2005/12/06(火)06:19
三位一体改革の決着と次なる地方分権の展望を考える
三位一体改革は結局妥協で終わった。歴史的な意義と一定の評価はするものの、内容については不満が残る、というのが大方の捉え方だろう。
今回の「改革」に対する評価について、いつくかの新聞を読んだ。
読売新聞は3日(土曜日)に、吉田和男、神野直彦、片山善博各氏の評価を載せている。最も切れが鋭く、しかも騒動の本質を突いていると思うのは、霞ヶ関システム自体の抜本改革の必要を唱える片山知事の意見だ。もっとも、2人の経済学者の指摘する問題もそれぞれ重要である(地方交付税のモラルハザードの点、改革目的を見失った迷走に終始した点)。
勿論これらの意見が相矛盾しているわけではなく、問題の複雑な塊に対する、光の当て方の違いである。すなわち、(1)吉田氏は、主に中央財政の視点から、現行地方交付税制度の非効率性を重視し、(2)神野氏は、主に分権の必要性の視点から、分権の目的を見失ない補助負担金削減の議論に陥ったダッチロール現象を憂い、(3)片山氏は、今回の苦し紛れの結果から、逆に、補助負担金分配業務を核とした霞ヶ関の病理が手つかずであることを指摘する。
これら全てが、問題だったのだ。
日本経済新聞は5日(月曜日)に解説を出している。初めての大規模な税源移譲という歴史的意義があるものの、地方の裁量がさほど広がったとは言えず、今後は交付税システムの改革が急務だ、という論調。
後段の交付税改革が今後の焦点とする点は、財務省の誘導や、中央財界、吉田氏のような財政学者の見方に乗っかっているのだが、それも課題として存在することは間違いない。
私は、今回の「三位一体改革」が財源論から出発した(と思われた)ことに生来の限界があったと思う。
本当はカネの論理の議論ではないはずだけれど、財務省などが強力にバイアスをかけて、カネの論理に矮小化してしまった。補助金削減で数合わせ、或いは、交付税だと地方はムダに使います、けどそれでも良いなら補助金削減は歓迎(交付税は総額で抑制だ)、などの議論がまかり通ったゆえんである。各省庁も、同床異夢なのだけれど、国益ではなく省益維持という点で行動指針はハッキリしていた(特に厚生労働省と文部科学省は国民的視点のない省益対応の点では金メダルに値する)。
あるいは、こうした私の評価は、「三位一体」に過度のものを期待しすぎているのかも知れない。
2000年4月施行の地方分権一括法がそもそも不十分だった。今回はこのことが浮き彫りになったと思っている。
典型例は、生活保護費国庫負担金の問題である。そもそも生活保護は現行法制上はれっきとした国の事務である。生活保護の実施(生活保護法第19条)は、本来国の事務を法定受託事務として都道府県や市が実施するのである。だが、当然ながらその財源は国が手当てしなければならず、国が負担金を支出する(同法第75条)とともに、一般財源分の必要額が交付税措置されていることになっている。
今回、「財源をくれと言いながら生活保護の国庫負担率引下げには反対」という地方側の言い分は筋が通らない、などという論調もあったが、少なくとも現行法制上は生活保護は国の事務なのだから、十分な財源措置をすべきだというだけの話であって、税源移譲しても地方の裁量につながるとは言えない世界である(国の負担金配分事務に要する人員の削減などの効果はあろうが)。
財源論(カネの論理)だけの矮小化した論議として見るから、事務配分の基本的議論などはすっ飛ばされてしまい、カネが欲しいのか要らないのか右往左往している地方側の言い分は筋が通らない、となるのである。
また、義務教育国庫負担金などは、義務教育が自治事務とされながら、「国庫負担金」として残されている。これでは訳がわからない。かたや法定受託事務なのに地方が独自の手数料収入で賄え、とされる事務まである(パスポート発給など)。バラバラ。
これは、そもそも法定受託事務・自治事務と国庫負担金・補助金の関係など、地方行政制度と地方財政制度の関係がキチンと整理されないまま残されたことに根本的問題があるのだ。訓示規定だけの地方分権と酷評されたゆえんだ。
この問題は、財源論ではなく、もっと幅が広く根の深い問題である。国の各省庁は、法定受託事務だろうが自治事務だろうが、あるいは負担金だろうか補助金だろうが、お構いなしで、すべて地方統制のツールと認識している。自治の論理なんて考えていない。整理したくないのだ。
財源論(カネの論理)だけではなく、地方の事務と国の事務の整理、そして本当に地方が自主的に事務を実施できるような地方財政システムのあり方を、改めて議論して欲しい。
とすると、期待できる次のチャンスは、道州制論議である。それしかない。折しも、現行の第28次地方制度調査会は、道州制導入にこれまで以上に踏み込むようである。
現行の地方制度の枠内での再編ではなく、国の事務がいかにあるべきかの観点から、真剣に論議してほしい(とすると総務省所管の地方制度調査会には、必然的に限界が予想される)。
もちろん、地方制度の枠内でも都道府県と市町村の関係は整理しなければならない。都道府県を道州に、という発想ではなく、都道府県を廃止して、国から道州を持ってくる、という観点だろう。その際に、何が国の事務で何が道州の事務かという機能的観点だけではなく、霞ヶ関が政治家と結びついて省益と利権の自己増殖のリバイアサンの心臓となっている実態を直視し、このムダをいくらかでも排除する観点で議論して欲しい。
今回の三位一体改革は、財源論に矮小化されながらも、一定の意義は確保した(と言いたい)。今度は、国と地方を通じた、日本システムの壮大なムダの核心に切り込んで欲しい。
政治的難題だが、どこまでできるか。政治リーダーの問題意識と、固い決意と、そして、諦めかけた国民に期待を抱かせながら増税議論などとの調整を果たす、手法面でのある種の老練さ狡猾さも要求されるだろう。
小泉内閣が掲げる族議員の排除ともつながる課題だが、それよりももっと高度な難題だろう。