意外な戦史を語る~ カモメとウツボのメクルメク戦史対談

2015/08/16(日)11:40

158、陸軍大学校の光と陰(8)日本を亡国に陥れたのは陸軍の枢要な地位にいた陸大の卒業者達だ

陸軍大学校の光と陰(10)

(カモメ)一般の会社でも同じですよね、大学を出たからといって、全員が部長や重役になれるわけでもないし。 (ウツボ)それはそうだよ。会社に大きな利益をもたらす実績を上げて、さらに部下の面倒見も良く、上司にも受けが良くないと、上層部に認めてもらえないし、上級幹部への昇格は難しいだろうからね。 (カモメ)逆に会社員でも出世競争に疲れてきたら、植木等の「ドント節」ではありませんが、「気楽な稼業ときたもんだ」と開き直る人もいますね。軍隊や自衛隊でも平時においては、そのようなところもあるのでしょうね。 (ウツボ)う~ん、それは多少あるかも知れないが、軍人や自衛官は国防が使命で、有事には命をかけて仕事をする訳だから。訓練はそうはいかない。会社員は最終的には会社の利益追求が目的となっている。そこに命までかけて仕事はしないだろう。 (カモメ)仕事に対する根本的な目的意識の違いですね。 (ウツボ)そうでなければ、おかしいよ。ところで、本題に戻るけど、陸大には専科学生という制度が昭和八年に設けられた。隊務などで、陸大に入校できなかった者、また、受験に失敗した者などの中から、大尉、少佐を試験選抜により一年間入校させた。 (カモメ)専科学生の一期生は十名でしたが、その後戦争の拡大とともに増員し、昭和十五年には七十名を入校させました。卒業者は、ほとんど師団クラスの参謀になりました。 (ウツボ)当時は陸軍大学校の権威は光り輝いていた。士官学校、幼年学校、歩兵学校など陸軍の学校は教育総監部に属していたが、陸軍大学校だけは参謀総長の管轄下にあった。 (カモメ)だけど、意外なデータもありますね。明治三十二年十一月に士官学校を卒業した第十一期生から、大正七年五月に卒業した第三十期生までを見ますと、卒業者総数は一万人以上ですね。 (ウツボ)うん。一応資料では一万三千三百九名となっている。 (カモメ)そのうち優等卒業生、恩賜組は一・五パーセントに当たる百八十五名です。ところが、この恩賜組のうち、四〇パーセントの七十五名が陸大に進学していないというデータがあります。 (ウツボ)陸軍士官学校の恩賜組が所属部隊長の陸大受験の推薦を得られないということは考えられないから、恐らく自発的に陸大を志望しなかったのだろうね。 (カモメ)そうでしょうね。さらに、この間には日清戦争、日露戦争があり、陸大は閉鎖され、恩賜組の少尉、中尉の多くは出征したためと思われます。 (ウツボ)だが、隊付将校として生き甲斐を感じて、参謀の道をあえて歩まなかった者も多くいたのだろう。 (カモメ)また、村井勝のように、中央幼年学校、士官学校(一五期)とも恩賜ですが、陸大へは行かず、砲工学校を首席で卒業、東大工学部へ派遣され、中将まで進級した軍人も多いですね。 (ウツボ)砲工学校高等科を優等で卒業したら、東京帝国大学理学部や工学部へ員外学生として派遣し、三年間で大学卒業資格を得る道も開けていた。この技術コースに乗れば、大抵、将官になれた。 (カモメ)永持源次も幼年学校、士官学校(一五期)とも恩賜の優等ですが、陸大へは行かず砲工学校高等科を優等で卒業しました。中将まで昇進し、造兵廠長官になっています。 (ウツボ)「陸軍参謀」(文春文庫)によると、昭和二十年の敗戦によって、日本を亡国に陥れたのは陸軍の枢要な地位にいた陸大の卒業者達だ、と厳しい批判が出た。 (カモメ)それについては、具体的には、飯村穣陸軍中将(陸士二一恩賜・陸大三三)は、その著「現代の防衛と攻略」で次の様に述べています。 (ウツボ)読んでみよう。「陸大の戦術で教えたものは一言で言えば、日露戦争の経験により日本独特のものと自負した対ソ戦法の練磨であって、戦術はわずかに行われる兵棋などの対抗訓練と戦史とで教えたに過ぎない」 (カモメ)続けて読みます。「しかも陸大の入試が極度に難しいので、多大の努力を傾け、おまけに三年間、猛烈に鍛えられるので、卒業すればほっとして、いわゆる過早天狗になってしまった。このことが大東亜戦争の開戦と敗戦の主因であった」と述べています。 (ウツボ)飯村中将は陸大卒業以後、陸大の兵学教官、幹事、校長など七年に亘って陸大教育に携わってきた人だ。だから、この言葉には強烈な実感がある。 (カモメ)日本は敗戦しました。もともと戦争指導というのは、軍人の専管事項ではありませんね。国内外の動向を透視し、それに適応する大作戦を進めつつ機をうかがうのは、政治家の本領ですね。 (ウツボ)その通りだね。だが、日本では陸大出の軍人がそれを専行していた。 (カモメ)そもそも昭和十八年までは専ら対ソ戦を前提としていましたからね。 (ウツボ)その後だね、対米英作戦が本格的に教育され始めたのは。だから戦術も創意工夫と称する場当たり的な戦術となった。 (カモメ)すべてに間に合わなかったのですね。国力も伴わない、総力戦準備もままならない。だから精神主義が鼓吹されるようになり、地に足の着いた本格的戦術教育はできなかったといわれています。

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