Cube(12) ~ and I love her ~
初夏らしい少しギラついた陽光が、大きな窓から差しこんできていた。15畳ほどのリビングの窓際に、ピアノと電子ピアノが据えてある。庭先の小枝が揺れるようすが、細くゆるい影となって黒い鏡面にうつる。ふだんは楽譜棚に置いてある子猫のフィギュアだが、今日は撮影用に鍵盤のはしに置いてみた。しばらくは外箱であるアクリルのcubeごと飾ってあったのだが。それは、いつの間にかどこかに散逸してしまったらしい。角に置いたままにしてピアノを弾きだしてみると、フォルテシモの箇所で少しはねて、下にころげ落ちてしまった。拾いあげて、元の居場所にもどしてあげる。奥方や子どもはまだ帰ってきていなかった。* * *その後、私は香穂と一緒になることになった。絶望的に無理なことを無理してねじまげたのだから。もちろんこれは一筋縄ではすまなかった。キャンセルに次ぐキャンセル。それと同時に、新たな結婚のほうの準備も必要となる。お詫びとあいさつと。ふたたびお詫びとあいさつと。仲人夫妻や本人や本人の家族、親戚、友だちなど。複層的にからみあってくる。私のほうでは、自分の父親が倒れるという突発事態が起きていた。ほとんど毎日のように病院に顔をだすことになった。結婚のことは、二人で日時をぴったり決めて、それぞれの上司に報告した。だれもがその意外な展開に驚いたようだった。美奈子嬢など「いったい、どういうことなの」「一から説明して」と詰問してくる。元婚約者のFさんは、いちおう納得したそぶりを見せたようだったが。門のところで、彼女の帰りを待ちぶせたことがあったらしい。気づいた彼女がその場で困っていると、ちょうど通りかかったヒロちゃんが、彼女をガードするようにして一緒につれて帰ってくれた。何も知らない人は、普通に祝って喜んでくれた。しかし会社の上のほうには、芳しいことと受け取られなかったようだ。その後、工場長に呼びだされて事情を説明した。千葉にやってきた常務取締役にも呼ばれて、やはり同じように経緯を話ししなければならなかった。はじめのうちは妙に怒っていた。今回の件と父親が倒れたことを、リンクして考えていたらしい。上の人ではただ一人K課長が「すごいじゃないか。お前にしてはお手柄だ」と、肩を叩いてからかって来たくらいだった。香穂との新婚生活は、本当に楽しさに満ちていた。帰ってくると、エプロン姿のまま飛び出してくる。私はよく彼女の座椅子役になった。パンダ椅子バージョンと白くま椅子バージョンの2つの仕様があった。膝のたたみかたとアームレストの形がそれぞれ違うと力説する。「パンダさんはね。もっと丸くて大きいの」肘かけの先の握りこぶしの形がちがうと、冗談で軽くはたかれたことがある。彼女のリクエストに応えて、ピアノを弾くときがあった。いやに静かにしていると思ってそちらのほうを見てみると、香穂はテーブルにうつぶせてすっかり眠りこんでいた。タオルケットをかけ、そのあと私はごく静かな曲を流しつづけた。* * *あれから時はたち、十余年の月日が流れすぎている。時代はたしかに変わった。アームレストの一部のように大柄だった車載電話は超コンパクトな携帯電話に変わり、東京湾の真ん中にショートカットの道が通って、京浜方面へのアクセスは各段に良くなった。あのとき訪ねたドリームランド、ホテルエンパイヤ、湘南ホテルなどはなくなり、江ノ島水族館はリニューアルでまったくの別物になっていた。ただ葉山の「音羽の森」だけは、今もそのまま引き続いてやっている。結婚十周年のとき、家族で訪ねてみた。雰囲気は相変わらずだったが、人に周知される存在となり、かなりの賑わいを見せていた。美奈子嬢は退職して3人の子の母親となり、ヒロちゃんは2人の子の良きパパとなっている。K課長はあちこちを転々として、今は東京のほうにいる。たまのメールと年賀状くらいになってしまったが、それぞれに交流は続いている。Fさんは、あのあとすぐに車を四駆に買いかえた。長いあいだ独身で通していたが、3年前に結婚したと風のうわさで聞いた。実際そのとおりに社内報の(結婚)の欄に名前が記されているのを目にしている。香穂の両親とは、年に何回か会う機会がある。会うといつも格別に気を使ってくれて、美味しいものをごちそうしてくれる。私を呼ぶのに、子どもは「パパ」から「お父さん」に変わっているというのに、相変わらず「パパ」と親しげに言ってくれる。私という座椅子の主も変遷を遂げていた。さすがに今は彼女がすわることはなく、そのかわりに子どもがやって来ている。いわくそこは「自分の指定席」なのだそうだ。やって来るという生半可なレベルではなくて、飛んできて遠慮なくプレスをかけまくるといったほうが適切かも知れない。香穂は本当によくやってくれている。どの方面をとっても素晴らしいのひとことに尽きた。旦那である私がいうと、あまりにも恣意的で信憑性が弱いし、歯の根が浮くようでイヤなのだが。事実は事実なのだから仕方がない。多様性がある。多彩な顔がある。どれだけ写真を撮っても、表情がすべて違う。千の顔を持っている。エンパイヤの部屋で撮った1枚など、背中に氷のナイフを突きつけられたように緊張感が漂っているのだが。同じ日に湘南ホテルで撮ったポートレートは、柔和な女神そのものに写っている。(これはテレフォンカード化して、いつも持ち歩いているお気に入りの1枚だ)ショッピングセンターなどに行ったとき、見るものが違うのでたまに二手に別れることがある。そのあと彼女の目の前を通っていながら、素通りしてしまうことが何度となくある。いくら旦那といえども、千の顔のすべては記憶できない。ヒルトン成田の項でご登場ねがった私の奥方と、ここに記してきた香穂とではまったく通有性がないことに、筆者である私も驚いてしまうくらいである。別に途中で、中の人が入れ替ったわけでもないし、妻をチェンジしたわけでもない。また、印象をねじ曲げて書いたわけでもない。同一人物を刻みながら、自然にこうなってしまうのだ。行動力というか、生活力というのももちろんだが、それ以上に存在感の魅力がすばらしい。女性というのが本来的に「なごみ」のプロなのだろうが。彼女はそのプロ中のプロである。いるだけでその場が自然に和み、やわらぐ。笑顔だけで周囲を抱擁してしまう。周りの人もそれにつられて、笑顔を追ってしまう。ゆるんでしまう。彼女のことを嫌いだという人を、私は今まで一人として見たことがない。愛和、融和、親和等「和」のつく熟語の権化のような存在であり、その忠実な再現者である。彼女のこと、彼女と自分とのことを考えているうちにあることに思い至ってしまった。小さな頃、車掌車の小さな箱のなかで時を過ごすことに憧れつづけていた自分だが。その夢は、とっくにかなっているということを。何もしなくても、そこにいることだけで十分に楽しい。平凡なようでいて平凡ではない。平穏なようでいて平穏ではない。少しだけ胸が高鳴り、少しだけ心が弾んでいる。少しだけ心は豊かな気流に乗り、少しだけ余裕に似た気持ちで漂いさまよう。少しだけ気分が前向きになり、少しだけ明日を信じたくなる。暖炉があるわけではないが、あるのと同じようにぽかぽかしていて。美しい花が飾ってあるわけではないが、あるのと同じように気持ちが真からなごんでいる。これは、香穂と一緒にこの家に住み、ともに生活していくことで得られる快適さをうたった歌そのものではないのか。あのとき求めてやまなかった心持ちは、今十分以上に満たされているのではないのかと。手に入れたものが価値あるわけではない。手に入れて実感できた心の実質こそが大事なものなのだろう。「車掌車」は所有していないけれど。そこで味わうだろう心の実質は、きれいに気持ちいいくらいに味わっている。味わいつくしている。私の夢は、今たしかに実現していた…。* * *玄関のほうでドンという重々しい音がした。バタバタする音がつづく。「ただいまー」奥方と子どもが帰ってきた。外でいろいろと買いこんできて、それを玄関口に置いているらしい。私はそれを受け取りに、リビングのドアを勢いよく開けた。 (了)(注:フィクションです。人物あるいは団体等、それらの特定は無効です。文中に登場する名称や事象等は架空であり、現実ではありません)