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カテゴリ:仏教、神話、哲学
顕教というものはやはり「空」というものを求め、目指すような教義になっていると思う。
小乗仏教は微妙なところもありますが、ただ「空」の認識の違いだけでしょう。 空を「求める」限り、それは対象として見ていますから、体得するのは難しくなると思います。 既に「そこ」に空はある訳です。 唯識は良い線行っていると思います。何故なら「空」の思想とは対極とも思える「心」の分野を開拓したからです。 しかし唯識は究極ではないのです。 覚りに達していないからこそ「識」の次元で輪廻転生しているのです。 仏になる為には識を浄化して消滅せしめてやっとなれるのです。残るのは円成実性だけですから、これが仏性なのでしょう。 それで唯識を越えるにはやっぱり「空」の思想に頼らにゃあならんのです。 それが法華経。十住心論では法相宗(唯識)の次に三論宗(空)を持ってきています。これはつまり「覚り」の位で並べているからそうなるのでしょう。 法相宗(唯識)では仏性のある者、無い者を論理的に分けてしまっています。(論理的)ボトムアップ型の成仏論ですね。それに対して最澄は(空の)覚りのトップダウン型ですから悉有仏性なんです。法相の論者は「いや、その理屈はおかしい」と云うんですけど最澄は「論理じゃないんだ。空は。論理を組んでるから仏性を理解できてないんでしょうが」という対立だったと想像します。 まあ法華経では悉有仏性で成仏を目指す教えです。 そして顕教究極の華厳経では「この世界は清浄なのだ」という段階にまで至ります。「万物は仏の説法なのだ」と考えます。これはもう殆ど密教と同じですね。 そして密教ではそこから「で、どうする?」という段階なのですね。 どうする?とは仏としてどのような行為を行いますか?という段階。それが真言宗の悟りということになる。 だから大日如来は世界に展開する。華厳だと「世界の清浄を説く」説法だったのかもしれません。顕教では「求めて」その究極が清浄なる「空」だった。万物は間接的な説法しますが、仏身仏説仏心そのものではなかった。密教では万物(六大)は仏身仏説仏心そのものです。 つまり五智は求めてそこにあるものではなく、「ここ」にある。相対世界にだって五智は貫徹している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年05月06日 00時58分06秒
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