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2010.10.24
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カテゴリ:東北
■本記事は4回シリーズとしています。
 東北の道 概説(その1 古代)(10年10月23日)
 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(10年10月24日)
 東北の道 概説(その3 中世)(10年10月24日)
 東北の道 概説(その4・完 近世)(10年10月24日)


1 古代の官道整備と平泉政権を支えた道

東山道が多賀城から胆沢城に延長し、また多賀城から出羽雄勝城、さらに笹谷峠越えで内陸から庄内、秋田に通じる横断道も開かれた。これを舞台に東北の交流は展開するが、その主体性をもっとも体現するのが古代末期に登場した平泉政権である。

平泉の都市社会はもはや蝦夷論や俘囚論の国家論のみで問われるものでなく、京や東北各地との交流を通して練り上げられた地域権力であり地域文化である。

その交流の道として、白河から外が浜までの幹線整備、浜通りを北上し平泉に達する東海道(あずまかいどう)、秀衡街道、平泉から津軽十三湊への道、北上川舟運などがあった。

2 奥大道

藤原清衡が奥州の覇権を掌握して最初に手掛けたのは、白河関から外が浜(陸奥湾)にいたる幹線である奥大道の開発整備である。徒歩20日の行程の一町(108メートル)ごとに金色の阿弥陀像を図絵した笠率都婆(卒塔婆)を建て、中心に関山中尊寺を配したという。奥大道は、笠率都婆により荘厳を施され、壮大で超越した広域的支配を支える聖性を備えていたと言えるだろうか。また、夥しい品目を調達し京に届け、政権をアピールする生命線でもあった。

ただし、陸路のみでなく、牡鹿湊(石巻港)に至る北上川の水運と、関東・東海の太平洋沿岸を経た海運のルートも忘れてはならない。

3 北方世界と奥大道

藤原氏の影響力は奥大道を通じて、糠部・久慈・閉伊から、鹿角・比内、そして津軽四郡(平賀、鼻和、田舎、山辺)、外が浜、西が浜、さらには夷が島、千島、サハリン、沿海州方面に広がる北方世界に及ぼされた。北方から豊かな物産がもたらされただけでなく、平泉の側からも渥美・常滑の壺、京都風の素焼土器、中国産白磁の壺などが搬送された。

北方世界のうち本州部分は中世から近世にかけて陸奥国の行政区画に組み込まれ、海峡を越えた夷が島さえ陸奥国の延長として認識されることがあった。このうち、鹿角・比内の両郡、津軽四郡や外が浜、西が浜が、太平洋側の陸奥国に含まれるというのは自然でない。本来なら出羽国に組み込まれるべきところだろう。奥大道を通じた陸奥国側からの政治的影響力が強大だったということだろうか。

事実、奥大道南北ルート貫通以前の古代には、これらの地域は出羽国の影響下にあった。秋田城から能代に出て、米代川を遡って比内・鹿角に達する東西の道筋が優位を占めていた。また、奥大道南北ルート貫通前は、鹿角・比内、津軽四郡、久慈・閉伊などの諸郡や糠部の一戸から九戸などは、建置されなかったのである。これらの地には、上津野、火内、幣伊、※(金偏に色)屋、仁土呂志、宇曾利など、俘囚、夷人の村が散在するばかりであった。これら北方の住人は、空堀に囲まれた高台の住居群(北方性防御集落)に拠りながら、秋田城や胆沢城に朝貢に赴いて饗給(こうごう)に与ることはあっても、中央政府の直接統治に従うことなく自立した暮らしを維持していた。

奥大道の貫通は、北方世界に中央政府の直接統治を及ぶし、諸郡の建置を進める一大変革を推し進めた。

4 奥大道の貫通時期

清衡の時代には貫通していたのは確実だが、それ以前の清原氏の時代にまで遡るのかどうかが問題である。延久2年(1070)に陸奥守源頼俊と清原真衡の連合軍が北方世界に進出して、「衣曾別島(夷が島)荒夷」、「閉伊七村山徒」を撃つという合戦が行われ、北方世界の全域が中央の直接統治下に置かれることとなった。その10年ほど後には、諸郡の建置を実現した。

従って、この合戦の直後が奥大道の貫通時期とするのが妥当であろう。いずれにしても、貫通時期が前九年合戦(1051-62)より以後であることは問題がない。奥六郡の安倍氏が滅亡させられる以前は、※(金偏に色)屋、仁土呂志、宇曾利などの村が健在で北方の独自性が維持されているからである。

5 奥大道の意義

奥大道は、北方世界と奥南を結び、また京都など日本国の中央と連結したばかりではない。さらに博多を通じて東アジアに至る海上の道にまで連結していた。

12世紀の日本の三大都市は、京都、平泉、博多であった。京都は日本の富を集中した唯一の都市であったが、平泉と博多は民間交易ネットワークに立脚した新しいタイプの地方都市であった。13世紀に鎌倉が都市開発されるまでは、平泉が東日本唯一の都市であった。

このような民間交易のネットワークが形成され国際化の波が奥州にまで及ぶことがなかったならば、安倍、清原、藤原の政治権力の登場は不可能であった。さらには、頼朝の幕府樹立も不可能であった。


■参考 渡辺信夫編『東北の交流史』無明舎出版、1999年 より
 渡辺信夫「東北の交流史」
 熊田亮介「古代東北の海道・陸道」
 入間田宣夫「平泉藤原氏と奥大道の開発」






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最終更新日  2010.10.24 13:13:50
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