明智光秀出撃の城 丹波亀山城
3/14(金)兵庫県から横浜の自宅へ戻る途中、また京都へ寄り道経由しての歴史歩きを。明智光秀が本能寺へ向けて出撃した、丹波亀山城を訪ねて来た。現在の地名は京都府亀岡市だが、「亀岡」の地名となったのは明治になってからで、それ以前は「亀山」が地名であり、現在の町の名前は亀岡市、城の名前は亀山城と、更には三重県亀山市との区別もあり少々ややこしい。JR亀岡駅から徒歩5分ほど、城の北側、搦手側の堀のほとりに建つ明智光秀像同じ堀の周りには、「明智光秀公築城亀山城址」の石碑や、亀岡市が設置した案内の看板も建っているが、現在の亀山城は亀岡市の所有ではない。 亀山城は織田信長から丹波攻略を命ぜられた明智光秀が、1579年(天正7年)に築いた城で、明智光秀が本能寺の変の後の山崎の戦い敗れた後は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の支配下に入り、前田玄以が城主の時に徳川幕府の開幕を迎えている。その後、前田氏が転封し一時期は幕府直轄の天領となり、天領の時代に天下普請として大規模な城郭の整備が行われた。城の北側、搦手側の堀天領の時代の天下普請で亀山城の築城を担当したのが、築城の名手として知られた大名藤堂高虎で、この時に天守が築かれるなど、現在に伝わる城の大部分が整備されたとされている。一時期の天領時代を経て、その後は大名が配置され亀山藩となったが、藩主は短期間で次々と転封を繰り返し、なかなか長く続く事はなかった。明治になり廃城令により天守をはじめとする建物は解体され、城域全体が荒廃していたものを、大正時代に宗教団体が購入して整備し、現在も後継の宗教法人が城域全体を所有している。城の入口は、現在所有している宗教法人の入口となっている。亀山城跡を見学するには、宗教法人本部の受付で300円の入館券が購入が必要。敷地内には宗教法人の建物が整備されているが、本丸や二の丸の石垣や空堀、土塁などが残っており、特に石垣は宗教法人が購入した後に、荒廃していたものを再び整備しており、下段は安土桃山時代に築かれたもの、中断以上は江戸時代以降に積まれたものに分かれている。二の丸の石垣石垣に刻まれた◇と卍の刻印1877年(明治10年)まで天守が建っていた本丸の石垣本丸は宗教法人の聖域とされていて、城跡の見学者は立ち入り禁止になっており、残念ながら入る事が出来なかった。明智光秀はこの城から1万3千人の軍勢を率いて京都に乱入し、本能寺に宿泊している織田信長を急襲して、「本能寺の変」と呼ばれる事になる歴史の大転換を引き起こしたのだが、安土桃山時代から江戸時代にかけて、軍事や政治の舞台となった亀山城は、1911年(大正10年)と1935年(昭和10年)の2回、新たに所有した宗教団体の弾圧の現場にもなり、城内には厳しい弾圧の痕跡もあった。戦前の宗教や思想弾圧による厳しい国家統制は、信教や思想・表現の自由が保障された現代からは、感覚的に理解する事すら到底難しい。