042773 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

中国はぼくの老家

中国はぼくの老家

PR

Calendar

Archives

2025.12
2025.11
2025.10
2025.09
2025.08

Recent Posts

Favorite Blog

まだ登録されていません

Keyword Search

▼キーワード検索

Headline News

Profile

ケイ2959

ケイ2959

2009.09.30
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
洛陽のことを書いた司馬遼太郎の「長安から北京へ」の抜粋を転載してみる。
・・・洛陽というのは、宋代において衰微するまでは,大した町であった。唐代では、首都が長安であったとはいえ、なお、副首都の位置をたもっていたとされる。
 唐の長安は世界都市として当時、遠く西方まで光芒を放っていたが、その後背地である「関中」は秦漢時代ほどの農業生産力を持たなくなり(長安の消費人口が大きすぎるため)食料その他の物資は洛陽にあおがざるをえなかった。

 このため洛陽が副首都とされ、長安なみとまではゆかなくても相当な規模の宮殿や官衙(ギョ)がそなえられていた。
 皇帝でさえ長安で食糧不足になると、めしを食うために(ごく具体的な意味で)洛陽まで出てきて長期滞在した。

 百官を連れて来た。当然後宮の女どももきた。みな洛陽で、数万人の支配階級とその寄生者たちが、箸をうごかしてめしを食った。
 玄宗皇帝などは洛陽にやってきてめしを食う事がしばしばで、それより前、盛唐のころの高宗などは、在位三十三年のうち十一年もこの洛陽で暮らしたと言う。
 江南の穀倉地帯から大運河などの水路をへて食料が洛陽まで運ばれてくる。洛陽から長安への輸送は険阻な陸路が多く、難渋をきわめた。
 その輸送を待つより、いっそ口を洛陽に持って行って食物を食うほうがてっとりばやく、そう言う発想で洛陽への行幸が営まれた。
 九世紀には、日本僧の空海も円仁もこの町を通った。
/    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長安から北京へ
                                    司馬遼太郎(中公文庫)


洛陽は今度の旅で唯一、街を歩きたいと思った都市である。洛陽市の町々が観光地としての位置づけであった。

 京都が西安(長安)なら奈良が洛陽といった感じで洛陽を想像していた。だから、小燕との打ち合わせの時から、洛陽は一日市内をブラブラと歩き回りたいから、2泊にしてね。と頼んだ。

 だから、昨日、ジャオさんの車で洛陽入りをした時はとても胸がドキドキしていたものだ。5年前、初めて西安の城内に空港バスで入ってきた時と同じ高揚があった。

 しかし、車中から眺める街の風景は余りパッとしない。
高層ビルの林立する整然とした都市というわけでもない、といって木々の緑で覆われた静かな古都といった感じもしない。

 なんの特徴もない中国の中都市?僕の思い入れの強い洛陽は街の香りを捨ててしまったような印象がした。
 
 成都や鄭州の市街地の華やかさを見てきたばかりのせいもあるけど、その夜、出かけた洛陽の歩行街(ブシンジェ)のうらびれた暗い光景が頭から離れない。

 敦煌の莫高窟を見ていたのと、仏像にさほど強い関心がないせいか龍門石窟への期待感はさほど強くはなかったけど、あの川沿いに延々と続く仏像石窟を眺めた時はさすがに「ホーッ」と感嘆の声をあげた。

 もっとも、又入り口(切符切り)で我がジャオ氏と係り官の激しいバトルがあり、とうとうジャオさんが負けて、ぼくが切符代200元ぐらいを払うはめになった。その間のトラブルタイム30分の後だっただけに、ホッとした後の感動だったのかもしれない。

 さすがに有名観光地なので観光客の数は相当のものだった。ほとんどが中国人で、西欧人も結構目立ったけど、日本人は団体としてはいなかったと思う。

 僕たち二人は橋を渡って反対側(東山)から石窟をながめたり、またまた長い石階段を上がる(香山寺)をめざした。
 旅の間中、ぼくは何度思ったことだろう。
  「もう、山の上にある寺には登るのをよそう。」と

 それにしても、この香山寺の階段はとりわけきつかった。

どこやらの学生たちと一緒だった。可愛い女の子たちがたくさん一緒だったので何とか上まで上がることが出来たがジャオさんと二人きりだったら,やめてたかもしれない。

 しばらく行くと白楽天(白居易)の墓がある公園を訪れた。

洛陽への帰りに関林へ立ち寄った。
 曹操が敵側になる関羽に敬意を表して建てたという関林は
プランの段階からぼくが小燕子に頼んでコースに組んでもらったところだった。

 もう少しさびしい処かと思っていたら、ここは経済(金儲け)の神様なんだそうで、中国全土から金持ちになりたい人たちが訪れるんだそうだ。

 一番奥にある関羽の墓(まんじゅうのように大きな円の中にある)に行ってみた。

 成都にある劉備の墓も大きかったけれど、ここの墓は三倍は確実に大きいと思った。

帰りの車中でぼくは言った。

 「明日はボクひとりで洛陽博物館やら市内見物でもして 午後の汽車で蘭州に行きますから、ジャオさんはボクを
 ホテルまで送ったら鄭州へお帰り下さい。」・・・・と。

  「メガンシー メイガンシー。ハイヨードーシージェン。   ウォ ダイニー ボーウーグアン クオイー」
  注:大丈夫ですよ、まだ時間が一杯ありますから  ボクが案内します。」
ということで、ホテルに帰らずに洛陽博物館に行くことにした。

 余り期待もしていなかった博物館だったけどこれがとても内容の濃い博物館だった。 

 古いせいか、そういう意味では洛陽の市街地の雰囲気と似ている。豪華な、ゆとりのある内部ではなかったけれど、人も少なくゆっくり見学できた。あとで、ここの陶器・唐三彩は有名だど知ったのだけど、確かに圧巻だった。

 カメラを車の中に置いてきたのが残念だった。

 またジャオさんがなにかしきりにすすめてくれる。
 
 「シンダボーユグアン マーチャーダ ・・・・・・・シンブシン
  ニーミンバイラマ?」

 何やら新しい博物館を見に行かないか?と言ってるらしい。」ボクが分らないのか、今度はメモ紙に20元とか、馬とか、 書くので

 「オーケーオーケー、可以(クァイー)」
   あぁ いいですよ」というと、ニャリと笑って走り出した。

連れて行かれたところは洛陽の中心街にある広場(グアンジャン)である。そういえば広場の真ん中に工事の後がありクレーンがあり、大きなテントが張ってある。そして、馬の像があったように思う。

 駐車場をみつけ車を降りた。
 地下に降りていくと階段の途中で又料金所がある。あぁ、ここが新しい博物館で20元の入場料が要るというわけか?
 何とそこは、3年ほど前に、ここに大きなスーパーを作ろうと工事を始めたら底から馬の骨や荷車がいっぱい出てきたらしい。

 調査してみると、なんと紀元前700年から200年のころの周の時代というからあの西安で発掘された秦の始皇帝の兵馬ヨウより以前である。

 今年2004年の4月というからごく最近にこの現場をそのまま博物館名にしたとのことで、真新しいパンフレットを貰ったのだが残念な事にボクが帰ってから送ってもらうことになっている郵送品箱に入れたままで今此処に無いのでそのパンフレットに書かれた新博物館名がわからない。
 送って来次第、ここに書き込むつもりである。

 それまでは馬荷車博物館みたいな仮名が付いていて、人々もその呼び名で呼んでいたらしい。
 
 それは暗い地の底に、眼下にそのままの形で、綺麗に土を払い落とした馬の骨と、荷車の列が連なっている。

 2000年前の馬のいななきが聞こえてきそうな感動的な現場がライトで照らされていた。

 写真撮影が禁止されていたので現場をお見せ出来ないのが残念だけど、 上の原稿の博物館名も分りました。

 以前2003年10月1日 周王城車馬杭博物館 開館





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2009.09.30 16:08:45
コメント(3) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X