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2025.03.13
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カテゴリ:名所・旧跡
3/10(月)は京都駅から地下鉄で鞍馬口駅まで移動し、
織田信長ゆかりの寺を歩いて来た。

まず始めに日蓮宗妙覚寺へ。


写真の大門(山門)は、
豊臣秀吉の建てた聚楽第の門を移築したものと伝わっている。

妙覚寺は室町時代初期に創建された寺だが、
美濃の戦国大名斎藤道三が若かりし頃に、
法蓮房の法名で修行したと伝わっている他、
織田信長が京都滞在時の定宿とした事でも知られ、
信長の京都での宿舎としては、
明智光秀に襲撃された本能寺が有名だが、
20回以上と言われる信長の上洛時に泊った宿舎としては、
記録に残る中では妙覚寺の18回が一番多く、
本能寺に泊ったのは4回しか記録されていない。

妙覚寺祖師堂


1582年(天正10年)の「本能寺の変」の時には、
信長の長男織田信忠が妙覚寺に宿泊していて、
本能寺襲撃の一報を聞いて直ちに駆け付けたが、
奮戦むなしく敗北し自決している。

妙覚寺の次は浄土宗阿弥陀寺へ向かったのだが、
途中、臨済宗相国寺の境内を抜ける道を通った。

相国寺は室町幕府の足利将軍家ゆかりの寺で、
3代将軍足利義満によって創建された。

写真の法堂は1605年(慶長10年)に、
豊臣秀頼の寄進によって建てられたものが現存している。 
2011年に日中の仏教興隆、友好を祈念して建立された天響楼(鐘楼)


相国寺の境内を抜けてもう少し歩き、
お目当ての浄土宗阿弥陀寺へ。

阿弥陀寺本堂


阿弥陀寺は室町時代末期の創建で、
織田信長からの寄進があった事から織田家とのゆかりが深く、
本能寺の変の際には阿弥陀寺の清玉上人が、
まだ明智勢の残る本能寺に乗り込み、
信長の遺灰を運び出したと伝わっている。

また同時に亡くなった長男織田信長や、
家臣の森蘭丸、力丸、坊丸の兄弟などの遺骨も運び出し、
阿弥陀寺の境内に墓を建立したとされており、
その墓が「織田信長本廟」として残っている。

織田信長、信忠親子の墓


森蘭丸、力丸、坊丸兄弟など
本能寺の変で亡くなった家臣たちの墓


阿弥陀寺は後に豊臣秀吉から
信長の遺灰の引き渡しを求められたが拒否したため、
厳しい処置を受けたとされ、
いつの時代も権力闘争というのは生々しいものですな。

阿弥陀寺からは再び地下鉄に乗って四条烏丸まで移動し、
かつて本能寺があったと伝わる場所へ。

現在の本能寺は河原町御池、京都市役所の近くにあるが、
本能寺の変で焼け落ちた後、
豊臣秀吉によって現在の場所へ再建されたもので、
それ以前は烏丸通りよりも西の場所にあり、
今は「此付近 本能寺址」の石碑だけがひっそりと建っている。


本能寺から西へ200mほどの場所には、
信長に布教を許されたキリスト教の宣教師が建てた、
南蛮寺があったとされる場所があり、
こちらにも「此付近 南蛮寺跡」の石碑がひっそりと建っていた。


フィクションの世界の話だが、
加藤廣の小説でベストセラーとなった「信長の棺」 や、
同じシリーズの「秀吉の枷」では、
本能寺と南蛮寺の間に設けられた緊急脱出用のトンネルの話が登場し、
本能寺の変のミステリーが更に面白くなるのだが、
この日は二つの寺の間を歩いて、
私の頭の中は歴史の妄想がモワモワと拡大して止まらなくなり、
大好きな歴史歩きを満喫したのだった。





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最終更新日  2025.03.13 16:26:03
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