。(カモメ)昭和十九年六月十九日、二十日、マリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行われたマリアナ沖海戦は、空母三隻や多数の航空機を失って日本海軍の惨敗に終わりました。(ウツボ)六月三十日、海軍予備大将の会合があり、軍令部総長・嶋田大将の命令で軍令部第一部長(作戦)・中沢佑(なかざわ・たすく)少将(長野・海兵四三・十九番・海大二六・軍令部第一部第一課作戦班長・大佐・連合艦隊参謀・軍令部第二課長・軍令部第一課長・一等巡洋艦「足柄」艦長・大五艦隊参謀長・少将・海軍省人事局長・軍令部第一部長・第二一戦隊司令官・台湾航空隊司令官・第一航空艦隊参謀長・高雄警備府参謀長・中将)が戦況を説明した。(カモメ)そのあと、嶋田軍令部総長は、中沢少将を別室に呼んで、「君の話は、あまりに絶望的で前途が暗い。もっと積極的に、有望的に述べる必要がある」と言ったのです。中沢少将は驚き、次の様に反論しました。(ウツボ)読んでみよう。「お言葉を介すようで恐縮ですが、本日お集りの方々は海軍最高の地位におられる方々のみで、これらの方々に対し、祖国の将来について真剣に、無私の心境で考えていただかなくてはならないと考えましたので、私は所信通り申し述べました」(カモメ)「これが実施部隊(連合艦隊、各艦隊など)の指揮官、参謀長でありますれば、部下の士気振作を考慮し、もっと有望かつ戦況打開策があるかのように説明いたします」。(ウツボ)これに対して、嶋田大将は一言も言わず、話はそれで終わったという。(カモメ)「歴代海軍大将全覧」(半藤一利・横山恵一・秦郁彦・戸高一成・中公親書ラクレ)に、嶋田繁太郎大将の記述があります。(ウツボ)この中で、著者の半藤一利(はんどう・かずとし・昭和五年生まれ・東京・東京大学文学部国文科卒・文藝春秋社入社・「日本の一番長い日」執筆・週刊文藝春秋編集長・週刊文春編集長・文藝春秋編集長・『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞・専務取締役・文藝春秋退社・作家に転身・『ノモンハンの夏』で山本七平賞・『昭和史』で毎日出版文化賞・著書多数)は次のような思い出を記している。(カモメ)読んでみます。「私は戦後、嶋田繁太郎に二度会っています。自宅を訪ね、奥さんに伊藤正徳さんの紹介状と僕の名刺を出すと、玄関口まで本人がちゃんと出てきて、正座して、丁寧にお辞儀する」(ウツボ)「私は立ったまま、『閣下にお話を伺いたいと思いまして』と言うと、黙ったまま返事をしない。なんか一言、二言、言うんじゃないかと思っていても、何も言わない」(カモメ)「しばらく顔を見ているんですが、黙っている。しょうがないから、質問するのですが、イエスともノーとも言わず、ただ黙っている。口を開かない理由も言わない。二度行って、一言も言葉を交わすことができなかったんですよ」。(ウツボ)ちなみに、半藤一利の義祖父は夏目漱石。半藤一利の妻、半藤末利子(随筆家)の父が松岡譲(小説家)で、母の筆子が夏目漱石(小説家)の長女。 【吉田善吾(よしだ・ぜんご)大将】(カモメ)吉田善吾は、明治十八年二月十四日生まれ。佐賀県出身。農業・峰与八の四男。後に米屋を営む吉田祐次郎の養子となる。旧制佐賀中学校に進学し、「誠友団」と名付けた交友会に加入した。同会には次のような人物がいた。(ウツボ)古賀峯一(こが・みねいち)元帥海軍大将(佐賀・海兵三四・十四番・海大一五・連合艦隊参謀・大佐・在仏国大使館附武官・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権随員・海軍省副官・一等巡洋艦「青葉」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・軍令部第三班長・軍令部第二部長・第七戦隊司令官・中将・練習艦隊司令官・軍令部次長・第二艦隊司令長官・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・殉職<海軍乙事件>・元帥・功一級)。(カモメ)下村湖人(しもむら・こじん・明治十七年生まれ・佐賀・東京帝国大学英文学科卒・母校の佐賀中学校教師・鹿島中学校校長・講演活動・文筆活動・小説家・『次郎物語』執筆開始・壮年団中央理事・終戦・『次郎物語・第四部』執筆・全日本青年産業振興会顧問兼幹事・『次郎物語・第五部』執筆・死去・著書多数)。(ウツボ)吉田善吾は古賀峯一とは「誠友団」以来友人となった。二人とも明治十八年生まれだが、海軍兵学校は吉田善吾が二期先輩。また、下村湖人の『次郎物語』に登場する「新賀峯雄」は古賀峯一だ。(カモメ)吉田善吾は明治三十七年十一月海軍兵学校(三二期・十二番)卒業、少尉候補生(十九歳)。