テーマ:戦国武将について(26)
カテゴリ:戦国武将
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(大坂の役)では大和口方面軍として布陣した。和議成立後、伊達軍は外堀埋め立て工事の任にあたる。その年の12月、将軍秀忠より伊予国宇和郡に領地を賜る。翌年、慶長20年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いで後藤基次らと戦った。基次は伊達家家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれる。道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされた。これに対し先鋒大将の水野勝成は、政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれをことごとく拒否し、最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った。このため信繁は悠々と大坂城に引き返し「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」(「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人としていない」)と嘲笑したという。
なお、誉田村での戦闘中に政宗勢は水野家家中3人を味方討ちにし、水野家の馬を奪っているが、勝成は政宗の軍勢を待ち伏せにし兵を斬り殺して馬を奪い返した。しかし、これに政宗が異議を唱えることはなかった。 一説によれば、翌5月7日の天王寺の戦いで政宗は船場口に進軍し、明石全登隊と交戦していた水野勝成勢の神保相茂隊約300人を味方討ちにしたという(6日の道明寺の戦いで発生したとする説もある)。神保隊は全滅し、相茂自身も討ち死にして遺臣が水野勝成らを通じて政宗に抗議するが、政宗は開き直り「神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と主張したとある(『薩藩旧記』巻六)。 この風聞は直後からさまざまな興味と憶測を生み、講談本(『難波戦記』)では後藤隊休息中の神保隊に有無を言わさずに銃撃を加えたとする説や、手柄を妬んでの味方討ちとする説も書かれている。ただし、政宗がこの事件について咎めを受けた記録はなく、幕府の記録(『寛政重修諸家譜』)にも「(神保相茂は)奮戦して死す」とのみ記述されており、幕府が政宗に配慮し抗議を黙殺した、あるいは水野家家中への味方討ちに尾ひれがついた伝聞が広まった可能性などが考えられる。 戦後の論功行賞で伊予国の内で10万石が政宗の庶長子である伊達秀宗に与えられた(宇和島藩)。なおこの戦で、敵となった真田信繁の次男である真田守信、長宗我部盛親の姉妹である阿古姫とその息子・柴田朝意が伊達家に仕えている。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年08月24日 17時30分04秒
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