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昭和からの贈りもの

October 23, 2011
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侍長屋

写真は、先に紹介した大正8年刊行の東京府史跡の中の1枚です。

この建物は霞ヶ関の現在は外務省がある場所にあった筑前福岡藩黒田家上屋敷の侍長屋です。
明治末頃から大正初期に撮影されたと思われますが、福岡藩黒田家の屋敷跡に明治になって外務省が置かれた事から、通称【外務省長屋】と呼ばれていました。

写真を拡大すると、石垣の周りには堀が伸び、右端には立て札も見えますが、きっとこの長屋の解説などが書かれていたと思われます。

侍長屋

次の写真も侍長屋ですが、こちらは【神田橋内長屋】と呼ばれ、旧一橋家上屋敷の侍長屋です。
造りは下見張塗家造で窓の形状は縦格子の?子窓(れんじまど)・(武者窓)です。
現在の神田橋から一ツ橋の内側一帯がかつての一ツ橋家上屋敷で、明治時代には近衛騎兵連隊が置かれ、今は気象庁や東京消防庁がある所になります。
その中でも神田橋近くにあったことから、【神田橋内長屋】と呼ばれていたようです。

各写真の拡大や細かい事は、ホームページ【昭和からの贈りもの】内《大正初期・侍長屋》をご覧下さい。

昭和からの贈りもの 







Last updated  October 23, 2011 11:12:34 PM
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September 14, 2011

昭和17年 伍長昇進

写真に写るのは近衛歩兵第四連隊の面々で前列左から2人目の伯父をはじめ、全員の階級章がラインの上に☆がある【伍長】となっています。
伯父に聞いたところ
「これは皆同じ連隊の連中で、伍長に昇進した時に撮った写真だよ!」
「真ん中で勲章を付けているのは班長だよ・・・」
「ん?左の熊のぬいぐるみ?これは覚えていないな~」
との事でしたが、
「彼は同じ中隊ではないな・・・そうだ!これは連隊の新伍長が集まって撮ったと思うな~」

と言う事で、近衛歩兵第四連隊の新しい伍長が集まっての集合写真のようです。

平成23年11月で93歳となる伯父、は昭和17年2月に【乙種幹部候補生】として軍隊に入隊しました。
この写真が撮られた日付は書かれていませんが、軍隊に入隊して半年後の昭和17年の8月頃には伍長に昇進となりました。
半年で二等兵から伍長というと随分と早く感じますが、幹部候補生ならではだったようです。

昭和17年9月 伍長昇進

こちらは昭和18年9月2日に撮影されたという記載があるもので、大学時代の同級生と一緒に撮った写真です。
伯父は前列右ですが、左隣の方は
「お~彼は仲が良かった遠藤だよ!キンポ2に行ったんだよ!僕がキンポ4で奴はキンポ2!宮城の護衛だよ!」
「後ろは三菱商事に行った伊藤で隣は輸入関係の仕事で海外やいろいろなところに行っていた奴だよ!」
「日曜に久々に皆で会って撮った時の写真だと思うな~。」

と思い出していましたが、卒業後の大学時代の旧友と会った時に撮影したようで、後列のお二人はこの時はまだ召集されていなかったようです。
因みに【キンポ2】とは【近歩2】=【近衛歩兵第2連隊】の略語で、同じく【キンポ4】は【近衛歩兵第4連隊】の事です。
近衛歩兵第2連隊は皇居近辺に連隊本部があり、その跡は現在も北の丸公園内にあります。

この他にも伍長昇進を祝う祖父からの手紙など詳しくは、昭和からの贈りもの【昭和17年・伍長昇進】をご覧下さい。

 

昭和からの贈りもの







Last updated  September 15, 2011 12:43:01 AM
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April 25, 2011

234kokuboufujkinkai.jpg

たくさんの写真の中に、祖母の集合写真がありました。
少しピントが合っていなかった為に確認が遅れた写真ですが、かっぽう着姿だった事から戦時中の写真と思っていました。

バックは上野桜木の自宅近くの寛永寺の本堂のようで、祖母をはじめ婦人部の方々が写っていると思いながらパソコンで補正をしたら、肩の襷に【大日本国防婦人会】の文字が見えてきました。
と言う事は、上野桜木界隈での【大日本国防婦人会】の集合写真のようです。

235kokuboufujkinkai.jpg

【大日本国防婦人会】とは、昭和7年10月に当時の陸軍が中心となって発足した婦人団体です。
この時代には既に明治発足の愛国婦人会と昭和5年発足の大日本連合婦人会がありました。

この大日本国防婦人会は昭和7年3月に、出征する軍人を白いかっぽう着を着て湯茶の世話をして見送りする事を目的とし、【大阪国防婦人会】として最初に発足します。
発足当初は40人程度の会員でしたが、会費が無料から10銭程度で、婦人の労働奉仕が主体だったことから、主婦や婦人労働者を中心に会員数を増やしてゆきます。
これらの事に軍部も注目し、発足7ヵ月後には陸軍支援のもと【大日本国防婦人会】となり、 《国防は台所から》をスローガンに後に1000万人を超える団体となります。

各団体とも会員を募る際などから対抗するような時もありますが、戦時色が濃くなるにつれ、婦人団体の役割も少しずつ変わり、昭和17年には3つの団体が統合され【大日本婦人会】となり、20歳以下の未婚女子を除いて強制的に婦人会に組み入れられる事になります。
かっぽう着姿ももんぺ姿へと変わり、防空訓練や竹槍訓練など銃後の備えとしての軍事色が強くなりますが、終戦を機に解散する事になります。

古い写真の左には旗が見えますが、この旗のマークは大日本国防婦人会のマークです。
またよく見ると端には【大日本】という文字と【谷中第四會・・】の文字も見えます。

C905202kokubou.jpg

以上のように、大日本国防婦人会は昭和7年に結成され、昭和7年で17年には合併によって名称も変わっている事と、祖母やご近所の方々の顔立ちなどから、写真は昭和10年頃から12年頃に撮影されたものと思われます。

この他、愛国婦人会や大日本連合婦人会の事など詳しくは、【昭和からの贈りもの】内《昭和10~12年頃・大日本国防婦人会》 をご覧ください。

昭和からの贈りもの

 







Last updated  May 8, 2011 06:22:42 AM
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March 26, 2011

D0601datsun.jpg

上の写真は以前に掲載したの写真で、伯父が大学時代の同級生と一緒にダットサンに乗って、いわゆるドライブに行ったときの写真です。

この時は王子駅前のロータリーを出発した事までは判っていたものの、何処の橋か不明でしたが、先日都内のMさんから連絡があり、この橋は【戸田橋】ではないか?とのご指摘を頂きました。

早速古い戸田橋が掲載されているという、荒川知水資料館《あらかわ思い出アルバム》のホームページを確認をしたところ、写真に写るのは昭和7年に完成した3代目の戸田橋で間違いないことが判りました。
下の写真がそうですが、戸田市郷土博物館さまより許可を得て掲載しております。

Dp4601toda.jpg

この戸田橋は東京と埼玉県の県境にあたり、現在も4代目の戸田橋が架かっていますが、最初に橋が架けられたのは明治8年になります。
当時は木製の橋で長さ135m幅4.2mの有料橋だったそうです。
その後大正元年に再度木製の橋が架けられますが、関東大震災や洪水で破損したことから、写真の3代目の橋が架けられました。
尚、戸田橋が架けられる以前は【戸田の渡し】という渡し舟で行き来をしていましたが、既に江戸時代前の天正年間(1573~1592)には渡し舟があったようで、当時から主要な幹線だったことが判ります。
この橋が架かる街道は中山道(木曾街道)と言われ、日本橋を出発して最初の板橋宿と次の蕨宿の間となることから、この場所は江戸の要所とされており、また水運を利用した地の利から、幕府公認の河岸も置かれました。

Dn4301todabashi.jpg

現在は幅が21mという大きな戸田橋が架かっており、新しい4代目の橋が架けられると写真の3代目の橋は取り壊されましたが、戸田橋の親柱のみが板橋区の小豆沢公園及び戸田市の戸田市立親水公園に現在も残っています。

東京側の小豆沢公園に行くと、そこに橋があったかのように、1対の親柱が並んでいました。
そして解説には戸田橋の由来と共に、2代目戸田橋と東京オリンピックの際聖火ランナーが戸田橋を渡っている様子なども描かれていました。

D0602datsun.jpg

改めて伯父に『この橋は戸田橋のようですね』と言ったら思い出したようで、上の写真を見て
「そうそう戸田橋だ!外語学校の貿易科の友達と3人で行ったんだよ!」
「途中でエンストしてな~大変だったよ!」
「彼は遠藤君だ!丸ビルの愛国工業にいってな~社長までなったけどな~」
とまたいろいろ思い出していました。
Mさんのおかげで、また一つ判らなかった昭和の記録が判明しました。どうもありがとうございました。

その他詳しくは昭和からの贈りもの内【昭和13年頃・戸田橋】をご覧下さい。

昭和からの贈りもの







Last updated  March 26, 2011 07:27:48 PM
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February 19, 2011

G015syageki.jpg

前述の【昭和17年・近衛歩兵第四連隊大島隊】と同じ兵舎前の写真が何枚かありました。
伯父によると、大島隊の面々が写っているとの事でしたが、何人かの階級などから昭和17年の写真と思われます。
上の写真には伯父が写っていませんし、ネガがいつものカメラのネガだったことから、これらの写真は伯父が撮影したようです。

G016tyutai.jpg 

こちらの写真も同じ兵舎前です。
立っている方の後には塔のようなものが立っていますが、よく見ると、【射撃優勝中隊】と書かれているのが判ります。
また、足元には何か立てかけるようなスタンドらしきものが見えますが、これは銃を掛ける時のもののようです。(下右側の写真)

G901401tyuutai.jpg

今年で93歳になる伯父には、射撃優勝中隊のいきさつは記憶がないようでしたが、兵舎前こうしたものが建っていると言う事は、配属された近衛師団第四連隊大島隊は、射撃の大会で優勝した中隊ということのようです。

最初の学徒出陣によって軍隊に入営した伯父ですが、しばらくはこの青山の大島隊に所属することになります。
その後、昭和18年に【近衛歩兵第四連隊補充部隊】として甲府へ移動となり、最終的には伯父はスマトラへ赴く事になります。

この他の写真などは【昭和17年・射撃優勝中隊】を御覧下さい。

昭和からの贈りもの 

 







Last updated  February 19, 2011 06:25:08 PM
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February 16, 2011

昭和12年頃 キノコ栽培

上は昭和12年頃の珍しい写真です。

「あ~これはキノコだ!むか~し家で栽培した事があったな~ 結構栽培していた記憶があるけど、面白かったよ・・・」
と92歳の伯父は申していましたが、皿の上の菌床らしきものから、キノコが生えているのが見えます。

こうしたキノコ栽培は最近になって出来るようになったと思っていたのですが、何と70年以上前には、一般家庭でキノコの栽培が出来ていたと言う事です。

調べてみましたら、キノコの栽培は明治大正時代には、原木栽培が行われていたようです。
が、あくまでも業者がシイタケの原木を使って手作業での栽培だったようです。

これが昭和10年頃になって、キノコの菌の研究とともに、培養菌の配布がなされ、手軽に栽培できるきっかけになったそうです。
とは言っても、一般的に家庭で栽培はされてはいなかったようで、あくまでも伯父宅で興味を持って何処かから手にいてれ栽培をしていたようです。

詳しくは【昭和からの贈りもの 昭和12年頃・きのこ栽培】を参照下さい







Last updated  February 16, 2011 08:02:03 AM
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February 10, 2011

ap3501station.jpg

上は昭和2年12月30日に開通した、日本で初めての地下鉄【銀座線】の絵葉書です。

絵葉書でも判るように、現在の銀座線とは違って開通したのは上野駅~浅草駅間のたった2.2kmの距離で、《いなりちよ》と《たはらまち》という途中の駅名も見えます。
「うへの」と「あさくさ」とひらがなの看板ですが、この時代にしては珍しく字が左読みです。

ap3504ueno.jpg

こちらの絵葉書には開通記念のモニュメントも設置されていますが、入り口と出口に並ぶ乗降客の多さがわかります。

この頃の同じ区間の市電の運賃は7銭に対して、地下鉄は十銭均一という割高な運賃にもかかわらず、物珍しさもあって人々が押し寄せます。

特に営業開始の6時には既に長蛇の列で、上野駅の行列は上野広小路まで続き、2時間程の待ち時間だったようです。
午前中だけでも上野駅からは2万人が乗車し、浅草駅でも1万人もの人々乗車したようで、上野駅の1日の乗降客数は初日だけでも10万人との記録があります。
現在の東京メトロ銀座線上野駅の1日の平均乗降客数は17万8千人となっていますが、ここから比較してもその多さが判ります。

この銀座線が計画された当初は新橋~浅草間を一気に開業する予定だったものが、関東大震災の影響で全区間の開通が間に合わず、まずは浅草寺のある浅草と上野という、いわゆる当時東京で一番の繁華街を最初に開通させ、徐々に新橋方面の駅が伸びて行きました。

暮れも押し迫った12月30日という、年末の慌しい中での開業は、東京で一番の賑わいである浅草寺の初詣を考慮しての開通と思われます。

ap3517ueno.jpg

この地下鉄が営業を開始した昭和2年の12月に同時にできたのが上野検車区です。

上野駅から程近く、バイク街がある昭和通り沿いの東上野4丁目にありますが、かつてこの一帯は下谷区車坂町といわれていた場所です。

また写真でも判るように、ここは日本で唯一の【地下鉄の踏み切り】がある場所でもあります。
踏切が閉じる事はあまりなく、一時停止の標識もありませんが、それでも車両が通る際には係員が配置に付き、ものものしいゲートが開いて、踏み切りが降りてきます。

写真には、奥に通じるトンネルがありますが、これが地下鉄への入り口で、このまま上野駅に通じます。

ap3511chikatetubl.jpg

上は地下鉄浅草駅の上に建つ《地下鉄ビル》です。
昭和4年に建てられた地下鉄直営のビルで雷門の横にあったことから、《雷門ビル》とも言われ、東京地下鉄道の出入口をかねています。

絵葉書宛名面には

地下鉄ビル 浅草吾妻橋畔にあります。日本最初の地下鐵道の起點にあたるところです。現在の線路はまだ一局部だけにしか過ぎませんが、数年後に、豫定線の工事を終わつた場合には、大東京の交通潮流に一大變化を招來するものと期待されてゐます。

と書かれていますが、昭和5年には地下鉄は万世橋まで開通し、7年には三越前や京橋まで伸び、そして昭和9年には新橋まで開通することになります。

高さは40mで地上6階地下1階(地下は地下鉄出入り口)のこのビルにはエレベーターが完備され、2階3階は禁酒食堂で、4階5階は普通食堂。
そして6階と屋上が四方を展望できるスペースになっており、浅草12階がなくなった以降の浅草のシンボル的意味合いも含まれて建てられた地下鉄直営の食堂ビルです。

事実、川端康成の浅草紅団にも、当時の地下鉄ビルの事が掲載されていますし、絵葉書写真の撮り方からしても、ビルに斜めに入った模様にしても斬新的なビルだったようです。

残念ながらこの地下鉄平成18年に解体され、今は新しいビルが建っていますが、現在も新しい雷門ビルが観音通りに面して建っています。

この他当時の絵葉書など詳しいことは【昭和からの贈りもの・昭和初期の絵葉書 地下鉄銀座線】を参照下さい。

昭和からの贈りもの 

 

 

 







Last updated  February 10, 2011 08:53:49 PM
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October 23, 2010

明治39年 富士紡績小山工場
写真は既に掲載していた明治39年9月撮影の、富士紡績小山工場の写真です。
伯父の父こと私の祖父が、大正時代から戦前まで日本橋小舟町の綿糸問屋《斉藤弁之助》の番頭をしており、取引も当時は日本でトップクラスだった事から、富士紡績や鐘紡などとの交流もあったようで、その関係でこの工場にも行っていたそうです。

そうした事から掲載していた写真ですが、先日かつてこの工場に勤務していたという方より連絡がありました。

その方によると、煙突の手前の細長い建物は第1工場で、煙突の右奥が第2工場。
右側の黒い屋根の3棟は寄宿舎と大食堂で、その手前の白い壁の建物は工場内の外来病院とのことです。
富士紡績 第一工場 富士紡績 第二工場
富士紡績 寄宿舎 富士紡績 外来病院

また煙突右横は事務所で連絡を頂いた方が働いていた事務所で、写真右手前は従業員川前社宅と言うことが判りました。
富士紡績 事務所 富士紡績 川前社宅

富士紡績 工事人足 富士紡績 工事人足 

改めて古い写真をよく見ると、森村橋や鮎沢川の近くで働く人たちの様子も見え、100年前の写真の画質の良さに驚くばかりです。
またお知らせいただいたYNさんにも感謝でいっぱいです。

因みに、この写真より後の関東大震災では工場や建物も大きな被害を受けたそうです。
調べましたら小山町では183名の犠牲者が出ますが、そのうち123名が富士紡績小山工場での犠牲のようです。
特に当時の工場は耐火の為レンガ造りでしたが、このレンガの倒壊に及びその後に発生した火災によって犠牲となった方々が多かったようです。
震災後は工場や寄宿舎なども再建され、寄宿舎も写真右方向に数棟増えていったそうです。
また橋を渡ったところは芝生広場となったようで、写真の風景を覚えていらっしゃる方も少なくなっているようです。

詳しくは【昭和からの贈りもの】をご覧ください。







Last updated  October 23, 2010 05:29:42 PM
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October 9, 2010

昭和16年回転テーブル

写真は昭和16年頃のものですが、伯父たちが囲んでいるのは回転テーブルのようです。
今でこそ回転テーブルと言えば中華料理を連想しますし、海外から伝わってきたと思いますが、この回転テーブルは日本で考案されたテーブルです。

写真が撮影されるより前の昭和7年に、目黒の雅叙園の創設者の細川力蔵氏が、宴会や個室での食事の際に、お客様が料理を取りにくそうにしている所を見て、
「座ったままで各々が料理を取り、次の人に回せるように...」と考え、当時の雅叙園建設の大工の棟梁や金物商に頼んで作ったそうです。

戦後になって中国に伝わり、現在のような中華テーブルのイメージになりましたが、写真を見ると、確かに中華ではなさそうです。
個室のようですが、もしかして目黒雅叙園での食事会だったのかも知れません。

お星さまの贈りもの《昭和からの贈りもの》
http://www.ohoshisama.info/







Last updated  October 9, 2010 11:16:47 PM
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March 16, 2010

G014eppei.jpg
立派な松の木の前での集合写真が出てきましたが、伯父に聞いても何処で撮影したか判らなかった写真の一つです。

写真を拡大しますと、伯父のような若い兵隊さんばかりが写っています。
そして、皆さん演習用の帽子を被り、肩の階級章がライン1本の兵長さんということが判ります。
右端には銃らしきものも組まれています。

G901301eppei.jpg G901302eppei.jpg
前回紹介した近衛歩兵第4連隊 大島中隊の写真には、古兵の方も含めてさまざまな階級章の方が写っていましたが、この写真は若い兵隊さんばかりで、大島中隊の写真ではないようです。
また写真右奥にも、兵隊さんが立って並んでいるのが見えますので、何処かの練兵場での記念撮影と思っていました。

G901303eppei.jpg

その後、前述記載の代々木練兵場を調べていたら、代々木公園内の写真の中で、上の写真の松の木と似たような木があることが判りました。

実際に代々木公園に行って見ると、確かに枝ぶりも幹の具合も一緒のようです。
周りには、立看板が見当たらなかったので、公園の方に聞いてみたら、
「あれは閲兵式の松ですよ!代々木練平場だった頃、この松の前で天皇陛下をお迎えして閲兵式をした松です」との事でした。

と言うことは、この写真は代々木練兵場で撮影されたようです。
とすると、青山の近衛歩兵第4連隊で兵長に昇進した若い兵隊さん達で集まって撮った写真かもしれません。

gp1301eppei.jpg

現在の【閲兵式の松】の周りには芝生が広がり、思い思いに休んでいる方や寝そべっている方が多かったのですが、かつてこの松の木の前で、兵隊さんたちが並んで記念撮影していたとは、全く感じられない現在の代々木公園でした。

お星さまの贈りもの《昭和からの贈りもの》
www.ohoshisama.info

 







Last updated  March 16, 2010 06:30:08 PM
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