意外な戦史を語る~ カモメとウツボのメクルメク戦史対談

2015/09/13(日)15:40

35.2.26事件(5) この酒は名前がいい雄叫というのだ、一本あげよう、自重してやりたまえ

2.26事件(10)

(カモメ)昭和12年8月19日に処刑された磯部浅一元主計大尉は獄中で「行動記」を書き残しています。 (ウツボ)うん、村中孝次元大尉とともに処刑されるまでずいぶん克明に記している。「行動記」は貴重な資料だが、磯部の魂の叫びでもある。磯部は軍の仕打ちに対して怒涛の怒りを持っていたようだ。 (カモメ)「行動記」によると、磯部は昭和10年12月中旬に古荘幹郎中将、真崎甚三郎大将、山下奉文少将に会っていて、人物評を述べています。 (ウツボ)その人物評だが、古荘について、一流の理屈をクドクドと云っていて、とても吾々の様にせいている人間と話があいそうにもなかったが、小川(三郎)が「このままおいたら必ず血を見ますがいいですか」と云ったのに対し、「ウウ」とつまった、と記している。 (カモメ)山下については「改造改造というが、案があるか、案があるならもって来い。アカヌケのした案を見せてみろ」と嘲笑した態度だった。「案よりも何事か起こった時どうするかと云う問題の方が先だ」と磯部が云うと山下は「アア何か起こった方が早いよ」と云って泰然としていたという。 (ウツボ)真崎は「このままでおいたら血を見る、俺がそれを云うと真崎がせん動していると云う。何しろ俺の周囲にはロシヤのスパイがついている」と時局いよいよ重大機に入らんとするを予期せる如く語ったと記している。 (カモメ)昭和11年1月23日の夜、磯部は川島陸軍大臣にも面会しています。その時のことを「この会見に於いて、予の川島から受けた感じは、何事か突発した場合、弾圧はしないと云う事であった」と記しています。 (ウツボ)それにね、磯部が帰るとき、川島陸軍大臣は銘酒の一升ビン一本を取り出し「この酒は名前がいい雄叫というのだ、一本あげよう、自重してやりたまえ」とすこぶる上機嫌だったんだ。 (カモメ)そのことから、磯部は「何だか吾々青年将校に好意を有している事を推察するに難くなかった」と思った訳ですよね。 (ウツボ)そうだろうね。1月28日には、磯部は再び真崎大将を訪ねている。真崎は「何事か起こるなら、何も云って呉れるな」と言った。 (カモメ)その時磯部は、統帥権干犯問題に関して決死的努力をしたい、相沢公判も始るので「閣下も努力していただきたい」といって、五百円の都合を願った。つまり五百円くれと言った。 (ウツボ)それに対して、真崎は「それ位なら物でも売ってこしらへてやろう」と云って快諾した。 (カモメ)当時の五百円と言えば大金ではないのですかね。 (ウツボ)う~ん、確か当時の一円はおそらく、現在の千円位だろうね。だから、現在に換算すると五十万円位くれと言った事になるんじゃないかね。真崎は何を売ったか知らないが。 (カモメ)刀の二、三本でも売れば、その位にはなるんじゃないですか。 (ウツボ)ハハハ、骨董の壷とかね。真崎大将の趣味を調べたら分かるかも知れないな。もっとも、本当に物を売ったかどうか。 (カモメ)とにかく、このようなことから、磯部は「余は、これなら必ず真崎大将はやって呉れる、余とは生まれて二度目の面会であるだけなのに、これだけの好意と援助をして呉れると云う事は、青年将校の思想信念、行動に理解を有している動かぬ証拠だと信じた」と断定した。 (ウツボ)それはそう思うだろうね。しかし、事件が起ると、真崎は、実際驚いたらしい。そして、激怒したんだ。 (カモメ)磯部を含め決起した青年将校たちも、5.15事件の判決から、事件処理について楽観的な見方をしていたのですね。 (ウツボ)そうだろうね。何かを行う時は、自分に都合の良いとりかたをする。一方、そもそも、事件の前に事件を予感させる兆候が多々見られたのに、軍はそれを放置していたという記録がある。「最後の参謀総長・梅津美治郎」(芙蓉書房)によると、昭和11年2月初め、憲兵隊の森本少佐は東京憲兵隊長の坂本俊馬大佐に青年将校たちが2月末に行動を起こすと報告しているんだ。 (カモメ)さらにですね、2月中旬、三菱本社は独自の調査網で青年将校たちが行動の具体化を練る会合を開いていると憲兵に通報した。だが、憲兵隊は反乱を未然に防ぐことはしなかった。 (ウツボ)また、2月17日の夜、歩兵第三連隊の常盤稔少尉は、部下を率いて警視庁襲撃の予行演習を行った。熱狂的な兵士達は携行した銃剣を手にして警視庁の建物をくりかえし攻撃演習をした。 (カモメ)一部は内部に入り、二階にまで上った者もいたらしい。狼狽した警視総監が第一師団と東京警備司令部に抗議したところ、満州における戦闘の夜間演習であると言い渡されたというんですよ。 (ウツボ)それは、その時の、東京警備司令官は香椎浩平中将、第一師団長は堀丈夫中将で、両人とも青年将校運動の支持者だった。 (カモメ)当時内大臣の秘書官長であった木戸幸一は戦後「いまだに私は、軍当局がなぜ事前に予防措置をとらなかったのか、理解できない」と告白していますね。

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