梶原和義のブログ

2011/08/27(土)10:24

梶原和義のブログです。

霊と魂 魂ということは、宗教では正確に説けないのです。仏教には魂という文字がありません。だから説明のしようがないのです。しかし、魂のようなことは説明しています。例えば、大無量寿経の法臓比丘という人の悟りの状態は、魂の状態なのです。それを大無量寿経 では阿弥陀如来と訳していますが、阿弥陀如来と言ってしまいますと、魂という言葉から少しずれてしまいます。 魂というのは、霊に関係があることなのです。霊というのは、魂が働いている状態のことです。 霊というのは、もう少し分かりやすく言いますと、心臓が動いていることです。目が見えるということです。 人間は、自分が生きていると勝手に思っている。自分が生きているという考え方は、非常に傲慢な、むちゃくちゃな考えなのです。人が生きているのは、生きているという事実が生きているのです。英語で言いますと、ザ・リビング(the living)です。ザ・リビングという状態が、人間のかっこうで生きているのです。 生きているという事柄が、霊なのです。魂というのは機能です。霊は状態です。人間の精神的な働きは、肉体的な働きと表裏の関係にあるのです。実は、心理機能と生理機能は一元的なものです。このような機能性を魂と言います。魂は、人間の五官の働きの本質です。これが肉体的な状態になって現れています。この状態を無視してしまいますと、魂と言えなくなるのです。 人間の命の本質は神の言(ことば)であって、これが肉体的に現れていることを魂と言うのです。これを新約聖書で言いますと、ヨハネによる福音書第一章十四節で、言は肉体となったとあります。これが魂なのです。これを聖書ではイエスと名づけています。 イエスというのは、純粋に魂に対する名称なのです。阿弥陀というのも、人間の霊魂のあり方に対するものです。阿弥陀というのは限りないということです。無限に生きる、死なないということです。無量寿と無量光、命と光の二つのものが、阿弥陀如来になっています。 イエスと阿弥陀はよく似ています。阿弥陀は時間的に無限であると言っています。イエスという魂というのは人間とは違います。人が生きている客体性なのです。これは人間とは違うのです。 人間というものはいないのです。人は五官にもとづいて、見たり聞いたり、飲んだりしています。その機能的状態を魂と言います。又、三十年、四十年この世に生きていた人生が霊です。霊は生きていた事柄なのです。霊は人間の心の働きの状態を言っているのであって、魂というのは心の働きを造り出す機能です。 五官の働きの根底、目が見えるということの根底が魂です。仕事ができる根底的な機能性を魂と言います。実は、これは人間のものではなくて、神のものなのです。だから魂は神の子なのです。 人間が魂をつくりだしたのではありません。生まれた時に、神の能力性と同じ能力性を植えられたのです。これはすばらしい能力です。これが魂なのです。 魂は、この世に生まれてきた命の名称であって、後天的な命の名称なのです。人の五官の根底は神の霊です。五官が魂ですが、五官は神から生まれたものでありますから、太陽の光の本質が分かるのです。太陽光線の中に、永遠の生命があることが分かるのです。これが魂の本質なのです。 人間の百四十億の脳細胞の中に、神の命を知るだけの能力性がインプットされているのです。神の思想に基づいて自分の命を見ると、命がそのまま神の命であることが分かるのです。 イエスという人は、神の命をそのまま生きたのです。だから死を破ったのです。イエスがただ一人、典型的に神の命を完全に生きこなしたのです。これができたのはイエスしかいないのです。イエスが私たちの見本です。私たちの命の見本になるのは、イエスしかいないのです。しかも、すべての人の魂は、イエスと同じものなのです。 従って、イエスが死を破っているというのは、すべての人の霊魂もすでに死を破っているということなのです。 キリスト紀元というのは、そういう意味なのです。イエスが死を破って以来、すべての人間は全部、イエス・キリストにおいて死を破っているのです。このような出来事をキリストと言うのです。 現在の人間は、今のままでは死ぬにきまっています。ところが、人の脳細胞には、神の驚くべき知恵が秘められている。これを開発すれば、自分の中にとこしえの命があることが、必ず分かるのです。 人間は百四十億の脳細胞を持っていながら、その使い方を知らないきのどくな状態にあります。だからそのままにしておけば、必ず死んで裁かれます。 イエスという人物はどのように生きていたのか。これを勉強すれば、脳細胞は勝手に開発されるのです。ところがこれをしないのです。キリスト教という宗教ではだめです。キリスト教に、本当のイエスがいないからです。魂がイエスと同じであることを知らないからです。 イエスと私たちの魂は同じなのです。これは天下の秘密です。人間歴史を貫く秘密です。人間の奥義です。 イエスという人は、人間の機能はどういうものであるかということを人々に教えるために、魂がまる出しで来たのです。世間並の人間とは全然違うのです。神の生みたまえる一人子とはそういう人なのです。 ホールボディー 日本人は大和魂といいますが、言うだけであって、魂の実体が分かっているわけではありません。仏教の経典の中には魂という字がないのです。しかしこれは非常に重大な問題なのです。 仏教では魂に似たようなことを言います。それは、似たようなことであって、魂の実体をとらえているのではないのです。 なぜそうなるかといいますと、仏教で言う法とか仏とかいうのは、概念的な形容詞なのです。実体ではありません。概念的な形容は大変重要であって、なければならないのです。 阿弥陀如来という言い方はなければならないのです。ところが、全世界の人間に阿弥陀如来という言い方が通用するかといいますと、通用しないのです。日本人の仏教仲間における概念的な抽象人格になるのです。阿弥陀如来の場合は、抽象神格と言えるかもしれませんが、やはり抽象的な概念になるのです。これは必要でありますけれど、実体ではないのです。 仏教に魂という言葉がないのは、天地を造った実物、天地を造った本当の力が何かが分からないからです。 例えば花が咲いている場合、花が咲いていることの実体は何かということです。花は勝手に咲いているのではありません。誰かが咲かせているのです。誰が咲かせているかということです。 仏教信者は、仏さんが咲かしていると言ういい方をして、ごまかしているのです。日本人としてはそういう言い方をするしかないでしょう。神の実体が分からないからです。 日本人には、創造者、造主という思想が初めからないのです。日本の神は、造主ではありません。八百万の神は、宗教の神であって、誰でもえらい人は神になれるのです。そういう感覚で神を見ていますと、神が全然分からないのです。 日本人が聖書を信じることができないのは、神についての正しい見解がないからです。これは困ったことです。最も、アメリカ人が言っている神も、本当の神ではありません。 欧米人が言っている神は、キリスト教の神であって、聖書に示されている本当の神ではないのです。しかし、日本人の神という概念よりも、聖書に近いとは言えるでしょう。ですから、アメリカ人やイギリス人の思想を聖書的に修正することはできます。ところが、日本人の思想に神を分からせるのは大変難しいのです。 神とは何か。簡単明瞭に言いますと、心臓が動いているという事実が神なのです。神というのは事実であって、夏が暑いことが神なのです。地球が自転公転をしていることが神なのです。人間が死ぬに決まっていることが神なのです。神は絶対不動の真理であって、間違いがないことを神というのです。 絶対不動の創造者、絶対者がはっきり分からなければ、魂という言葉を使うことはできないのです。 真実とは何かを考えることが、一番よいのです。自分の経験とか、自分の判断とか、今まで勉強してきた記憶の内容とかいうものを人間は持っていますけれど、それは魂ではないのです。人間としての記憶なのです。人間としての勉強なのです。 神ということ、魂ということが、日本人には分からない。従って、真実という言葉が分かりません。 真実ということは、花があるということです。心臓が動いているということなのです。これが真実です。しかし、これが日本人には全然分からないのです。 この日本人の悪い癖を直すためには、般若心経の五蘊皆空に従うしかないでしょう。五蘊皆空ということは、宗教も、法律も、道徳も、常識も、皆空であるというのです。 人間はいないのです。生きていてもしょうがないのです。必ず死んでしまうからなのです。 生きているとは、一体どういうことなのか。生きているとは、命を経験していることなのです。ところが、命とは何かということの説明ができない。医学的な命とか、通俗的な命なら、いくらでも説明ができます。ところが、命の真髄が分からないのです。 生れる前に命があったのです。今の命があります。死んでからも命があるのです。死んでから後にも命があるから怖いのです。魂は、過去の命と、現在の命と、死んでから後の命とを貫いて存在しているのです。 新約聖書の山上の垂訓で、イエスが、ホール・ボディー(whole body)と言っています。(マタイによる福音書六・二十二) ホール・ボディーがキリスト教ではさっぱり分からないのです。ホール・ボディーがフル・オブ・ライト (full of light) になる。ホール・ボディー全体が、フル・オブ・ライトになると言っているのですが、そういう魂のつかまえ方が、日本人にはほとんど不可能であると言っていいほど、間違っているのです。だから、根本的に必要なことは、五蘊皆空をつかまえることです。 人間は、常識に従って命を見ています。常識が幻想なのです。人間の常識は幻覚なのです。 今の人間は、良くても悪くても、全部死んでしまうのです。自分が死んでしまうに決まっていることをはっきり認めれば、初めて本当のことを求めはじめるのです。 人間は生きていないのです。人間が生きている現実は、真実ではないのです。神は真実なのです。現実を現実としていることが神なのです。 心臓が動いているという事実が神なのです。こういうことが、常識のために皆目分からなくなっているのです。 五蘊皆空は、現代の文明、人間の感覚を、最も痛烈に批判しているのです。人間の幻覚を猛烈に批判しているのです。これはすばらしい言葉です。この言葉をアメリカ人やヨーロッパ人に教えてあげたいのです。 五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃という言葉は、現代文明の光明なのです。現代文明に対して、日本から照らしてあげるべき唯一の輝きなのです。 般若波羅蜜多がわからなければ、文明は絶対に救われないのです。今の文明は腐っています。学問も腐っています。文明は行きづまり、にっちもさっちもいかないようになっているのです。文明は漂流しているのです。 今の文明には目的がありません。人間文明に、目的がないのです。今の文明は底がぬけているのです。命が分からないからです。命が分かれば、文明に底が入るのです。 命が分からない状態で、何が真実か分からないままの状態で学問という理屈を並べてもだめなのです。今のままでは、六十八億の人間は全部、死の餌食になるだけです。魂がはっきり分かれば、死から出ることができるのです。

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