|
カテゴリ:カテゴリ未分類
前回の日記は、読み返すと何か遺言のようになっているが、今の私には死ぬことすら億劫でならない。
中執に出た後、私はいろいろなことを学んだ。 局に居たときには体験できなかった忙しい活動、毎日やることに追われる日々。 イベントの裏側、業務的な手続き、様々な会議。 どれも局活動と同じくらい、いや時にはそれ以上に充実していた。 しかし、その中でも私は放送にいたかった。 局室でみんなと話している時が一番の幸せだった。 後輩全員とご飯を食べに行く夢も持っていた。 中執の活動をしていくうち、自分の幼稚さが身にしみて分かった。 与えられた業務も行えず、期限があるものはその場しのぎで、先輩からも同輩、後輩からもしかられた。 深い考えも持たず、ただぼんやりと毎日を過ごしている私には荷が重すぎた。 自ら立候補しておきながら、中途半端で逃げ出し、大学にも顔を出せなくなった。 以降は、バイトも投げ出し、日々から逃げながら、時間から、人から逃げながら過ごした。 MLは生きていたので、いろいろと情報は入ってきた。 中執業務の連絡、放送局の活動。 全てに眼をそむけた。 放送局の為なら、大学生活全てをささげてもいいと思っていた、今も思っている。 何も出来ない。 何もしない。 何をしても、何もしなくても、 私がいても、いなくても 私であっても、なくても、 世界はそれなりに動いている。 冒頭で遺書の話を出したが、今の私が泣きながらいくら文字を綴ろうと、こんな文章にしかならないようだ。 全くもって、人間の存在意義とは何なんだ。 何も出来ない人間 自己顕示欲の塊の人間 人に頭を下げられない人間 上の立場から人を見下して悦にいってる人間 現実を見ようとしない人間 出来もしないことを安受けあいする人間 自分を知らない人間 逃げるだけの人間 こんな人間に意義などあるのか。 私は一体、何の為に、何をするために、何を最終目標として生きていけばいいんだ。 人間という生物としてみれば、「子孫を残すこと」なんだろうが、繁栄の極みにある人間にとって、私一人の目標達成はそれほど重要か、いやそれ以前に達成不可能だ。 親の子という立場からすれば、生きていてくれるだけでと言う答えが返ってくる。では、親が死んだ後は自由になれるのか。いや目的がなくなるだけだ。 日本社会の23歳としてみれば、普通に大学を卒業して会社に就職だろうが、就職・仕事は国民の義務や金稼ぎの手段であっても生きる目的ではない。それが生きがいとなる場合もあるだろうが、稀だ。 人生はよく「リセットできないゲーム」と例えられる。これは実に的を射ていると思う。 ゲームをする目的とは、ゲームをすること。 手段・過程自体が目的。 人生も明確な最後があるがそれを目指しているわけではなく、その途中経過が人生である。 このような事をぼやけた頭で半目で書いていると正に今の私の心は「砂漠」なのだろうとおもう。 文学部哲学専攻のほうが、私にはあっていたかな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.01.18 14:21:24
コメント(0) | コメントを書く |
|