テーマ:意外な戦記を語る(748)
カテゴリ:潜水空母・伊401
(カモメ)坂東航海長の報告が終わると、セガンドの米軍士官は「横須賀に回航せよ」と言いました。だが、なぜか、有泉司令はこれに頑固に反対したのです。「われわれは天皇の命により、大湊に回航しなければならない」と。
(ウツボ)すると米軍士官は「天皇はマッカーサー将軍に降伏したのであるから、マッカーサー将軍の命令に従うべきである」と言った。この米軍士官のほうが正論だった訳だ。 (カモメ)結局、伊四〇一は横須賀に回航することに決まったのです。南部艦長はその米軍士官が帰艦するとき、サントリーの角瓶を一本やったのです。そのあと、米国潜水艦セガンドから下士官一名を含む五名が監視員として乗艦してきました。 (ウツボ)逆に、坂東航海長は再びセガンドに戻り、乗り移った。ジョンソン艦長とは、最初は敵意があって固かったが、話し合ううちに打ち解けてきた。 (カモメ)交渉は円滑に進みました。最後にジョンソン艦長は「横須賀まで、連絡将校としてセガンドに乗って行かないか」と坂東航海長を誘った。横須賀に入港すると、ジョンソン艦長は記念にと坂東航海長にライターを贈りました。 (ウツボ)実は、米国の戦史家M・C・ロバーツによると、当時、東京の日本海軍司令部はハルゼイ提督にメッセージを送って「伊四〇一は危険であるから、米国艦船を接近させないでほしい」と伝えていた。 (カモメ)それで、米国側は、伊四〇一を腫れ物に触るような扱いをしていたのですね。 (ウツボ)そうだね。こうして伊四〇一は米国潜水艦セガンドに見守られながら横須賀に向った。艦は敵の手に渡るのだから、艦内を清掃して、いつでも引き渡せるようにした。南部艦長自身も私有品で没収されて困るものはすべて海中に投棄した。 (カモメ)いよいよ明日八月三十一日は横須賀入港という日。その夜はなんとなく異様な空気が艦内にみなぎったのです。敗戦、降伏という日本の歴史にない悔しさと屈辱感、その反面、生きて帰れたという安堵感、そして明日の運命を予測できない焦燥感、そんなものが暑い艦内を渦巻いていました。 (ウツボ)米潜水艦セガンドは、相変わらずピタリとついてくる。魚雷発射準備は完了して、何かあったら撃沈するつもりに違いなかった。 (カモメ)アメリカ兵の監視員は艦橋の後部に陣取って、動こうともせず警戒していました。「それほど緊張して警戒しなくても、われわれは危害を加えたり、艦を沈めたりしないのに」と、南部艦長はおかしく思ったそうです。 (ウツボ)南部艦長はまる二日眠っていなかったが、その夜、落ち着かない気持ちのまま艦橋に立った。すると有泉司令が、下の機銃甲板に立って、暗黒の海を見つめていた。 (カモメ)その心に去来するものは何だったのでしょうか。無念さでしょうか。 (ウツボ)ほぼ一年間、この潜水空母と晴嵐攻撃機の育成に粉骨砕身してきた有泉司令の無念さは想像に絶するものがあったことは確かだ。 (カモメ)八月三十一日の明け方、南部艦長は艦長室でうとうとしていました。すると突然異様な音がしたのです。とっさに隣の司令室に飛び込みました。 (ウツボ)司令室には、硝煙の匂いが立ち込め、おびただしい血が飛び散っていた。有泉司令は第三種軍装に威儀を正し、みごとに自決していた。帯勲して左手に軍刀、右手に拳銃を握って銃口を口にくわえて、引き金を引いていた。 (カモメ)時刻は午前四時二十分でした。机の上にはハワイ九軍神の写真が飾ってあり、その前に供えるように三通の遺書がありました。一通は南部艦長宛、一通は海軍宛、もう一通は家族宛でした。 (ウツボ)南部艦長宛ての遺書には次の様に書かれていた。 (カモメ)読んでみます。「太平洋なくしては独立も存続もかなわぬ日本である。小生は将来の日本の再建と発展をこの太平洋の海底からいつまでも見守っている」 (ウツボ)次を読むよ。「われわれが最も誇りとする軍艦旗とともに、小生は太平洋の底深く身を沈めることを光栄とする。午前五時には星条旗の掲揚を余儀なくされたが、それを見るに忍びない」 (カモメ)南部艦長は、この三通の遺書に目を通した後、米軍に知られないように水葬を命じました。有泉司令の遺体は毛布に包まれ、バラストが入れられ、軍艦旗で巻かれました。軍医長は死体検案書を書きましたね。 (ウツボ)そうだね。前部二番ハッチを開いて、艦橋後部にいるアメリカ兵の監視員の目を盗み、遺体を上部構造物のすきまから水葬した。 (カモメ)終戦後、「潜水艦隊」(井浦祥二郎・朝日ソノラマ)の著者、井浦大佐宛にも有泉大佐の遺書が届きました。その遺書には、日本海軍を思う切々たる文章が書き連ねてあったそうです。 (ウツボ)そして最後に、「祖国の敗戦によって、自己の生命をこの世に永らえることは、無意味なるが故に、自刃する」旨が記してあった。 (カモメ)有泉司令と長い間の親友だった井浦大佐はその遺書を読んで、男泣きに涙を絞りました。有泉司令と井浦大佐は兵学校五一期の同期でした。海軍大学校は、有泉司令は三五期、井浦大佐は三三期でしたが。 (ウツボ)「潜水艦隊」(井浦祥二郎・朝日ソノラマ)によると、実は、有泉司令の自決の原因と考えられるのが、機銃掃射事件ということだ。昭和十九年七月、当時、有泉艦長の伊八号潜水艦が、インド洋でアメリカの軍艦ジーン・ニコレットを撃沈した。そのときに起こった事件だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.08.15 09:10:00
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