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今日は、隣の市の公立幼稚園の合同総会というもので、講演をした。
始まる前に、控え室でお茶を入れてもらって、主催園の園長先生が応対してくれる。 実はおかちは、この時間がとても苦手。ざっくばらんに話せる人だといいのだけど、あきらかに間をもたせてますっていう感じの人だと、ますます間がもたなくて早く行きたいなあ、と思ってしまう。 今日の園長先生は、今どきの若いお母さん達はものを知らない、若い先生も同じ感覚でびっくりする・・・というようなことを、丁寧に話しておられた。 今日の講演は始めに、なぜおかちがひとつの肩書きでくくれないいろいろな活動をすることになったのか、という話をした。 それは、おかちが子育てけっこう苦しかったから。周りの人が思っているよりも、孤独でつらかったから。 今その中にいる人に、少しでもその人が求める形、フィットする形のサポートをしたい。サポートがあるということを、いろんな切り口で伝えたい。それが大きな動機。 その話で、おかちは「子育てがつらい!」となかなか大きな声で言えないお母さんたちのことばを代弁したいと思っていた。理想論にはうんざりしているだろうから、ちょっと刺激的に自分の感じた苦しさを口にしてみようと思っていた。 原稿を作って、だいたいの時間を組み立てるために、家で話してみる。 こんな内容。 子どもはかわいいし、成長は大きな喜び。 でも、こちらがどんなに疲れていても、どんなにエネルギー落としていても、容赦なく待ったなしで愛情を要求してくる。ボロボロに疲れて眠った夜は数え切れない。 親が一生懸命やったからということでは、子どもは認めてくれない。 一生懸命つくった離乳食をペッと吐き出され、ささやかな自分の楽しみのために一生懸命段取りした外出が、子どものたまたま起こった不機嫌でぶちこわされる。 こんなことも数限りない。 子どもがいたから学べた事、成長できた事もたーくさんある。 でも、時々思う。おかちにもし子どもがいなかったら、もっと自分の事、優しくて理性的な人間だと信じて死んでいけただろうなあって。子どもという存在に、自分の本性を暴きだされて、自信をなくした。 子どもを通して出会った心許せる友達や、サポートしてくれる人は財産だ。 でも、夫婦二人の時よりも、子どもができて初めて、本当の孤独を知ったような気がする。 親にならなかったら見ることはなかったであろう、「今時の母親は・・・」という敵意すら感じる目。(この辺で、応対してくれた園長先生の顔つきがかわったような・・・。) 自分の頑張りではどうにもならない子どもの言動を、叱られ責められるみじめさ。 家でぶつぶつ言っていた時は、「もうちょっと刺激的な方がいいかなあ。」くらいに思っていたのに、実際に100人以上のお母さんと園長先生を前にして、マイクでこれを話していたら、おかちの中で、”そんな事母親なんだから当たり前じゃん” ”母親のくせに、そんな甘ったれた事言って・・・!”という声が聞こえて、ドキドキした。 人に話せばそういわれるに決まっているから、誰にも言わずに胸の中にしまって固くふたをしているうちに、中でコチコチに固まって動くたびに内側から自分を傷つけたり、中で腐ってしまって恨みや妬みという悪臭を放っていた。だから、抱え込まないでサポートを求めてほしい。そう言いたかったし、そう言ったのだ。 それなのに、まだおかちのなかで、「こんなこと言ってはならない」という呪縛のようなものが、生きているんだなあ、と話しながらあらためて感じた。 聞いているお母さん達の中にも、ここの話だけで泣いている人が何人かいた。 子育てって大変な仕事。 太古の昔からみんな自然にやってきた事だといわれても、その自然から遠く離れたところで育ち、遠くはなれたところで育てていかなくてはならない、今のお母さんたちには、別の苦しさがあると思う。 ヤンママでも、ろくなしつけをしていなくても、ボーっとしていても、意地悪でも。 幼稚園の年齢まで育てるには、たくさんの我慢とたくさんの努力をしてきたはず。その自分を自分ぐらいは認めてねぎらってあげよう、と話した。 ここでまた、泣かせる・・・。 子育てまだまだ長い。 途中でやめられないし、引き返せない。 かかえこまずに、たくさんの人の助けを借りて、がんばってほしいな、と心からエールを送っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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