仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010/08/30(月)06:02

半田銀山と五代友厚

東北(1208)

半田銀山は遠く桓武天皇の大同年間に起源すると言われる。慶長から万治年間に至る50年間にはすこぶる隆盛を極めた。 「伊達はよいこと半田の銀山、末ははだかになる半田」との俗謡は日本中の坑夫が知っていたという。また、先代萩の芝居で御殿の場の一節に、政岡が「七つ八つから金山へ同じ名のつく千松は」と述懐するが、これは60余万石の重臣だった政岡が、半田銀山の一坑夫をうらやんだものと解されるくらいで、半田の当時の繁昌がわかる。 寛文年間に上杉侯が開坑するようになり、その後ほとんど廃坑同様で40年ばかりが過ぎて、近所の農夫が余暇に遺鉱を採掘したりしていた。寛永年間に松平宮内少輔が稼行したのち徳川幕府のものとなり、120年ほど幕府の手で、生野、佐渡と同時に奉行所を置き稼行されたが、元治年間に廃棄。慶應3年、北半田村の早田伝之助が私営開坑して明治3年まで稼行。 かくて、明治7年に、五代友厚の経営となり再興する。 五代友厚は、明治初期の財界指導者として渋沢栄一と並ぶ偉人。大阪を一大工業都市に育て、鉱山王として関西実業界の大御所であった。薩摩の出身で、14歳の時藩主島津斉彬から世界地図の描写を頼まれてたちまちに書き上げ、また16歳の時、汽船と紡績業の重要性、海外に留学生を送るべきことを建言したという。 五代の経営した当時は、佐渡金山、生野銀山とならんで日本三大鉱山と言われた。設備は洋式、1か月の純益30万円以上は当時最大で、後年に三井、三菱、古河は、五代の鉱山経営を手本とした。 五代は明治6年に資本金数十万円を投じて鉱山経営の本拠地として弘成館を設立したが、その組織は整然として規模も雄大。西館だけでも役員二百余名、鉱夫など現場従業員は万をもって数えたという。 明治7年に小野組の破産で手放された秋田の阿仁、院内の両鉱山を五代は手に入れようとしたが、熱心な希望をもった古河市兵衛に譲った。明治9年には明治天皇が行幸され、古田市十郎が事業報告を申し上げている。 五代友厚は明治18年9月51歳で死去。長男の龍作(のち工学博士)が経営した。福島市外庭坂村に水力発電所を創設した菅原道明が半田銀山に行って、五代龍作から水力電気の原理を教わっている。 ■岡田益吉『東北開発夜話・続』金港堂出版、1972年 から ■関連する過去の記事  ハンダの名の由来 桑折町(2010年8月7日)

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