カテゴリ:政治家
米内 光政(よない みつまさ、1880年〈明治13年〉3月2日 - 1948年〈昭和23年〉4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。連合艦隊司令長官(第23代)、海軍大臣(第19・24代)、内閣総理大臣(第37代)を歴任した。 ■出生から海軍兵学校時代 1880年(明治13年)、岩手県盛岡市に旧盛岡藩士・米内受政の長男として生まれる。1886年(明治19年)、鍛冶町尋常小学校に入学。1891年(明治24年)、盛岡高等小学校に入学。1894年(明治27年)、岩手県尋常中学校に入学。1898年(明治31年)、海軍兵学校29期に入校。同期生には高橋三吉、藤田尚徳、佐久間勉、八角三郎(中学も同期)らがいる。兵学校では「グズ政」というあだ名がついた。 当時の米内のノートは記述の質・量が膨大であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度からアプローチをかけ問題を解決している。これは詰め込み式教育が当たり前だった海軍教育においては珍しい勉強法であった。米内の勉強法を知っていた当時の教官は「彼は上手くいけば化ける。いや、それ以上の逸材になるかも知れない」と目を掛け、多少の成績の不振でも米内をかばい続け、何とか米内を海軍兵学校から卒業させた。後に同期の藤田尚徳は人事局長時代、当時の呉鎮守府司令長官・谷口尚真から「君のクラスでは誰が一番有望かね?」という質問に即座に「それは米内です」と答えたという。谷口はそれに「そうか。僕も同意見だ。ただ米内君は面倒くさがり屋で、その面倒くさがりの度が少し過ぎてやせんかと思うがね」と答えたという。 ■内閣総理大臣 1940年(昭和15年)1月16日、第37代内閣総理大臣に就任する。 この頃、ナチス・ドイツはヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、軍部はもとより、世論にも日独伊三国軍事同盟締結を待望する空気が強まった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと『昭和天皇独白録』の中で述べている。また内大臣の湯浅倉平も米内首相の実現に大いに働いている。組閣の大命を受けに宮中に参内した時、当初米内は組閣を辞退するつもりだった。しかし「朕、卿に組閣を命ず」という天皇の甲高い声を聞いて、米内は「電気に打たれたようになって」断りを言い出せなくなったという。なお大命が降下した時、米内は海相を退任して閑職の軍事参議官の任に就いてはいたものの、まだ現役の海軍大将であったが、首相就任と同時に自ら予備役となる。1922年(大正11年)に海軍大臣を兼任したまま首相に就任した加藤友三郎を最後に現役の陸海軍将官に組閣の大命が下る例は絶え、その後に首相となった田中義一・斎藤実・岡田啓介・林銑十郎・阿部信行は、いずれも予備役か退役の陸海軍大将であった。加藤以前の軍人首相は山縣有朋ほかいずれも現役のまま首相を務めており、大命降下のあった現役将官があえて予備役になってから首相となることは先例がなく、また後例もない人事だった(米内以後に首相になった軍人四人のうち、東條英機・東久邇宮稔彦王は現役で大命降下し首相就任後も現役にとどまり、小磯国昭・鈴木貫太郎は大命降下時予備役であった)。海相・吉田善吾らは米内に現役に留まるよう説得したが、米内は総理が現役将官であることは統帥権を干犯することに繋がりかねないと言ってこれを受け入れなかった。米内が予備役となったことは、軍令部総長・伏見宮博恭王の後任に米内を擬していた海軍人事局をも困惑させる事態であった。 就任直後の1月21日、千葉県房総半島沖合いの公海上でイギリス軍巡洋艦が貨客船「浅間丸」を臨検、乗客のドイツ人男性21名を戦時捕虜として連行する浅間丸事件が発生した。世論がイギリスを非難する中、イギリスとドイツ人船客の解放をめぐって米内は難しい交渉を行うことになった。一方、陸軍と米内の関係は最初からうまく行かず、倒閣の動きは就任当日から始まったといわれる。陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求する。米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、これを拒否すると、陸軍は陸軍大臣・畑俊六を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。当時は軍部大臣現役武官制があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れた。米内はその経過を公表して、総辞職の原因が陸軍の横槍にあったことを明らかにした。米内は畑の疲れ切った表情をみて「畑が自殺でもするのではないか。」と心配したという。昭和天皇も「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない」と、石渡荘太郎に語っている。 総理大臣を辞任した直後に、日光市を訪れた際には「見るもよし 聞くもまたよし 世の中は いはぬが花と 猿はいうなり」という短歌と、「ねたふりを しても動くや 猫の耳」という句を詠んでいる。 1940年10月、「一六会」の親睦会で 米内が内閣総理大臣を辞した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が作られた。陸軍の秘書官も「あなたたちは(米内内閣の瓦解とは)関係ないのだから」と誘われたのだが、「我々は米内さんに迷惑をかけた存在なので参加する資格などありません」と丁重に断りを入れている。米内内閣が発足した日も辞表を奉呈した日も16日だったことから「一六会」と名付けられ、戦後も長く行われ年号が平成に変わっても存続した。会員には宇佐美毅、福地誠夫などがいる[14]。昭和天皇は「一六会」の存在は知っており、「一六会」の日になると「今日は『一六会』の日だね」と侍従に述べたという。 1944年7月22日、小磯内閣の閣僚らと(前列最右に米内) 総理大臣を辞任後、病院通いに東京市電を利用していたが、米内だということがすぐわかり、至る所で国民にサインを求められたり話しかけられたりした。日本では総理経験者となると自家用車やハイヤーなどを使って通院するのが一般的であるため、公共交通機関を使って通院した戦前の総理は米内くらいだったという。海軍から公用車が派遣されたが、「予備役なので」と断っている。逆に陸軍は次官の子弟の通学の送り迎えにも公用車を使い、国民の顰蹙を買っている。 1945年8月17日、東久邇宮内閣の閣僚らと(2列目左から2人目に米内) 9月15日、日独伊三国同盟に対する海軍首脳の会議があり、軍令部総長・伏見宮博恭王が「ここまできたら仕方ない」と発言し、海軍は同盟に賛成することを決定した。翌日、会議に出席していた連合艦隊司令長官・山本五十六は、海相・及川古志郎に、米内を現役復帰させ連合艦隊司令長官に就任させることを求めている。この日は昭和天皇が伏見宮の更迭を口にした日でもあったが、及川は米内の復帰と伏見宮更迭を拒んでいる。10月末または11月初頭、山本は及川に米内を軍令部総長として復帰させるよう提案した。この時も及川は採り上げなかったが、山本は11月末に再び米内の連合艦隊司令長官起用を及川に進言している。この時、伏見宮は米内を軍令部総長とすることに同意した。しかしのちに伏見宮が辞任した際、後任として伏見宮が指名したのは永野修身であった。及川は米内の中学の後輩で米内を尊敬しており、第3次近衛内閣成立の際に米内の海相としての復帰を図ったことがある。こうした米内の現役復帰をめぐる動きはいずれも実現せずに太平洋戦争を迎えた。 1943年(昭和18年)、海軍甲事件で戦死した盟友・山本五十六の国葬委員長を務める。だが軍人が神格化されることを毛嫌いしていた山本をよく知る米内は、後に山本神社建立の話などが出るたびに、井上成美とともに「山本が迷惑する」と言ってこれに強く反対したため、神社は建立されなかった。米内は『朝日新聞』に追悼文を寄稿、その中で「不思議だと思ふのは四月に實にはつきりした夢を見た、何をいつたか忘れたが、今でも顔がはつきりする夢を見た、をかしいなと思つてゐたが、まさかかうなるとは思はなかつた」とその夜のことを振り返っている。 1945年8月17日、東久邇宮内閣の閣僚らと(2列目左から2人目に米内) ■晩年 盛岡八幡宮境内にある米内光政像。像の原型は盛岡市出身の堀江赳、碑文は小泉信三による。 1946年(昭和21年)、公職追放となる[27](死去後の1952年追放解除[28])。元大臣秘書官の麻生孝雄に誘われて、小島秀雄元海軍少将や大臣時代の副官らと共に北海道釧路町の達古武湖付近で北海道牧場株式会社(通称:霞ヶ関牧場)の牧場経営に参加する。 1948年(昭和23年)、肺炎により死去。68歳と1ヵ月だった。軽い脳溢血に肺炎を併発したのが直接の死因といわれている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月06日 08時24分47秒
[政治家] カテゴリの最新記事
|
|