仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2011/09/26(月)19:39

仙台駅の位置について(その8)

仙台(536)

明治の仙台駅設置の経緯。逸見英夫さんの書からであり、以前にも記事に書いたが(仙台駅のはなし(06年7月10日))、偽電報や訴訟の経緯など、改めて詳しく引用させていただく。 ■逸見英夫『仙台はじめて物語』1995年、創童舎 (同書は昭和57年に河北新報に掲載した「仙台事物起源片々」に加筆訂正したもの。) ------------ 仙台駅が開業したのは、明治20年12月15日。開業時の駅は、日本最大の私鉄日本鉄道会社東北線の駅だった。東北線構想の最初の提唱者は、、呑象こと高島嘉右衛門。明治5年5月「東京ヨリ青森マデノ鉄道建言書」を工部省に提出している。14年11月11日岩倉具視の尽力で、日本鉄道会社が誕生した。 東北線の工事は、川口・熊谷間が最初で、16年6月5日着工。第三区の白河・仙台間は、塩釜・福島間の測量から始まり、18年12月6日から工事に着手した。 19年春、仙台駅を宮城野原の北端榴岡下に設置する、と会社が発表したところ、時の宮城県知事松平正直は真っ向から反対。東六番丁の現仙台駅論を主張した。「市街を通さなければ、貨物輸送に不便。客は岩切や長町、増田に降りて泊まる。人口も7万、1万2千戸の東北一の繁華街も、寒村古駅となる」と。 反対論に困った会社側は、駅舎変更による工事費増額の半分、3万円の地元負担を要求した。松平は、3万円の地元負担を仙台区(現仙台市)議会に議決させ、東京の第一銀行から借りて、会社に支払ってしまった。 これを聞いた東京在住の旧仙台藩士の会「仙台議会」は、佐藤郁次郎を仙台に派遣した。仙台議会は、会社案の宮城野原駅舎説。のちの大審院判事佐藤は当時、司法省法学校の学生だったので、父危篤の偽電報を家人に打たせて帰郷した。 佐藤は、その夜から、(1)東六番丁の利便は一時的なもので、将来駅舎を移転しなければならなくなる。(2)3万円投ずるなら、仙台-宮城野原間に軽便の交通機関を創設せよ。(3)宮城野原に理想の新市街地づくりをせよ。と有力者を説いて回った。 宮城野原駅舎の賛同者の一人、代言人(弁護士)草刈親明は、仙台区議会を相手取り、3万円寄付決議の取消の訴えを提起した。驚いた会社は3万円を松平に返済。やむなく松平は、利息を工面し第一銀行に返済した。のちに市民有志の寄付で3万円が集められ、現在地に駅舎を建設、松平も面目を保った。その後、第一銀行は、利息分を県警察庁舎建設に寄付している。が、仙台駅は宮城野原か現在地でよいか、開業後ものちのちまで論議が繰り返された。 ------------ ■関連する過去の記事(駅の位置、鉄道ルートなど。なお、歴史に属さない現在の事柄はのぞく。)  やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日)  東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日)  宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日)  宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日)  仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日)  塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日)  仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日)  仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日)  仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日)  大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日)  仙台駅の位置について・続々(06年7月15日)  仙台駅のはなし・続(06年7月11日)  仙台駅のはなし(06年7月10日)  宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)

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