666.海軍撃墜王列伝(6)敵のセブンマイル飛行場上空で、三回連続の見事な編隊宙返りを行った
(ウツボ)それを見た坂井三郎少尉(佐賀・佐世保海兵団入団・海軍砲術学校・第三八期操縦練習生首席・大村航空隊・三等航空兵曹・第一二航空隊・二等航空兵曹・大村航空隊・高雄航空隊・第一二航空隊・一等航空兵曹・台南航空隊・太平洋戦争・ラバウル第二五航空戦隊・ガダルカナル上空で負傷・内地送還・台南空教官・飛行兵曹長・豊橋航空隊・大村航空隊教官・横須賀航空隊・少尉・第三四三航空隊戦闘七〇一飛行隊・終戦・中尉・撃墜数六四機)は、「やめろ、非難しろ」と叫んだが、杉田上等飛行兵曹ら二機は離陸した。(カモメ)この離陸中の、杉田上等飛行兵曹機と宮崎二等兵曹機に<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>が襲いかかり二機とも撃墜されたのですね。(ウツボ)そうだね。戦死後、杉田庄一上等飛行兵曹は二階級特進して少尉に進級した。享年二十一歳。撃墜数は、単独、協同合わせて一二〇機以上とされている。【西沢広義(にしざわ・ひろよし)中尉■戦死・87機】(カモメ)西沢広義は大正九年一月二十七日生まれ。長野県上水内郡小川村出身。父は退役軍人で、広義は三男。高等小学校を卒業後、生糸工場に就職。(ウツボ)昭和十一年六月乙種飛行予科練習生第七期。昭和十三年八月飛行練習生陸上機班を七十一名中一六番で卒業。(カモメ)西沢は、身長一八〇センチの長身で、戦闘機搭乗員として不向きとされ、陸攻または飛行艇へ回されそうになりましたが、射撃が抜群の成績なので、戦闘機への座を獲得したのです。(ウツボ)昭和十四年三月戦闘機専修教育(大分海軍航空隊)。練習機は、<中島・九五式艦上戦闘機・複葉>と<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>。昭和十五年十月鈴鹿海軍航空隊(偵察専修者練習航空隊)配属。(カモメ)昭和十六年十月千歳海軍航空隊配属。サイパン、ルオットと移動。(ウツボ)昭和十七年二月トラックからラバウルに進出。二月三日、<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で<コンソリデーテッドPBYカタリナ双発哨戒飛行艇(米国製)>を初撃墜と報告。だが、オーストラリア空軍の報告ではこの機は被弾したが帰投。二月十日第四航空隊配属。(カモメ)昭和十七年三月十四日、ホーン島(ポートモレスビー近く)上空の空戦で、<カーチスP-40「ウォーフォーク」戦闘機>八機(二機は不確実)を味方四機で協同撃墜した時が、西沢二等飛行兵曹の初撃墜。(ウツボ)昭和十七年四月ラバウルの台南航空隊配属。十一月台南航空隊は第二五一海軍航空隊と改称、再建のため豊橋に帰還。(カモメ)昭和十八年五月西沢上等飛行兵曹はラバウルに再進出。(ウツボ)九月第二五三航空隊配属、南東方面艦隊司令長官・草鹿任一(くさか・じんいち)中将(石川・海兵三七期・二一番・海大一九期・戦艦「長門」砲術長・海軍砲術学校教官・大佐・軍令部出仕・欧米各国出張・二等巡洋艦「北上」艦長・海軍省教育局第二課長・戦艦「扶桑」艦長・少将・海軍砲術学校長・第一航空戦隊司令官・支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長・海軍省教育局長・中将・海軍兵学校長・第一一航空艦隊司令長官・南東方面艦隊司令長官兼第一一航空艦隊司令長官・戦後株式会社光和堂社長・旧軍人関係恩給権擁護全国連合会会長・軍恩連盟全国連合会名誉会長・ソロモン方面遺骨収集・勲一等旭日大綬章)より一〇〇機撃墜記念の感状と「武功抜群」と書かれたのし紙が巻かれた白鞘の軍刀が授与された。(カモメ)昭和十八年十一月飛行兵曹長に進級、海軍大分航空隊配属、飛行学生教官。(ウツボ)昭和十九年三月第二〇三航空隊配属。七月戦闘第三〇三飛行隊所属。十月捷号作戦のためフィリピン進出。十月二十六日輸送機に便乗して移動中に米国戦闘機に撃墜され、戦死。二階級特進により中尉。<空戦記録>(カモメ)昭和十七年四月、ラバウルの台南航空隊に配属された西沢広義二等飛行兵曹は、中隊長・笹井醇一(ささい・じゅんいち)中尉(東京・海兵六七期・第三五期飛行学生・台南航空隊・ラバウル進出・第二五一航空隊中隊長・ガダルカナル飛行場上空で戦死・二階級特進で少佐・撃墜数五四機)の列機となりました。(ウツボ)当時、坂井三郎一等飛行兵曹、西沢二等飛行兵曹と、太田敏夫二等飛行兵曹は、台南空の三羽烏と呼ばれていた。(カモメ)五月二十七日、この三羽烏はポートモレスビーを攻撃後、敵のセブンマイル飛行場上空で、三回連続の見事な編隊宙返りを行ったのですね。(ウツボ)そうだね。高度四〇〇〇メートルで三回、高度二〇〇〇メートルで三回行ったが、敵の対空砲火はなかった。(カモメ)何食わぬ顔で帰投した三羽烏でしたが、やはりこの宙返りが上層部に漏れてしまい、笹井中隊長から油をしぼられました。