般若心経の「観」について
般若心経を考えてみるにあたって、観自在菩薩の「観」とは何かを考えてみましょう。「観」とは「止観」の観のことではないかという般若心経の研究家もいらっしゃいます。私の場合「アートマンを自在に見てる菩薩」じゃないの?って思たんですよ。でもよく考えてみたらそうではないと気付いた。けど取り合えず聞いてください。仏教ではアートマンを否定するって考え方が根強くあるのでこれは奇妙奇天烈な発想です。お釈迦様の教えは「アートマンに実体はないよ」とか「アートマンが”有る思う”な」という言い方で説法していたと思うんです。観自在菩薩が舎利子に説法するには、舎利弗の理解してない処を説かなきゃならない。舎利弗は阿羅漢ですから、もう再び生まれ変わってくることがない存在です。舎利弗は煩悩を滅塵して無我の境地に至っています。ここからは般若心経が法華経と共通している部分なんですけどね。菩薩が大乗の道を舎利弗に示しているのです。法華経の伝えたいことは、「仏になることを諦めるな」ということです。弘法大師は天台宗(法華経)の悟りを十住心論で一道無為心と名付け、観自在菩薩の真言を当てておられます。何故天台宗(法華経)が観自在菩薩なのか、十住心論の研究家は不思議がっていると聞いたことがあるのですが、原語をたどると「智慧を観る」みたいな感じの意味らしいですので「アートマンを自在に観る」という解釈も面白いと思います。ですが、アートマンを観るという解釈は間違いですね。もしアートマンを自在に観るのならとっくに仏になっている訳です。ですが般若心経の本文は「空」と「無」ばかり。これは唯識に依らなければ理解できない理論なのだと思います。そして「阿耨多羅三藐三菩提」は無上正等菩提なのですが、私はこれを「発菩提心」のことだと思っております。つまり成仏を目指す菩薩道の悟りですね。これを舎利弗に説いている。「止観の観」の場合、ヴィパッサナー瞑想ということになります。大乗部にも歩行禅の様なものがあるとはいえ、上座部仏教の方が観に詳しいんじゃないだろうか?いわば舎利弗は観のエキスパートです。舎利弗は釈迦十大弟子の一人で、智慧第一と呼ばれています。なので観についてなら舎利弗の右に出る者はいない。もう一つ。「観想の観」ではないか?という説も聞いたことがあります。観想なら密教の瞑想法ですね。観想がどういう意味を持った瞑想法なのかは自分はよく分かりません。しかも「雑密」という扱いになるでしょうし、大日如来と一体になるような瞑想法ではないです。般若心経は菩薩の説く陀羅尼なのです。それでも「観想が自在な菩薩」という意味なら密教修行に優れた菩薩という意味になります。それなら般若波羅蜜多咒を説くに相応しい菩薩ということになりますね。ですが、具体的に観想する風景を般若心経は説いていません。なので観想の観も違うでしょう。この「観」は唯識的に、「遍計所執性を見抜く観を持つ」いう意味に解すべきだと思います。だからこそあれも空。これも空。と観自在菩薩は述べているのだと思います。