【十万字】独り精神言論 & 過去記事ピックアップ
※投稿した精神論と独り言や過去記事をコピペ溜め※【日々乗り越える ~小さな挑戦の積み重ね~】「人生とは"未知なる挑戦"の連続」…日々を過ごしてきて"いつも通り"と呼べることはいくつあるのだろうか。いつも通りと呼べるものは『習慣』と名付けることが出来るが、人生を大まかな流れで見てみると、大抵が"未体験"であることが多いね。初挑戦と呼べることが思った以上に多いのだ。 人生は挑戦の連続である。いつも通り、と呼ばれるものも、時が経てば廃れることもある。いつも通りが通用しなくなる。新しい挑戦を強いられることもある。その場合、場馴れしておいた方が優位に進められる。初挑戦慣れとでも言おうか。原則さえ分かればすんなりと対応できたりするんだ。挑戦にヒビってはいけない。挑戦は普遍的なものなんだ。生きること自体が初挑戦なのだから。挑戦を楽しめばいい。ほどよい緊張感は、挑戦を楽しむためのファクターとなる。過度な緊張感はろくな結果を残さない。どうしようどうしようと立ち振舞いだけに気を配り過ぎると何も見えなくなる。失敗しても全てを失うわけじゃない。そんな大変危険なギャンブルを歩むほどの冒険心は持ち合わせていない。小さな挑戦でいい。大勝負は、小さな挑戦を積み重ねた先でできるものだ。大勝負ってのは、自分の実力を試せるチャンスだ。存分に力を発揮し、それでも及ばないときだってある。まだまだだなと振り返って更に邁進するか心が折れるか。それだけの大勝負に挑むのもいいだろう。積み重ねてきた成果が出るのか否か。それだけの大勝負は、大きな成長につながる。きっかけは大事。きっかけにより大化けする可能性だってある。チャンスがあれば突っ込む。それくらいの気概が、人生を楽しむために必要だ。 成果がないなんてあり得ない。成果を挙げずに禄を食むなんて恥さらしだ。恥さらしなのに恥知らずになったらおしまいだ。どんどん堕落して抜け出せない沼にはまるだけだ。成果が挙がらないのは、成果が挙がらない"いつも通り"を繰り返しているからだ。工夫が欠如している。情熱が方向音痴だ。向けても無意味な方向に力を入れているからだ。労力の浪費だ。頑張っているつもりの頑張っているふりなんて見苦しい。本当の努力とは、方向性を真剣に見定めて、適切な方法で成果獲得に向かうことである。無闇に突き進むのが努力じゃない。それが通じるのはビギナーだけだ。最初の数日だけだ。工夫が足りない。学習する力がない。そんなことでは"自己だけ満足"の醜態をさらすことになる。どんな恥知らずでも、醜態をさらすのは堪えるだろう。それに気が付かないのは気の毒でしかない。無意味なんだよ、そんなこと。誰も得しない。得するための努力をしようよ。努力の方法なんて無限にある。手段は無限大なんだ。無限の手段の中から、限られた時間で出来る最高の手段をぶちこむんだ。そうするためには"考える"ことだ。ただ頭のなかでグルグル思考を巡らせるのが"考える"ではない。表現して初めて"考えた"と言える。考えた結果、すぐ行動に移して成果の検証をするもよし、行動する前にノートやスマホに考えた結果を書いて思考を練るのもよし。成果につながる思考を行うんだ。そして、何かしらの行動(アクション)を起こすんだ。何も動かないのは考えていないのと同じ。へたな考え休むに似たりだ。考えたなら、なにかしらアクションを起こそう。そして、考えた結果のアクションを連鎖させて成果につなげるんだ。【関わる相手を選ぶ ~慎重な環境選び~】「関わる相手を選ぶ」これは、社会で生きる上で大事なテーマだ。 人は無意識の内に、周囲の人間や環境に影響を受けている。信念が弱い人は特に、その環境や空気に影響を受けやすい。その環境は好ましいところか?判断材料として頭に入れておくべきである。_______________________【勧学】環境は大切で人は染まる by 荀子●優れた人物でも先天的に優れているわけではない。物の利用の仕方が巧みなのである。・立派な人は学ぶ方法を工夫している。・どんな物事でも学べる要素はある。●優れた人は必ず土地を選んで居を定め、優秀な人物とだけ交わる。ためにならないモノは遠ざけて"正しさ"に近づくためである。・学べる環境を選んで一心不乱に取り組む。●口が禍いを招くこともあれば、行いが恥辱のもととなる場合もある。立派になるなら、自分の依(よ)って立つ場所に慎重でなくてはならない。・言動に注意し反省し続けること。・日々の言動は"習慣"として定着していく。・その習慣は、その人の性格にも影響を与える。・習慣や性格の形成は、環境から影響を受けやすい。なので、環境は慎重に選ぶべきだ。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄…古典の荀子にも環境や関わる人を慎重に選ぶ重要性が記されている。優れていると感じている人物と関わるべきなのは、その人が自身が理想と感じている生き方を実践しているからだ。自分にとって手本になる生き方をしているということだ。逆に、ためにならない生き方をしている人物を遠ざけるのは、自身の時間を浪費しないためだ。時間には限りがある。それと同時に、人生で関われる人にも限りがあるんだ。 人生をより楽しく充実したものにしたいならば、理想的な生き方をしている人に積極的に関わるのが良い。恐れず学び続けて、自分自身を成長させることが出来るからだ。ここで言う"正しさ"とは、自分自身が納得できる生き方を指す。こうあるべきだと自分自身が抱えている理想とでも言おうか。人によって"正しさ"と感じるものは千差万別ある。自分自身が納得できる"正しさ"を実現させるには、すでに実現させていると思われている人から学ぶのが一番手っ取り早い。 "正しさ"とは、目に見える形で実現させて初めて達成される。実現できれば、達成感というのか、納得感に満たされて充実した気持ちになるだろう。自分の歩んだ道は正しかったと、誇りをもって胸を張れるだろう。その積み重ねが、確固たる自信につながり、信念となっていく。日々充実感をもって生きるには、日々学んで、日々自信を積み重ねることだ。そのためには、関わる人を慎重に選ぶべきだ。限られた時間を快活に有意義にするためにも、関わる人選びは慎重に丁寧に行っていこう。 環境と人を選ぶならワガママである方がいい。自分自身が納得出来る環境と人を選ぶんだ。「自分で選んだ」と納得していれば、選んだ責任を意識出来る。自分の選択の自覚が無ければ無責任になる。無責任はラクだが自由さが損なわれる。誰かのせいは不自由を生む。だったら、自分が納得する選択をすればいい。自由と責任は表裏一体。自由に楽しく過ごしたいなら、選択に責任を負うのも大切だ。責任感を抱ければ、一つ一つの行動と考えにも変化が生じるだろう。より自立的になろうとする。責任と自立は似通っている。自立できた人が自由を得られるんだ。余裕綽々で楽しく過ごせる。選択は慎重に。選択には責任が伴うと理解する。納得できる選択をする。間違えた選択をしたと感じれば、違う選択肢に向かうか、選択した先で自立的に頑張るか、そのどちらかを選ぶ。選択しなければ前に進めない。だが、浅はかな選択は大きな悔いを残す場合もある。選択には慎重であるべきだが、それ以上に大切なのは『選択に責任を持つ』ことである。自分の人生には自分で責任を持て。他人任せにすれば自由は束縛される。そんなのつまらない。選択に責任を持ち、たとえどんな選択をしたとしても堂々と快活に生き抜いてやる。そんな気概も、選択や覚悟には必要だ。《《今日だけ頑張る。本気を出す習慣》》…一つ一つの積み重ね。1日1日の積み重ね。今日だけ頑張れれば、明日も頑張れる。"本気を出す"習慣というのは、そうやって育まれる。今日を頑張れなければどうなる?手を抜く癖、手加減して物事から逃げ腰になる、サボり癖がついて全力を出さない。今日を頑張れなければ、明日も頑張れるわけがない。同一人物だからだ。明日頑張ると決意しても、明日になったら再び「明日頑張ろう」となる。先送りというものだ。そして延々とやらなくなり、いつしか決意も情熱も損なわれる。結果、残るのは損失感だけである。何もしなかったのだから、時間を無駄にしたからそうなる。やるならやる、休むときは休む。メリハリが大事。バーっとやることをやって、しっかり出来ているかチェックしてから、ようやく安心して遠慮なく休める。切り替えられるようにする。だからこそ、限られた時間を有効的に使うんだ。1日1日を積み重ね、その成果が現れ始めると楽しくなってくる。愉快な気持ちだ。楽しめると分かれば、更に意欲的に取り組むようになる。分からないままだと迷走する。頑張れば頑張るほど苦しくなり、成果も出せずに失望する。それでも、分かるまで諦めずに頑張り続ける。工夫をして修正とグレードアップを図る。見直してうまくいけば、楽しみ方がまた一つ増える。そうやってモチベーション管理をするんだ。感情が不安定だと集中できない。感情が安定すれば洞察力が高まって気付くことが多くなる。取捨選択が瞬時に出来る。処理能力が高くなる。優先順位がパパっと出来るからだ。だから日々の積み重ねと学習が大切なんだ。そうやって成長していくんだ、社会人として。"今日だけ頑張る"を続けるには、少しでも進歩があれば褒めることである。自己肯定感を高めるためだ。自己肯定感は自信につながる。自信があれば堂々と行動できる。堂々とできれば、自分を頼れるようになる。自分で何とかしようとなる。他力本願じゃない。自力本願になれる。自分を頼れれば、自力で何とかする気力が湧く。思いは力になる。自己肯定感は、自立に向けて大いに役に立つ。そして、自分の力を証明する成果が明らかになれば、自信は揺るぎないものになる。それが、信念の糧となって自力本願となれる。そうなるには、1日1日を積み重ねるしかない。つまり"今日だけ頑張る"を続けていくことだ。もっと頑張ろう。頑張れば、限界は常に更新されていくのだから。《認めて見抜く"敬意の感情"》「尊敬に年齢は関係ない」…たとえ年下であっても、たとえ後輩や部下であっても、凄いと思ったことは素直に認める。凄いと認めて、真似れるなら吸収して糧とする。尊敬に年齢は関係ない。たとえ自分の半分程度の年月しか生きていなくても、様々な修羅場を乗り越えて人格者になっている人などザラにいる。人によって歩んできた道は無数にある。尊敬に値する人も、年齢関係なく無数にいるだろう。 気が付けば、最近のNBA選手は俺より年下が多くなってきた。それでも、プロとして模範となる人格者が大多数なんだ。それは教育の賜物ではあるが、よく学習して実践に移す選手達も立派である。だからこそ、今でもNBAの物語を見続けるのだ。ニュースやコラムで見るNBAの物語は好きだ。その考え方や哲学は参考になる。 年齢で相手を見くびると見誤るよ。一人一人、ちゃんと生きているよ。相手を大人と認めるんだ。大人として対応すれば、相手は大人扱いされていると察して、大人としての対応をし始めるんだ。相手を認めている証拠だ。社会人としては大人にならないといけないが、プライベートで遊ぶときは"大人の仮面"を外してもいい。ま、大人仮面の影響をいつの間にか受けて、大人な考え方になっていることが多いけどな。そうなれば、はめを外すことはないね。そうやって日々大人になっていくんだ。大人の先は老練だ。老練になるのはまだまだ先でいい。社会人を引退するまでは、大人として立派に生きればいい。 年下や後輩、部下に敬意を持つのはいい。だが、無闇に褒めるのは得策ではない。褒めすぎると言葉を軽く捉えるようになる。過ぎたるは及ばざるがごとし、ってやつだ。普段厳しく指導されていても、本当に良い成果を挙げたときに褒められる。それがいいんだ。寛猛相済、ってやつかな。厳しさと柔軟さ。言葉にもメリハリが大事なんだ。後輩や部下は、頼りないと察すると、どんどん相手を嘗めてかかってくる。敬意を忘れるんだ。敬意を忘れた人は、どんどん道を逸れていくんだ。努力の方向音痴にもなる。ま、だからといって嘘の敬意はいけないな。敬意とは『相手を認める』ことである。敬意があれば相手を見抜ける。敬意を忘れると相手を見抜けない。敬意は、人や物事を観察する上で必要な感情である。敬っているふりはバレる。逆に嘗められていると感じるものだ。大人といっても、誰もが寛大とは限らない。 敬意を忘れた人間はどうなるか。"俺様対応"になる。皮肉を込めて"神様対応"とも言う。天上天下、自分が一番、自分さえ良ければそれでいい。他は知らない。他は切り捨ててもいい。そんな傲慢な考え方に陥るんだ。そしていつしか人の恨みを買って、陥れられていくんだ。足元を掬われる。社会は人間関係で成り立っている。その人間関係が崩れれば、自分の居場所はあっという間に失われていく。淘汰されていく。そうなれば、強制的に放浪の旅や冒険にいかなければならない。それも1人で。そうなってから初めて、自分の愚かさや至らなさに気が付くんだ。全てを失ってからでは遅い。もう取り戻せない。多大な代償を払って勉強させられることとなる。 人間に敬意を払えるとどうなるか?相手を見抜ける。人間関係を見抜ける。環境を見抜ける。先々の展望を見抜けるようになるのだ。敬意は、観察力を高める感情だ。喜怒哀楽に揺さぶられると見誤ることがある。感情の起伏が激しい人はなおさらだ。敬意は、社会で自分が安心して生きられるために必要な感情だ。偽りの感情じゃない。正真正銘の純粋な敬意だ。正真正銘の敬意があれば、人も社会も世の中をも見抜けるようになる。本質を理解しているからだ。 素直な気持ちで敬意を抱く。イメージとしては、鬼滅の無限列車編で出てくる炭治郎の無意識領域の世界だ。無限列車編で感動的な一面の一つだ。自分が救われたいがために悪事に手を染めようとした青年を、炭治郎の無意識領域の温かさが"説得"してしまうんだ。自分の欲望を越える、あたたかくて心地が良い領域だったのだ。この人を害したくはない。そう思い止まらせてしまうのだ。純粋で素直な心の持ち主は、こういう人物を指すのだろう。素直に認められる人物は、相手への敬意に満ちている。 敬意は観察力を高める感情である。純粋で素直な気持ちでありのままを見抜く。心が歪んでいると見えなくなる事象も、素直な心であればストレートに受け入れ認めることができる。そして、聡(さと)い者であれば、認めた上でどうするか考えていく。過去に凝り固まっているよりも、未来への布石を打つ方を優先する。過去に囚われないのは、過去は過去のものとして既に心が処理しているからだ。"現在"とは、過去と未来の狭間で存在している。今一時を生きる。素直な心で生きている人は、常に"今"を真剣に生きてきた。今どうするか?今をどうしたいか?今なにをすべきか?それが常に頭にある。今を真剣に生きているんだ。今を"自分らしく"生きている。だからこそ、自己肯定感は満たされている。自分の好きなところ嫌いなところ、良いところ悪いところ、それらをも素直に受け入れて生きている。自己肯定感さえ満たされていれば、相手に対しても素直な心で見透かすことができる。たとえ相手が表面上は違うと感じていても、後に振り返ったときは実はそうだったと気付くケースも多い。素直な心というのは、頼りなさそうに見えて、実は芯の強さがあるんだ。確固たる自信。自分を知り、自分を信じているからこそ、相手も同様に信じることができる。 敬意を払えるようになれば、人生は好転してくる。良いことは良いと認め、悪いところは悪いと指摘する。その"当たり前"のことを瞬時に即座にできる。場の雰囲気を読みながら物事の良し悪しを判断する。そして、その場に即した適切な対応をする。敬意があればできる。相手の存在を認めているからだ。敬意を払うとは、存在を認識していると相手に伝えることでもある。一個人としての存在を認めてくれれば、段階的に心を開いてくれるだろう。 敬意は、良好な人間関係を築くために必要な感情だ。最初は形式上でもいい。次第に観察力を磨きあげ、純粋で素直な敬意を抱けたらいいね。敬意に必要なのは"善悪の判別"だと思う。良いものは良い、悪いものは悪い。その判別を瞬時にできる自分なりの原則をもつんだ。そうすれば、自分なりの敬意の感情が湧いてくる。【出遅れた人間の独り言】…俺は出遅れた人間だ。スタートダッシュに見事に失敗した者だ。取り残されていることに気付かず、ただマイペースにのんびりと生きていた。出遅れたと自覚してからは絶望感に苛まれていた。後悔した。でも、もう取り返しがつかない。皆が当たり前に出来ることを理解できない。「よーいドンで鳴る銃の音を いつの間にか聞き逃していた」…米津玄師の"TEENAGE RIOT"の歌詞の一部だ。この部分にひどく共感した。 皆すでに走り出しているのに、始まっていることに気付かず立ち止まっていた。だからこそ"地獄の奥底にタッチ"しなければならなくなる。地獄ってのは極端な言い方だが、何もないところから開始しなければならなくなった。 まともに予習もせずに社会人となった。当たり前の常識すらもまともに知らない。世間知らずも甚だしい。それでも、何とか食いつないでいる。常識知らずでも何とか生きていけるものだな。ま、それができるのも周辺のサポートがあったからこそだけどね。無気力で無関心だった若僧でも、社会に出て10年も経過すれば様々な物事を覚えてくる。もちろん、それには環境が大きく影響しそうだがな。もし、変化がない閉鎖的な環境だったとしたら、ここまで広く世間を知ることはできなかった。これは感謝だね、周辺の人にも、過去に関わった人達にも。そして、諦めずに生きてきた過去の自分にも。よくここまできてくれた。そう思うよ。 出遅れ感がするなら、せめて年齢相応の実力を備えたいものだ。年齢相応ってなんだ?世間一般的にイメージされる、その年齢層のスキルや知識、役職を指す。俺の年齢の場合はどうなるんだろうね。基準を調べてみるのも面白そうだ。年収や役職、結婚の有無や家族の人数など、様々な項目を気が向いたときに調べてみよう。「身を粉にして働く」とは聞くが、俺は実際にそれを行ったことがない。猛烈に働く期間だ。俺はその経験がない。勤務時間になったら出勤し、定時以降で一段落したら帰るようにしている。もしくは、集中力が切れたらもう帰る。何も進められないからだ。ある程度自由にやっている。仕事は無数に出てくるし出せる。制限が必要だ。制限を設けて過労に気を付けるんだ。ま、身を粉にして働くこと自体は、漠然とした希望としてもっているんだよな。なぜなら、働きづめになれば、その分多くの経験を積めるからだ。多くの知識を身に付けられるからだ。だが、無駄に長時間働いても無意味だ。集中力が切れれば進捗はゼロのままだ。それだと意味がない。だから、無理だと思ったら潔く撤収するんだ。特に20時以降はダメだ。全く集中力もやる気も出なくなる。無意味に遊び始める。だったら、潔く撤収して、翌朝早めに来て処理した方がいい。朝だと集中力が一番高い気がする。5時30分に起きる習慣も身に付いてきた。ただ、朝方早めに来ても、何をすべきか何も記録がないと"探す"ムダが発生する。貴重な朝タイムを有効活用するためにも、帰る前に明日の自分に向けた引き継ぎをすべきだろう。やることリストの作成は5分で済む。やっておきたいことを思い付くまま箇条書きにすればいいだけだからな。夜は休む時間、朝は処理する時間。メリハリが大事だ。スタートダッシュに成功すれば1日良い仕事が出来る。それは、過去の経験から分かっていることだろう。夜はまとめる時間、朝は進める時間だ。それをルーティンにして"当たり前"にするんだ。 相手探しで一番いいのは、こちらからアプローチをしなくても相手から寄ってくるパターンだ。俺に魅力があればそれも可能だ。だが、結果はどうか。こちらからアプローチしなければ何も始まらない。結局今はその程度なのさ。それを認めるべきだな。この活動は沢山咸の考えが参考になるだろう。「柔上りて剛下り、二気感応してもってあい与するなり」ということだ。こちらからへりくだるのだ。俺は大したことないから、へりくだって相手をエスコートするんだ。心のふれあいがあって人間の社会生活は成り立つのだ。良好な人間関係を築く基礎固めだな。まだまだ未熟者だから、もっとしっかりやっていこう。 仕事をより頑張り、最適な住まいを見つけて、納得出来る相手を探し出す。これが俺の現在地だ。ようやく人となりの人生を歩もうとしている。いつまでも未熟者ではいられないんだ。成熟していこう。もっと頼りがいのある人物になろう。そうすれば、もっと人生は充実した楽しいものになる。まだまだやることはある。ボーっとしている場合じゃない。何者にでもなれるんだ、日頃の行い次第ではな。オンオフを切り替えつつ、もっと邁進していこう。 俺が目指すべきは"アンビリーバーズ"だ。米津玄師つながりで例えるならそうなる。今は信じられないことでも、日々の積み重ねで少しずつ近づけるんだ。その過程を貶されようとも馬鹿にされようとも、ただ単に自分が納得出来る道を歩むんだ。自分を信じるんだ。信じられないことは信じることから始まる。そんなキャッチコピーがあったな。俺が好きなフレーズだ。とにかく、自分を信じて突き進むんだ。【王道スタイルの確立 ~猛烈基礎固め~】…昭和のサラリーマンはどのようにして実力を養ったのか?これは勝手なイメージだが、まともに寝ず食わずで猛烈に働き、とにかく成果を挙げるために努力して頑張っていた。その頑張りを通じて、世の中を知り、知識を蓄え、社交的になって、それらの活動を通して辛うじて成果を挙げていた。競争が激しい社会で、選ばれるには相当な努力と工夫を積み重ねてきたのだろう。それから長い年月が経ち、年号が変わり労働環境も見直されてきた。 若い世代は、働き方を各々で考えて決めるようになってきた。どんどん出世して待遇をより良くしていきたいなら猛烈にバリバリ働き、一定の待遇と役割で良いなら最低限をキッチリそこそこに済ませる程度にするだろう。どちらにしても、これから大事になる考え方は「限られた時間の中でいかに多くの質の高い仕事をするか」ということだ。長時間労働時代は改められつつある。働く事とプライベートの両方をいかに充実させるかが、今後幸せに過ごすためのテーマとなる。 俺は、身を粉にして働くことが出来ない。長時間労働には向いていない。だったらどうするか?朝と夜の働き方にメリハリをつけるんだ。俺の場合、朝が一番集中できる。貴重な朝タイムを有効活用するため、帰る前に明日の自分に向けた引き継ぎをする。探すムダを無くして1日をスムーズに開始するためだ。やることリストの作成は5分で済む。やっておきたいことを思い付くまま箇条書きにすればいい。夜は休む時間、朝は処理する時間。メリハリが大事。スタートダッシュに成功すれば1日良い仕事が出来る。夜はまとめる時間、朝は進める時間だ。それをルーティンにして"当たり前"にするんだ。 目指すは『プロとしての当たり前』である。基本のキを習慣化させる。俺の常識とする。出来て当たり前を"当たり前"に行う。徹底的に基礎を固めるんだ。基礎固めは習慣化の一種だ。それを俺の王道として続けていくんだ。間違いに気付いたら即修正する。軌道修正を行いつつ、俺の王道スタイルを確立させてやるんだ。一つスタイルが確定してしまえば、それを基に臨機応変に対応すればいい。人は成長し続ける。拒んだり諦めたりしない限り、人は学習を続ける。そうやってどんどん叡知が広がっていくんだ。無数の叡知も、一つの原則から始まっている。その原則が"俺なりの王道"である。人により、王道スタイルは多少異なる。それでも、大本は似通っている。これは間違いないと思える王道スタイルがあれば積極的に取り入れて、俺なりの俺だけの王道スタイルを確立させてやろう。皆の良いところ取りをすれば最強になれる。学習して進歩しながら王道スタイルを確立させよう。【プロは全うする。鑑定士は鑑定する】【寓話】信頼を惜しむ人 ~説林編~斉国が魯国に戦いで勝ち、魯国の宝物を要求した。魯国はニセモノを持っていかせたが見破られた。{斉の者}「これニセモノじゃねぇか!」{魯の者}「いえ、本物です」{斉の者}「ざけんな。鑑定士に見せるぞ」魯国の王は鑑定士に上手くごまかすように頼んだ。鑑定士は魯国の王にたずねる。{鑑定士}「なぜ本物を持っていかないのですか?」{魯の王}「本物は惜しいからだ」{鑑定士}「私も自分の信用を惜しみます」…やっぱり面白いね、この寓話。鑑定士は、鑑定してこそ鑑定士なんだ。たとえ相手が王だろうがそこは譲れない。正々堂々と鑑定するだろうな。 餅は餅屋ということだな。何事も、それぞれの専門家に任せるのが安心だ。たとえ上手だったり知っていたとしても、素人は専門家には敵わないんだよ。プロとアマチュアの違いだな。プロは報酬をもらって社会的役割を全(まっと)うする。アマチュアは趣味か得意技くらいなもんだ。たとえ上手であっても、そこに社会的役割は無い。単に楽しんだり本職の補助的機能くらいしか持ち合わせていない。だったら、信頼のおけるプロに頼んでしまったほうが手っ取り早い。プロがプロと呼ばれるには、実績を伴う信頼が大事なんだ。信頼によって、プロはプロと呼ばれるんだ。自分自身の本職で、自分はプロと呼ばれるだけの技量や知識が身に付いているのか、今一度考えてみるべきだ。それによって報酬をもらっているんだから。 プロとしての役割を全うする。それが、仕事で課せられた義務であり、やって当然な行為なのである。役割を全うしてから報酬を得る。仕事の基本だ。中途半端で良いわけがない。徹底的にやり抜くんだ。たとえ相手がお偉いさんだったとしても、プロとしての信念を貫くんだ。誰が相手であろうが関係ない。冒頭の鑑定士のように堂々としていればいい。そうしてこそ、信頼のおけるプロと呼べる。相手は素人だ。素人だからこそ、プロが教え導くんだ。一種の啓蒙ってやつだ。プロは啓蒙活動もついでに行っている。結果的に啓蒙活動となっているのだ。自然な流れだ。最初はずぶの素人だった相手も、プロと一緒に活動して成果を挙げているうちに、素人から一歩進んだ存在になれる。100%ではなくとも、基本のキは分かっているから段取りや流れも理解しやすくなる。プロは様々な影響を与える。そうやって信頼を得て、更に幅広く活動していくんだ。 プロになるには、最低限の基礎知識や業界について理解していなければならない。業界の概要や関連法令、企業の役割分担や営業手法など、内外問わず把握するんだ。知らないなら調べて知る。教えてもらい待ちではなく自ら把握する。率先して学びとる姿勢が大事だ。プロとして当然の姿勢だ。新聞やTVなどメディアを通じて情勢を知る。実際に足を運んで生の情報を得る。集めた情報から分析して先々の展望を見極めて動く。ビジネスマンなら、ここまでやって当然だ。ちなみに俺は、まだまだ全然不足している。このままでは駄目だ。基礎固めだ。当たり前のビジネス習慣を"当たり前"のようにやるんだ。今までは、周りのサポートや運の良さから実績を挙げていた。だが、これから先はそう上手くはいかない。マーケットは限られているからだ。一つ一つ丁寧にアタックしないと、新規開拓なんて出来ないぞ。持ち味を生かして丁寧にアタックをかければ、いつしかチャンスが巡ってくるんだ。僅かなチャンスをモノにするんだ。その為には、相手の立場に立った提案をするんだ。真剣に丁寧に提案する。ビジネスマンとしては当たり前だが、それを当たり前のように実践するんだ。 俺の持ち味は"しつこさ"だ。かつて師匠的存在だった人から唯一褒められたことだ。諦めずにアタックする。しつこくアプローチをかける。それが、俺の持ち味だ。どんなに罵倒されてもへこたれない。ただ単に目的達成に集中する。淡々と時期を見定めてアタックする。どんなに怒鳴られようが怒られようが、気にせずアタックし続ける。そうやってきたからこそ、俺は少ないチャンスから成果を挙げてきたんだ。俺は"しつこさ"が持ち味なんだ。そう褒められたからこそ、それを長所として活かしていきたいんだ。どこで何がどうなるかなんて、誰もが予測不能だ。諦めたら試合終了だ。諦めなければ、試合はいつまでも続いていくんだ。しつこさを持ち味に攻め続けよう。 いつまでも素人でいられると思うな。素人のままでは中途半端なことしかできない。不安定なんだよ。偏りがあると落ち着かないんだ。満遍なく整えるんだ。全て出来るようにするんだ。俺の知る全てを満たして初めて、プロと呼ばれるに相応しくなる。まだひよっこだけどね。素人からプロの卵にはなれる。それじゃあまだまだ不相応だ。報酬分の働きとは言えない。プロの卵となったなら、あとは羽ばたくだけだ。知識の基礎が出来たなら、経験と挑戦を糧にして養い、一人でも飛び立てるようになるんだ。一人で飛び立てたなら、そこには自由と責任の世界が広がる。やることが無数にある世界にたどり着く。そうなったならうかうかしてられない。ひたすら戦い、養い、そして成果を挙げる。求めている成果を勝ち取るために戦い続ける。そうなって初めて、相応の報酬が得られ、利害関係者と対等な関係を築ける。対等であれば押し引きが出来る。対等であればお互いの為の取引交渉が出来る。同じ土俵に立つんだ。そして、課題を共にクリアしていくんだ。そうやって、ビジネスパートナーは増えていくんだ。信頼に足る人物だからだ。ビジネスパートナーは、良き協力者であり、良き相談相手となる。全幅の信頼を得られたなら、ビジネスマンとしては冥利につきるだろう。【誰もが自己都合 ~我儘と無責任~】…誰もが、他人のことより自分事で精一杯だ。皆そうなんだ。それが当たり前である。皆、自己都合で生きている。自分都合で生きて何が悪い?誰もが自己都合で生きる。そう思うのが"当たり前"だ。そう思えれば、多少たりとも"本当の気遣い"が出来るようになるんだ。相手の自己都合を尊重出来るからだ。自分の自己都合を認めさせたければ、相手の自己都合も認めるんだ。それが、本当の気遣いと言える。 我儘に生きるか無責任に生きるか。大雑把に言葉を選ばずに言うなら、人の生き方はどちらかに分けられる。我儘な生き方とは、主体的に自分の我儘に忠実に生きることを指す。主体的だからリーダーシップがある。我儘なので自分なりの考えがある。我儘を通したい反面、責任感もある。自分が主人公。周りを巻き込んで我が道を行く。反対に、周りの要望に応えることにより信頼を得る人もいる。無責任な生き方とは、ざっくり言葉を選ばずに言うなら"言いなり人生"のことを指す。主体的には動かず、とりあえず誰かの元で日々頑張ることを指す。自分が主役になることを求めていない。脇役でもなんでも、とりあえずやるべきことを粛々と行い、不満があれば主役のせいにしてストレスを発散する。別に悪い生き方ではない。脇役として全力で生きているのだから。ただ、自分で人生をコントロールするのは難しいな。何故なら、責任を他人任せにしてしまっているからだ。責任を負う覚悟が出来て初めて主役になれる。主役になる覚悟がない限りは、無責任な生き方、すなわち脇役としての生き方から脱却は出来ない。主役になる覚悟が、主体性を生み出すカギとなる。どちらを選ぶかは、本人次第である。その選択を尊重すればいい。 世の中、陰陽の理が当てはまることが多いと感じる。易経や老子を読むとそう思うようになる。結構影響を受けているな。我儘と無責任についてもそうだ。我儘はとにかく攻める。無責任はうまく受ける。我儘が陽で、無責任が陰だ。このバランスが良いと、チームはよく機能する。陽だらけだと収拾がつかなくなり、陰だらけだと縮こまってしまう。そのバランスが大事だ。そのバランスを見て、陰陽どちらを強化した方がチームをより機能させられるか。見極めが大切だ。 我儘と無責任。それぞれに肯定的な言葉を当てはめると何になるのか。我儘は"責任感ある人"としよう。無責任は"協調性ある人"としよう。我儘を通すなら、その分責任感も伴う。それでも我儘を貫き通すなら、その人は責任感が養われるようになるだろう。逆に、責任を負いすぎたくないなら、責任を分散させる協調性が養われるだろう。皆で協力してやるべきことをやる。それは、役割分担として行われたり、教育をして一人一人を強化したりと、手段は様々だ。それぞれの持ち味を活かして皆で進ませる力は、協調性がある人が指揮を執って行われる。責任感ある人は突っ走り、協調性ある人は皆で進ませる。主に、責任感ある人が外交を行い、協調性ある人が内政を行う。そうするとバランスが良い。あとは、外と内のそれぞれの状況を見極めて判断する。だが、この責任感と協調性。これは誰にでも備わっているものだ。人によって偏りがあるだけだ。どっちに偏っているかにより、役割分担をするのがいいだろう。 我儘に生きるか無責任に生きるか。それは好き嫌いで決めれはいい。気に入った生き方をすればいい。理想は、どちらの生き方も出来るようになること。我儘に無責任に生きる。気が思うまま縛られずに生きる。責任感をもちながら協調性も大切にして生きる。自分も周囲も大事にして生きる。バランスが良いと良い人生を送れる。より楽しんで日々過ごしていける。我儘で無責任、上等じゃないか。責任感をもって協調性がある、最高な人格者だな。一つ、これを指標としよう。【一目見て瞬時にマインドセット】…どんなに決意を書いても、実際に行動に起こさなければ無意味だ。だが、行動を起こすには決意が必要だ。マインドセットを正す。自分の思いを整理する。自分自身を納得させる。そのために、思いの丈をブログにぶち込んでいる。読んでいる人が僅かの無名なブログに書き込んでいる。 口であーだこーだ言うよりも、ノートやブログに書いた方が具体的で目に見える。何をすべきか一目瞭然であれば、具体的にどうするか、すぐ考え動くことが出来る。一目見てマインドセットが整うからだ。一目読めば、自分の思いを思い出して即行動に移せる。気持ちが整えば迷いば吹き飛ぶ。自分が何者で何を目指しているか思い出せる。それを瞬時に出来るから、記録として書き残すことは効果的だ。実際、気持ちの切り替えとマインドセットは早まった気がする。ウダウダ悩む無駄を省くだけで、無用な時間の削減に繋がり、時間の有効活用を考えるのだ。日々、瞬時のマインドセットは大事だな。 過去記事の読み直しで、今まで投稿した記事の内容を下書き保存して読み直している。それを読めば、瞬時に積み上げたマインドセットを思い出し、気持ちを新たに1日頑張れる。自分なりの精神論を読み直すのが大切。自分で書いたのだから、自分が納得出来る内容となっている。下書き保存した記事は、10万文字になったら投稿しよう。10万文字に到達する頃には、思考習慣にも変化がおとずれているだろう。継続が大事。読み続けてより良い精神論を身に付けよう。 日々思うことはある。だが、その思いは時間が経てば忘れてしまう。残るのは感情だけだ。それに対してどんな感情が湧いたか、それしか残らない。それを思い出すとき、真っ先に感情が湧いてくる。喜びや楽しみなど肯定的な感情なら良いが、怒りや哀しみなど否定的な感情であれば、なんの理由もなく拒絶反応が出てしまうんだな。なぜ拒絶するのか、何かしら思い出して理由を述べるだろう。だが、その思い出は感情から湧き出されるものだ。肯定的な感情であれば肯定的な思い出が、否定的な感情であれば否定的な思い出が頭に浮かぶんだ。何に対しても肯定的であれとは言わない。拒絶をやめるべきとも言わない。ただ、自分の好き嫌いはハッキリすべきだとは思う。好き嫌いは選別の基準だ。好きであれば思うままもっと意欲的に関わっていき、嫌いであれば上手く避けながら無難に対処すればいい。好き嫌いで思い出に修正がかかるんだ。その感情から、それに対する評価にも偏りが出てくる。それは当たり前のことだ。嫌いなのに無理に好きであろうと振る舞っても得はしない。嫌いなことでも関わらなければならないなら、表面上うまく対処してサクッと離れるべきだな。嫌いの感情も、上手く使えば頑張れるエネルギー源となる。ま、好きの感情で意欲的に頑張るのが一番なんだけどね。嫌いのエネルギーでは疲弊して長続きしないが、好きのエネルギーなら半永久的に続けられる。飽きるまでずっと進められていく。まぁ、工夫次第で飽きる事なんて有り得ないけどね。それに、好き嫌いは表裏一体だ。少なくとも関心はあるということだ。嫌いなことも、続けていく内に楽しさに気付いて好きになる場合もあれば、好きなこともずーっと続けていくと嫌になってくる場合もある。好き嫌い以前に、興味があるか否かという基準がある。興味が無ければ何も反応しない。そもそも好き嫌いの感情すら発生しない。自分に関わりのあることなら、もっと興味や関心を持つべきだな。そうすれば、もっと真剣に向き合うことが出来るよ。人目を気にするのは限られた時間の中だけでいい。それ以外の時間は俺の自由だ。好き嫌いの判断も俺の自由だ。その好き嫌いの感情から、どうすればより良い状態になれるか考えればいい。その考え至ったことを、このブログにメモして思い出せるようにすればいい。瞬時のマインドセットで不安や悩みを吹き飛ばす。瞬時に感情を整理して、やるべき事に集中して済ませれば良いんだ。【オリジナル精神論 ~俺だけの道標~】…自分自身に語りかけるとき、自分の言葉で伝えれば伝わりやすい。自分自身に伝わる言葉は、結局は自分がよく分かっている。だったら、思い至った精神論を自分なりの言葉にして書き出し、それを何度も何度も語って読み続けていくんだ。そうやって、少しずつ精神論が浸透し、精神が強くなっていくんだ。精神論は、いわば精神の栄養材。その取り込み方を工夫すれば、浸透は早まっていく。自分自身の言葉なら伝わる。だから、俺は未来に向けて精神論を書き続ける。自分だけのオリジナル精神論を書いている。自分自身に伝わるのが最優先だ。他は"ついで"だ。読みたきゃ読めばいい。俺は俺の言葉でひたすら書いていく。オリジナル精神論は『俺だけの道標』なんだ。自分自身に伝わればいい。自分のことは自分で何とかする。自分のことは自分自身で奮い立たせる。それが"オリジナル精神論"の意義だ。完全オリジナル。ブログとして書いているのは、手軽さと埋もれやすさの2つの理由ある。手軽に書ければ思い至ったときにすぐ書けて、埋もれやすければへたにアピールしようとしなくなる。あくまでも自分自身のために書いているのだ。その目的を忘れない。場合によっては古典やアドバイスは借用するよ。それでも、それらは俺にとって材料でしかない。材料から自分自身で調理して、一つのオリジナル精神論とさせるのだ。俺だけに理解させればいい。それ以外は"ついで"だ。各々でオリジナル精神論を作り上げればいい。他人には他人の、俺には俺の人生がある。俺自身の道標だ。オリジナル精神論は、自分自身だけの道標なんだ。そう考えておけば、もっとオリジナル精神論を書く意欲が湧く。もっと未来に託してぶん投げることができる。言うのは自由。自分自身に対しては尚更(なおさら)だ。自分の事なのだから。自分のことは自分で何とかする。何とかしていくための土俵がオリジナル精神論なんだ。足元が固まれば、あとは突っ走るだけだ。突っ走ることだけに集中できる。迷いはない。道に迷うことはない。土俵が整って進む道が明らかになっているからだ。未来の土俵を築くためにも、俺はオリジナル精神論を書き続けていく。【休む権利を勝ち取る/決着させる】…不安や悩みがあると、心が落ち着かない。やり残しがあるとそわそわする。精神的に不安定だといつまでたっても休まらない。たとえ休日であっても"休んでいる"とは言えない。だからといって平日に向けた準備をする気にもならない。休めるときは休みたいんだ。それでも、やり残しや不安なことがあると心身ともに休まらない。だったらどうする?時間内に納得できるまで終わらせることだ。 休みの日は思いっきり休み、休み明けにガッと業務を進める。休みの日に出来ることは、休み明けにスムーズに事が運べるように段取りしておくことくらいだ。作業は無理。作業すると時間がふっとぶ。休めるときは十分に休むんだ。メリハリが大事。やらされ仕事をしてたら心は晴れない。頑張れる時間帯は午前中だ。それも、午前中の前半がいい。一番集中力があるときだ。その時に、溜まりに溜まった"やりたいこと"を全て終わらせるんだ。全てだ。それくらいの集中力がある。逆に夜は駄目だ。特に20時以降は居ても無意味。何も進められない。やることリストを作って、短い時間でやることをザッと終わらせる。 安心して"休む権利"を得るには、活動時間内にタスクを全て完了させるのが望ましい。たとえ終わらなくても、次の機会に瞬時に済ます準備を済ますのが理想だ。何時間も望まぬ活動をしていても不毛だ。嫌なこと程さっさと終わらせるんだ。タスクの瞬殺だ。サクッと済ませて憂いを断つ。そして、ぐっすり眠れるよう1日通して"段取り"するんだ。そうやって好循環を繰り返すんだ。嫌なことはサクッと終わらせる。快適な休みのために。休む権利を堂々と勝ち取るのだ。 事業を成り立たせるには、無数に発生するタスクを一つ一つ完了させる必要がある。無数に発生するタスクに対処するには、一人の力では限界があるので、チームとして取り組む体制を敷くんだ。チームとは責任の分散ではない。チームとしての取り組みとは、一人一人が責任を持ちながら協力と連携をして対処することを指す。責任の押し付け合いではない。チーム体制は、負担と役割を分散させる目的もある。一人だけの力と時間には限界がある。だからこそ、一人一人が対処できる状態から連携して対処する体制作りが肝となる。労力の分散だ。チームとして機能させるには、一人一人が役割と責任を果たすだけの実力を養うのが一番理想だ。だが、一人一人の経験と能力にバラつきがある。そこで役割分担と教育だ。役割分担でやるべきことを明確化し、教育によって対処範囲を広げるんだ。役割分担は比較的すぐできる。だが、それだけでは能力と経験の偏りがより顕著になる場合も出てくる。給料や待遇に差をつけるならそれでもいいが、同等待遇であれば能力と経験のバラつきは改善すべきだろうな。教育には時間がかかる。思考の習慣化には半年ほど時間がかかるとも聞く。時間をかけて少しずつ一人前に出来れば、それでようやく戦力として計算できるようになる。教育には辛抱が必要だ。途中で投げ出したり放置していては何も変わらない。今までの生き方や考え方を軌道修正させるのは大変だ。だが、一度一人前になってしまえば、それはお互いに財産となるだろう。教育者は教育スキルが身に付き、教育受けた人は立派な経験とノウハウを身に付けて個人ブランドの一つに出来る。教育は急がば回れ、半年を目安に長期的にじっくり段階を踏んでやるんだ。一人前になるまでは、役割分担によって負担と役割の分散を適時行うんだ。 "仕事"という言葉は広義的に使われており、"業務"という言葉は"タスク"という意味合いで使われているようだ。そうなると、俺たちが休む権利を勝ち取るためには"業務"を終わらせなければならない、ということだ。だが、営利活動を行っていれば、自ずと業務は次から次へと湧いて出てくる。無限に発生するんだ。そうすると、労働基準法など法律の抑止力がもし無ければ、俺たちは無限に業務を行う可能性だってあるんだ。無限に続く業務対応、考えただけでも恐ろしいね。自由は束縛されて無限に決められた行動を取らないといけないからね。休む権利というのは、国や法律によって保障(ほしょう)されているんだ。労働者としては感謝しないとね。 だが、それでも業務をある程度済ませないと安心して休むことができない。ずっとモヤモヤするんだ。そうならないよう、俺が出来ることは自ら終わらせるんだ。時間は平等。限られた時間内で多くの業務を終わらせておくのだ。そうすれば、心置きなく安心して寛(くつろ)げるのだ。心身ともに自由に休めるようになる。業務に俺の休みを邪魔されてたまるか。一つ一つ決着をつけてやるんだ。真の"休む権利"を勝ち取るためにも、時間内で勝負にカタをつける。真の休む権利を勝ち取ってやる。そのくらいの気概で、日々の業務に挑んでやるんだ。【人間力を養う/一般的な常識と教養】「一般的な常識や教養があるならば、 あとは自分勝手で自由奔放でいい」…俺はこう考える。自由の条件とでも言うのだろうか。一般的な社会的通念を理解していれば、あとは自由に振る舞って良いのではないか、と。暴君では迷惑だが、常識の範囲内で自分勝手に振る舞えばいい。 自分なりの生き方を表現する。自由奔放に自分勝手に生きる。それが理想的だ。だが、それを社会で表すのであれば、ギブアンドテイク、与えられたら与え返さないといけない。それが暗黙のルールであり、ごく一般的な通念だ。自分らしく自分勝手に生きたいなら、自分も相手や周囲に利益となる行為を行わないといけない。ギブアンドテイクで世の中は動いている。 自分のことは、自分がよく分かっている。だが、自分の姿は、相手の方がよく見えている。疚(やま)しい思いを隠して立ち振舞っていても、案外相手には筒抜けだったりする。言行に不自然さが残るからだ。よほど演技力がないと隠し通せない。ま、演技と思いが合致していれば、それは"本当"に成りうるんだけどね。ギブアンドテイクを上手くしたいなら、自分の願望を叶えるのと同時に、相手の要望にも応える必要がある。 ワガママ身勝手に生きられるのがいい。だが、そう簡単にはいかないのが社会だ。貰いつつ与える。その両方が出来るといいね。社会では『与える力』が強い人が権力や影響力を得る。相手の要望を察する力も必要だ。それが出来るのが"人間力"がある人だ。その人間力を養うのは、これがなかなかに大変だ。文章にしたら、とても収まる量じゃない。そもそも、俺が書けない。思い付かない。唐突に思い付いた時に書いて、蓄積させていくしかない。そして、その"人間力論"を読んで行動に反映させるんだ。人間力を養うには、俺の場合はこの手段となるだろう。【納得するまで頑張る ~自己満足追及~】…かつてこんな人がいた。その人はいつも職場に来て働いていた。気だるそうな顔をして、手をキビキビ動かして一つ一つ業務を処理していた。定休日も「ボランティアだ」と自嘲気味に笑って職場に来ていた。そして、やるべきことをやって、納得できるところまで終わらせたら帰っていった。これは、その人の意思だ。その意思で定休日など無視して来ていた。その人はこうも言っていた。「仕事だから。やることはやる」「大したことはない。ただの自己満足だ」と。ただ単に、自分が納得できるまで、ボランティアをしてまでやるべきことをやっていた。全ては"納得"のために。自己満足のためとはいえ、やっていたことは正しかった。身を粉にして働いていた。俺には無理だ。だからこそ尊敬していた。だが、当の本人は"当たり前のこと"をやっていたに過ぎなかったんだろうな。 ボランティアとは「やりたいからやる」活動ということだ。それはすなわち『自己満足を追及するためにやる』ということだな。だから、冒頭の意味はあながち間違っていない。気が済む状態になるまで、たとえ給料が出なくても自己満足のために来てしまう。納得するまで延々と業務を進める。そういう質(たち)なのだ。その結果、少しずつ賛同者が増えていき、協力者が現れて、冒頭の人がある程度は安心できるところまで整ってきた。ま、冒頭の人が満足することはなかったけどね。少なくとも定休日は休むようにはなってたよ。 冒頭の人は何故そこまでやったのか。もう一つ理由がある。「頑張っている奴が可愛そう」だからだそうだ。頑張っている人をほっとけない性格なんだそうだ。その反面、サボっているくせに頑張っているつもりになっている輩は嫌いのようだ。自分さえ良ければそれでいい、という態度の者を毛嫌いしていたな。頑張っている人と頑張っているつもりの人の違いってなんだろうな。頑張っている人とは"仕事に真剣に向き合っている人"ということで、頑張っているつもりの人とは"自分の保身のために必死に取り繕う人"ということなのだろう。頑張っている人は外に目がいっているが、頑張っているつもりの人は自分にしか目がいっていない。そういうことなのだろう。外に目がいっていれば、とにかく自分自身を動かして使えるものは有効活用して対処する。自分にしか目がいっていなければ、周りが見えずに自分の体裁のみ気にするようになる。そうなると、その動きにも雲泥の差が出てくる。たとえ隠そうとしても隠しきれない。態度は相手の方がよく見えるからだ。余計なことは考えず、真剣に向き合って純粋に頑張ればいいのに。俺はそう思う。とは言っても、結局は俺自身も保身のために取り繕うことはある。あとになって気付くんだ。あれは本当に真剣に向き合っていたのかと。よくよく考えたら、結局自分本意でしか考えていなかったと気付くケースは多々ある。相手や周囲が見えていない。結構あるんだ。周りが見えていなかったと後になって気が付くんだ。そこで反省して学習して対策を立てて実践すれば問題ない。修正した実践を継続させれば習慣となる。だが、俺の場合は同じ失敗を繰り返すことが多いんだ。学習していない。反省するふりをして学習していない。肝心要の学習を疎かにしている。そう思うんだ。痛い目に遭わないと学習しないのだろうか。失敗はメモって見直そう。失敗に気が付くようにするんだ。そうすれば、対処しなければならないとすぐ判断できる。失敗を失敗だと気付くことも大切だ。また、失敗に事前に気付くには、そもそも原理原則を理解する必要がある。小手先の対策ではその場しのぎで終わる。もっと大元の、その物事の原理原則を理解するんだ。それさえ分かれば、何をすべきか、何をしてはいけないか、事前に気付くようになる。原理原則を理解して物事に取り組むんだ。一つ一つの学習するんだ。「納得は全てに優先する」 納得するために頑張る。納得は自己満足の一種だ。納得できないなら、納得するまで頑張り続ける。でないと気が済まないからだ。気が済まないと休めない。寛(くつろ)げない。安心できない。だから頑張り続ける。納得するまで挑戦する。工夫する。努力する。端から見たら愚かしいかもしれない。実際、愚かだから頑張るんだ。方向性が不明確だ。何をすればいいか分からない。それでも考え続ける。考えるのは自由だ。いつどこでも考えることは出来る。だから考え続ける。より良くするために出来ることはないか。しつこく考え続ける。そして考えがまとまったならば、具体的に段取りを立てて遂行するんだ。上手くいったか否か、結果に関係なく反省して次に活かす。考える材料とする。納得するまで考え続け、納得するまで頑張り続ける。俺にはそれしかできない。頑張り続けるんだ。納得するまで、気が済むまで頑張り続けるんだ。納得すれば前に進める。腑に落ちれば前進できる。理解できたら前向きに歩んでいける。納得は重要だ。思念と行動が合致していれば、気分良く大いに活動できる。迷いが吹き飛ぶ。一心不乱に集中できる。納得したいがために、俺はブログを使って思考を整理している。書いて読んで再度書く。繰り返し行って、思考をより深めていく。思考を深めて、要点をまとめて指針とする。指針は分かりやすさが第一だ。パッと見で思い出して突き進む。一種の呪文だ。納得したことを簡潔にまとめる。納得事を指針としてパッと見で思い出せるようにする。そうすれば、軸はぶれずに純粋に進められる。始めなければ始まらない。俺はよく、何かを始める前にフリーズする悪癖がある。立ち止まって考え込んでしまうのだ。それも、納得が出来ていないからなのだろうか。それでも、立ち止まっていても何も進まないし、時間の無駄だ。考えているふりをするくらいなら、動きながら考えて行動した方がよっぽど有意義だ。そうすれば、様々な発見があって新たな発想が生まれる。それも、動いたからこそなんだ。立ち止まっていても何も情報は得られないが、動けば膨大な情報を仕入れることができる。納得したいなら動く。大まかな指針を設けたら、動いて見聞して検証して、自分が納得するまで挑戦し続けるんだ。《《楽しめば最大限に発揮》》…2021年のNBAファイナルはミルウォーキーBucksの優勝で幕を閉じた。最優秀選手賞は、無名の存在から8年かけてスター選手となったヤニス・アデトクンポだ。そのヤニスの信条は「余計な事は考えず、全力で楽しめば最大限の力を発揮できる」だ。「試合を楽しめば、自分を助けてくれる」 これは、ファイナルで2連敗した後に語った言葉だ。窮地に追い詰められながらも、試合を楽しむことを最優先にしたのだ。結果、第3戦からシリーズの流れを大きく変え、チームを47年ぶりの優勝に導いたのだ。この考え方は、一般社会でも言えるのではないか。思いっきり取り組み、悔いが残らないよう全力で楽しむことが、より良い仕事のモチベーションになるんじゃないか。そして、仕事の成果につながるだろう。この心意気を大事にしたい。《《《《感謝と尊敬は別に考える》》》》「感謝はしても尊敬はしない」…感謝する人物と尊敬する人物は別だ。なかには両方の場合もあるが、それは一旦例外と考える。 感謝する人物とは、養ったり育てられたりした恩人を指す。主に親がそうなる。だが、親を盲信する必要はない。無理に尊敬する必要もない。親は親の役割を果たしただけだ。子は勝手に感謝していればいい。無理に尊敬する必要はない。盲信していれば、世間を見る目が狭まっていくぞ。世界は広いんだ。自分の足で、目で世界を知ればいい。家に閉じ籠っていても、世間から取り残されるだけだ。自分の可能性を狭めるだけだ。もっと旅をすればいい。それが分かっている親は喜んで子を旅に出し、分かっていない親は心配して家に閉じ込める。進路を否定する。くだらない。子の未来や可能性を狭める親からは、離れてしまえばいい。尊敬する人物とはどんな人か。自身の自立を手助けた人、恩師とでも言おうか、社会で生きられるよう手助けした人でも言っておこう。手本となって導いた人。それは、身近な人でもいるし、遠い異国にもいる場合もある。自分に良い影響を与えた人は"尊敬する人"と言えるだろう。尊敬できる人が親であると心強い。だが、尊敬できない親、軽蔑すべき親だった場合はどうか。社会に出て自ら学び得ないといけない。人一倍学ばないといけない。なぜなら、尊敬できない親は"世間知らず"である場合がほとんどだからだ。知ったかぶりをする。分かったつもりでいる。そんな半端者からは離れればいい。世の中のほうが学べることが多い。多種多様な人がいる。そのなかで、師と仰げる人と出会えたのであれば、貪欲に真似ればいい。どんなに模倣したとしても、結局はそこからオリジナルになっていくんだ。とことん真似ればいい。尊敬する人から、どんどんパクっていけばいい。尊敬される人は強い人が多い。多少パクられようとも、そこから更に成長してしまうんだ、強い人は。だから、遠慮なく学び、吸収して自分の糧にすればいい。俺の尊敬する人は誰か?それが、俺自身の指標となっていく。そして、尊敬する人に自分のレベルが近付く度に、また更に凄い人を尊敬するようになる。移り変わっていくんだ、歳を重ねる度に。それが"成長"というのだろう。今のまま止まるわけにはいかない。限界を勝手に決めるな。成長は無限大にあるんだ。過去は変えられなくても未来は変えられる。くだらない過去に縛られず、今は想像できない素晴らしい未来へ歩んでいこう。《努力の方向音痴している場合じゃない》 朝は億劫だ。起き上がる気力が出ない。ギリギリまで粘り、意を決して起き上がる。こんな朝を、もう迎えたくない。朝を楽しみにしたい。早く朝が来ないかと、希望に溢れた朝にしたい。目覚めは大事。それ次第で、1日の良し悪しが決まる。日々、満足出来る生活にしたい。不安や後悔の無い生活にしたい。不安は引きずらない。後悔は、今後の学習の糧にしろ。今を大事に生きろ。1日1日の積み重ねだ。今日は何をする?スケジュールを決めろ。段取りを済ませろ。やるべきことが分かっていれば、あとは終わらせて帰るだけだ。帰った後の休息が楽しみなんだ。時間があれば、ゆっくりブログも書ける。そろそろNBA開幕だ。各チームの予想を書きたい。それには時間が必要だ。今日は何をする?どの様に進める?目的は?テーマは?目標は?真剣に取り組んで、ササッと終わらせる。2時間くらいは欲しい。今日の目標は、自由時間を2時間確保だ。帰る時間も決めた。今日は何をするか、今のうちに決めよう。 昨日は頑張った。頑張ったけど、成果が出なかった。疲れる。非常に疲れる。頑張っても、成果が出なければ単なる自己満足。全く意味をもたない。無理だな。そう思った。でも、無理でもやらないといけない。お金をもらっているからね。出来るわけがないと思っても、やるしかないんだよね。正直かったるい。無理をやれっていうのは。だが、出来ている人もいるんだよね。他の人が出来ることは、俺も出来るってことだ。眠い。気持ちが後ろ向きだ。頑張っても報われないのは厳しい。結果出したもん勝ちなんだよ。結果を出して評価されるのが当たり前だ。どんなに眠くても、どんなに無理と思っていても、とにかくやるしかない。出来るか出来ないかは一旦おいておこう。薄っぺらな過去にしがみついても無意味だ。一つ一つ積み重ねる。 頑張っているつもりじゃ無意味。自己満足の頑張りだけでは、怠けすぎと言われても何も言えない。成果で頑張りを証明すればいい。無意味な努力は徒労だ。もっと工夫しよう。ずっと思い続けている。思っているだけではダメだ。動いて結果を出して証明するんだ。無駄に時間を使うんじゃない。時間は平等だ。資産や環境は不平等でも、時間だけは平等に流れている。平等の時間を何に使うか。それだよ。濃密な時間を過ごせ。具体的に行動予定を決めろ。何も考えなくても良い状態にしろ。未来に指示しろ。そうやって、一つ一つを積み重ねる。あーだこーだ言われたくないなら、結果を出して黙らせればいい。雑音をシャットアウトしろ。集中力が切れやすいんだ、俺は。すぐ気が散っちゃう。プロになれ。頼られる存在になれ。価値を証明しろ。ムカつくなら、黙って結果を出せ。無駄口は不要。時々、言いたい放題は良いよ。ストレス発散だ。だが、やることはやれよ。 俺は、何のために頑張っている。もちろん、自分自身のためだ。だが、結局は周りの目を気にしている。だからこそ、頑張ってアピールをする。中身が伴っていなくてもだ。やっている振りをしている。俺の役割は「成果を挙げる」ことだ。だが、全然成果が挙がっていない。数字は正直だ。それで判断されるんだよ。当たり前だ。アピールをどんなにしていても、成果が無ければ「やっている振り」「やっているつもり」だ。それが、ビジネスの世界だ。内々営業だったらそれでもいいかもしれない。だが、俺はそんなことに興味は無いし、得意でもない。だったら、誰から見ても認められる成果を残すことに専念しよう。たとえ好まれなくても、価値があると認められれば問題は無い。なんやかんやで安泰だ。努力の方向音痴になっている場合じゃない。適切な努力だ。正しい方向性だ。日々考え続けろ。《髀肉の嘆(ひこつのたん) ~初心原点~》"徒(いたずら)に年重ね未だ功名ならぬ悔しさの喩え"…自分にとっての幸せを先延ばしにしていないか?今を楽しめているのか?最近、よく頭によぎる。楽しむことを先送りにして、苦しんだり怠けたりしている。それこそ"髀肉の嘆"というのではないか。純粋に追求する。追い求める。もっと自分に素直になる。純粋に楽しむには、結局自分は何がしたいのか、その原点に戻ることだ。なにか動機があって今の場所にいるんだろ。それを思い出そう。具体的に思い出すんだ。自分で選んだ道なんだ。恥ずかしがらずに明らかにしよう。そうすれば、純粋に頑張れる。頑張るとは楽しむことだ。苦しむことじゃない。そこを履き違えるな。目標があるからこそ頑張れる。いまは迷走しているんだ。闇雲に苦しんでいるだけだ。それじゃ何も実らない。純粋さを思い出せ。何が目的だったのか、さっさと思い出すんだ。《テーマ/スケジューリング/タスク/段取》…事前にテーマを決める。具体的なスケジュールを立てる。タスクを詰め込む。取捨選択すればいい。やっておくことをストックしていけ。次から次へとやることを用意するんだ。段取り8割ってやつだ。残りの2割を、制限時間内に終わらせるよう工夫するんだ。怠けていても何も成果は出ない。やれる限界までやってみろ。まだまだこんなものじゃない。少しは前進したじゃないか。動きながら喋れていたじゃないか。これを癖つけるんだ。これは個人戦。自分次第だ。どんどんやる。工夫して挑む。まだまだ挑戦は終わらない。見限られるまで終わらない。今出来ることは今やる。一時(いっとき)に一度だけだ。同じ機会なんてない。一つ一つクオリティ高く済ませよう。《《《《《休日とプランニング》》》》》…休日の解放感が半端ない。すべてを忘れたくなるよ。ノンストレスでいきたい。外はあいにくの雨だが、気にならない。家で雨の音を聴くのも好きなんだ。ちょっとした安心感に浸れる。風情もあっていいね。解放感と同時に、来週どうしようという不安感も奥底にある。その不安感は、休日の終わりが近付くにつれて大きくなる。それは、具体的なスケジューリングをしていないからだ。だったら、不安感が湧いてきたらスケジューリングをしてしまえばいい。煩わしいことから解放されるんだ。スケジューリングはプランニングとも呼ばれる。プランニングのほうがテーマも考えるから呼び名としてはいいかも。スケジューリングだと"計画のための計画"になりかねない。プランニングだと"何がしたいのか"も考えるから、テーマに沿ったスケジューリングが出来るんじゃないか。考え方や言葉遣いは思考に影響を与える。不安感が生じたらプランニングしよう。短時間でいい。5分程度でいい。気が向いたらやればいい。プランニングが苦痛に感じたら逃げればいい。だって休みの日なんだから、挑むも逃げるも自由だ。単に不安感を解消したいだけだ。趣味に近い感覚。そのくらいの気楽さでいい。休めるときは休む。頑張るときは頑張る。メリハリが大事なんだよ。《より良い休日を過ごす ~不安感解消~》~~~~~~~YouTube~~~~~~~~タバコより健康に悪い事 by ナガセの本棚~~~~~~~YouTube~~~~~~~~・不安感は肥満やタバコ並みに健康に悪い・コルチゾールが少しずつ出ていると体が休まらない・森か公園を1時間歩くと不安や悩みが止む・コーピングレパートリー…ストレス解消法を用意・緑茶、ガム、カカオ70%以上ダークチョコレート、バナナ、背筋を伸ばす、音楽、読書、アクションゲーム、笑う、ハグ、早歩き、筋トレ~~~~~~~YouTube~~~~~~~~…自分なりのストレス解消法を知る。そうすれば、ストレス耐性が身に付いて頑張れるようになる。ストレス解消法を知るには、自分の趣味を知るのがいい。では、俺の趣味はなんだろうか?最近はキャンプや山登りが好きだな。漫画を読むのもいい。音楽を聴くとリラックスできる。ブログに思いの丈をぶち込むのもスッキリするね。ゲームはやらない。カラオケは好きだな。飲み会も好きだ。飲み会はオンラインでも構わない。あまりグルメではない。最近はやってないが麻雀も好き。NBAについて考えるのは、趣味というより習慣だな。誰かと話しながら散歩もいいね。料理は普通かな。寝るのが好き。夢に浸るのがいい。温泉にはあまり行かない。湯船に浸かるのは時々でシャワーで済ます。テレビはあまり観ず付けっぱなしだ。YouTubeはよく観る。映画は時々観る。ショッピングはたまに行く。買い物は必要最低限。スポーツや運動はあまりしないがやると楽しい。筋トレの習慣はない。ストレッチはよくやる。物作りはやらない。仕事は少し嫌い。仕事の成果が出ると嬉しい。人間関係は狭め。コミュニケーションは若干苦手。気のおけない友人と話すのは好き。初対面の人と話すのは楽しい。人間関係は長続きしない。趣味が合う人と話すとずっと話していられる。自然と触れ合うのは好き。パーっと書いてみた。手軽に出来るのは、漫画、音楽、ブログ、YouTube、あたりかな。休日に時々やるのが、キャンプ、山登り、映画、あたりだな。ストレスを発散するリフレッシュ方法を見出だしていこう。《不安感を払拭して月曜の朝に臨む姿勢》…月曜の朝は憂鬱だ。それでも、気持ちを切り替えて進む。休みの間は止めておく。不安感が増大して休まらないから。少し進めると止まらなくなる。それはもはや勤務だ。事前準備だと自分で言い聞かせても、結局は勤務だと錯覚してしまう。それでは駄目だ。だったら、諦めて悔いがないよう休みを満喫すればいい。とことん満喫すればいい。全てを忘れ去ってエンジョイすればいい。そうすれば、不安感は消え去って「休んだ」という気持ちになる。しっかり休めた、という感覚は、物事を長続きさせるために大切なことだ。だから悔いが残らないよう休みを満喫するんだ。日曜の夜に不安感が来ても気にしない。まだ月曜になっていないからだ。そこから事前準備を始めてしまうと眠れなくなる。頭が冴えてしまうからだ。そんなことでは本末転倒だ。早めに事前準備をしたいなら、月曜の早朝にやればいい。日曜の夜は早めに寝て、月曜の早朝に気が済むまで事前準備を進めればいい。本当にやりたいという気持ちがあるなら、3時とか4時とか早朝に容易く目覚めて起き上がって活動を開始させられるだろう。それがないなら無理はするな。休めるときに休む。思いっきり満喫して不安感解消に努める。不安感をなくしてより良い仕事をする。それでいい。そうなると、休暇から勤務に戻るときはどのように気持ちを整えればいいのか?月曜の朝の過ごし方は大切だ。スタートダッシュで8割型決まると思っておいた方がいい。だからいま書いている。月曜の朝に何をすればいいのか。今日の朝はいつも通りの時刻に目が覚めた。いつも通りの平日の朝だ。余計なことはしない。ただ出勤に向けた準備を進める。それでも、頭はまだ休暇モードだ。少しずつ出勤モードに切り替えさせる。ここから1週間、より良い仕事をさせる準備をする。限られた時間内で事前準備を進めるんだ。月曜の朝は早めに出発し、喫茶店あたりで段取りやスケジューリングをするのもいいな。今日は無理だったけど。夜は21時に寝た。一度、4時00分に目が覚めたが、眠気と寒気で二度寝し、いつも通りの時刻に起き上がった。早めに出発して準備を整える理想は常に頭にある。だが、実現しない。いつも通りの出発時間になる。どうすればいいかな。何かを叶えたい気持ちが強ければ、無理しなくても自然と行動に表れるものだが、漠然とした曖昧な気持ちでは"いつも通り"で進んでいくんだな。それが駄目だとか仕方がないとか言っても意味がない。今の気持ちはこうなんだと、その結果を甘んじて受け入れるさ。そして、どうするか、どうさせるか考えを整理する。無理は長続きしない。やりたいことは長続きする。意識しなくてもやっていることは長続きするんだ。いったい自分は何をしたいのか。その答えを明確にするのがいいかもね。目標が明確になれば自ずと動ける。何をすべきか自然と分かる。月曜の朝だ。憂鬱になっても仕方がない。これからどうしてやろうか、意気揚々と今日に挑んでやれ。《《《いかに自分を演じられるか》》》…社会に出れば誰しもが、大なり小なり自分自身を演じて生きている。そうやって社会に適応していくんだ。どうせ演じるんだったら、とことん完璧に演じるのはどうか。社会という舞台でとことん演じるのだ、自分役として。やるなら徹底的に。そうすれば、もっと社会生活を楽しめるのではないか。社会で演じるのを楽しむには、まずはシナリオを考える。そして、自分役とは何者か明確にしておく。シナリオと役どころ、この2点を明確にして、演じきるためにやれることを見出だす。その事前準備も楽しめるだろう。 俺はいったい何者なのだろうか。そして、どんなシナリオを歩んでいくのか。描くならば、考えられる限りの最高のシナリオにする。やりがいと使命感で充実した日々を想定する。それを、具体的に描く。具体的であればあるほど、実現する可能性は高まる。あくまでも可能性の話だ。理想を具体的に描くんだ。 理想的なシナリオは、気楽に楽しみながら描くんだ。こうなったらいいな、こうであったらいいな、そんな程度でいい。それを一つの指針とするんだ。個人的な指針にするんだ。やるなら楽しめばいい。そのシナリオで足りないところを、自分役が埋め合わせればいい。そのために努力すればいい。具体的な目標があれば、迷わず突き進むだろう。なんだっていいんだ。どうせやるなら楽しめたほうがいい。《《《今の挑戦は今しか出来ない》》》…とりあえず続けよう。やめることはいつでもできる。今の挑戦は今しか出来ない。悔いが残らないよう、精一杯挑んでみよう。どこまでできるか、挑み続けるのも一興だろう。ずっとやっていると考えが狭まって病んでくるが、それは錯覚だ。収入が増えるチャンスがある。頑張って成果を挙げれば評価されるシステムだ。同じことを続けてずっと同じ待遇なんてざらにある。延々と据え置きなんて往々にしてある。そうなる前に、どこまでいけるか挑むのも楽しみとなるだろう。年々元気がなくなっている気がしているが、それは環境に変化がないからだろう。環境ってのは自分次第で変わることだってある。自分の見え方が変われば、環境を見る目も変わってくる。要は自分次第だ。それを理解できたなら、どこへ行っても通用する人になれる。環境にも影響を与えられる。無闇に悩んだり迷っても無意味。それは誤った自己満足だ。頑張る方向性を正そう。上手くいくよう工夫しよう。これを書いているのは、モヤモヤを解消してマインドセットを正すためだ。無駄な悩みや迷いを抱えていたら良い仕事はできない。ずっとモヤモヤしているんだ。何が不満なのかは自分では分からない。環境や他人ではないことは確かだ。そもそも、それのせいにはしたくない。だから自分自身に求めている。ま、だからといって無意味な自己否定はしない。自己肯定感が損なわれて自信を失うからだ。自信を失えば迷いや悩みが強くなる。良いことは良い、駄目なところは修正する。シンプルに考える。良いことは継続し、駄目なところは修正して次に活かす。それだけでいい。そして事前準備を整えて全力で挑む。それだけでいい。休むときは休んで、頑張るときは頑張る。成果に向けて頑張る。成果につながる努力と工夫をする。それだけだ。 少し頭がすっきりしたか。少しモヤは残っているか。書いただけで解消するなら苦労はしない。ただ、少しはマシになった。「今日だけ頑張る」の積み重ねだ。明日頑張るはあり得ない。明日に託すなら、引き継ぎはしっかりしよう。明日頑張れるよう、端的に分かりやすく引き継いで伝えよう。すぐ取りかかれるように準備する。今日だけ頑張るとはそういうことだ。次も頑張れるよう今日だけ頑張る。それの積み重ねだ。《《《自分なりの王道を作り上げる》》》…少し前進した気がする。その日出来ることはその日のうちに済ませ、次につながるよう働きかける。この積み重ねが大事なんだ。そして、それを継続させるんだ。へこたれている場合じゃない。時間は無常に過ぎていくんだ。今という時間は二度と来ない。当たり前だが忘れがちの事実だ。だったら、今できることにフォーカスして注力すべきだ。無駄足を踏むべきじゃない。油を売っている場合じゃない。いつまでも茶番劇を演じても仕方がない。人生はいつでも本番なんだ。本番でいかに力をフルに発揮させるか。これは事前準備にかかっている。あらかじめ、やることを決めておけば集中できる。道を定めておけば難なく進められる。段取りとスケジューリングが大事。それ以上に大事なのは、目標を明確にすることだ。どこに向かって進んでいるのか。常々念頭に置いておくんだ。当たり前のことを当たり前にやる。忘れてはいけない。習慣付けるんだ。それが王道だ。王道を継続させるんだ。 王道とは"一番成果が出る"方法だ。基本を忠実に行って基礎固めする。そして、思いっきり力を発揮できるよう事前準備を(思い付く限り)100%行う。正攻法とも呼ぶ。王道は、頑張れば誰にでも出来る普遍的なものだ。難しく考えてカベを作らない。誰にでも出来る、俺にでも出来ると信じて、ただひたすら王道を歩めばいい。オリジナリティは後から付いてくる。王道の先に個性があるんだ。それでいいじゃないか。邪道を歩んでも仕方がない。愚鈍な者、出遅れた者こそ、王道を愚直に続けるべきだ。王道が当たり前になったら、すでにオリジナリティも身に付いている。そうなれば、自分自身のブランド化も近い。そこまで価値を高めるんだ。《自分を鼓舞するために書き続けている》…ここ最近書くことが精神論だ。それでいい。思い付いた精神論を書いて、自分自身を鼓舞しているんだ。気持ちは揺れ動きやすいもの。それを確固たるものにするため、俺は書き続ける。思い付く限り書き続ける。タネや気力がなくなるまで書き続ける。少しは落ち着けるなら、その方がいい。 ここで書く精神論は"過去に書いた"ものだ。書いて1ヶ月以上は経過している。これは"未来の俺"あてに書いている。ここに書いていることを継続出来ているか?怠けていないか?へこたれていないか?それを過去から問いかけられているんだ。1ヶ月も経てば、何かしら変化はあるだろう。ここで書いたことも忘れているだろう。だからこそ、未来へ投稿して思い出させるんだ。 それにしても、今日は風が強い。ベランダで飲みながら書いているが、風が強くて身の回りのものが飛びそうになるよ。ま、あまり気にしないけどね。飛ばないように対策しているからだ。肴処を噛みながらブログを書いているよ。《《《評論家と孤高の存在と逃げ道》》》「ウチには評論家が多い」…ちょいちょいそんな話を聞く。自分では大したことをやってないのに、人についてはあーだこーだ言いたがる。そんな人々を皮肉を込めて"評論家"と呼んでいるそうだ。 自分のことを棚に上げて、他人についてあーだこーだ言うのは、たしかに楽しい。分からなくはない。だが、それは結局、実にならない自己満足な娯楽でしかないんだ。趣味の領域を出ない。偽者評論家は単なる道楽者でしかないんだ。趣味の世界であーだこーだ評論するのは構わない。だが、仕事の場で無意味な評論を繰り返し、勝手に仕事したつもりになっている輩は一定数いるんだな。残念な話だ。 そして、偽者評論家の中には、教育者を志す者もいる。高尚な理想を掲げて、無理難題を他人にぶん投げる輩もいる。もし、その無理難題をやり遂げる人であれば説得力がある。というよりも、もうやるしかなくなる。すでに"やれる"と証明されているからだ。問題は、自分では大したことが出来ないのに、出来ないことを相手に押し付ける場合だ。そして、本人はそれを教育だと勘違いしている。それは教育じゃない、ぶん投げだ。ぶん投げは、相手の意欲を大いに削ぐ。仕事だと割り切って出来る限りのことはやるが、不満は募る一方だ。そんなことを続けたら、長続きするわけがない。 ま、それでも仕事と割りきってやることをやるんだな。いちサラリーマンでしかないならそうすべきだ。兵卒が将軍に歯向かうなんてナンセンスだ。将軍の意図を汲んで都合の良いように動けばいい。気に入られるか否かなんてどうでもいい。仲良しこよしは苦手だ。孤高の存在になればいい。ダメなら逃げればいい。逃げ道を増やすためにも、今を頑張ればいいんだ。《勉強する習慣は、いつまでも役に立つ》…サラリーマンは本来、最低でも給料分以上の成果を挙げなければならない。それで飯を食っているから当然の考え方だ。だが、近年は労働者側の権利が強くなっている傾向がある。ま、それは労働者を保護するために必要なことなんだけどね。それでも、それに甘えてしまうと、社会人として成長が止まってしまうのではないか。勉強を怠るのではないか。社会人になってからも絶えず勉強は必要だ。勉強する習慣がないと、大人になってから苦労する。学習する癖があれば、社会人として問題なく適応できる。 勉強は、本来は本人の意思で行うものだ。より良い仕事をしたい、給料をあげたい、そんな欲求を満たすために勉強をする。だが、勉強をするには根気がいる。自分を奮い立たせ、前向きな気持ちにして頑張るよう仕向けるんだ。気持ちをコントロールして、給料に相応しい活躍をするために勉強は必要なんだ。少しでもいい。少しずつ積み重ねるんだ。そうすればいつか、豊富な知識で様々な人から頼りにされるだろう。 権利を声高に主張するのはいい。だが、それは"最低限"の働きができて初めて出来ることだ。最低限すら出来ていないのに権力ばかり主張しても虚しいだけだ。権利よりも実力。実力を養うためにも勉強は必須だ。たとえ勉強嫌いでも、勉強しないといけないと察するときはくる。勉強不足だと恥をかく。その恥を取り繕ったり正当化する暇があったら、その分を勉強にまわしたほうがいい。実力さえあれば、やるべきことに集中出来るんだ。そして、どこででも通用する人材になってくるんだ。勉強を積み重ねれば、いつしか原理原則が見えてくるから。そう信じて勉強しよう。【古典】荀子の勧学篇 H27.5.4…これは、数年前に投稿した荀子の勧学篇について書いた記事だ。当時から感銘を受けていた名著古典だが、今改めて読むと身に染みる思いだ。________________________・出藍の誉れ・金属は砥石で磨けば鋭利になる。・学ばなければ学問の広大さに気が付かない。・環境により白にも黒にもなる。・物の使い方が巧み。・タメにならんものは遠ざけ、正しいものに近づく。・自分の依って立つ場所に慎重でなければならない。・たとえ駄馬でも、十日も走り続ければ、名馬の一日行程は楽に進むことが出来る。・目はふたつのモノを同時に見ることはできず、耳はふたりの言葉を同時に聴くことは出来ない。・君子は一に結ぶなり。・学問は死ぬまでやめるべきではない。そして、いつか終わりの日がくるにせよ、その目的は一瞬たりとも忘れてはならない。・これをなすは人なり、これを舎つるは禽獣なり。・耳から学んだ心を定着させ、からだ全体にゆきわたらせる。どんな微細な言行でも、すべてひとの模範となりうる。・傲も非なり、賛も非なり、君子はひびきのごとし。・学はその人に近づくより便なるはなし。・正しい指導を受けたならば、今度は学び得たモノから実践していく。・道を踏んで訪れる者とだけ交際し、礼儀知らずは相手にせぬこと。・態度が恭しい相手とだけ、求道の方法を語り合うが良い。言葉が穏やかな相手とだけ、道の原理を語り合うが良い。和やかな表情の相手とだけ、道の極致を語り合うが良い。・学び得たモノを元に、バラバラになっている物事を一つに纏め上げる。・様々なモノを見聞し、納得するまで思索し、優れた指導者のもとで実践し、学ぶ上で邪魔なものを心の中から追い出し、学問の向上に努める。・物事が道理に適っている状態を望む。・権勢利欲に惑わされず、多勢の力に屈することもなく、世間一般の常識に流されることもない。・よく定まりよく応ず、これを成人と謂う。・天はその明るきを貴び、地はその光きを貴び、君子はその全きを貴ぶなり。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄…過去の記事をパーっと読んで、気になった言葉をピックアップした。学ぶときの指標としよう。《今の人格は、過去の積み重ねから形成》『教養』とは何か?ふと思った。調べてみた。「個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと。これに関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある」by Wikipedia その個人の人格と過去の学習に基づいた、知識や行動の総称を"教養"と呼んでいるのか。分かりづらいな。表に出てきた行動や知識は、その人が学んできたことを基に形成されている、ということか。それを教育と呼んでいるそうだ。 結局、今の人格は過去の積み重ねから形成されているんだ。今の実力も、過去の積み重ねで成り立っている。何かしら努力していれば相応の実力はついていて、大したことをしていなければそれ相応の実力となっている。努力といっても、方向性が間違っていれば頑張っていても思ったほど実力が身に付いていない場合もある。努力の方向音痴というやつだ。正しい努力をしているなら、いつしか日の目を見れるだろう。 努力習慣はなかなか身に付かないが、怠けの習慣は簡単に身に付く。楽な方向へ流れやすいんだ。そうならないよう、俺の場合は精神論をブログにぶちこんでいる。マインドセットを正しているんだ。実際、書いて読んでいると気持ちが昂ってくる。ほどよい緊張感が生まれる。不安や悩みから生じる緊張感ではない。正しい臨戦態勢に入れるのだ。そしてこれは、1ヶ月以上前の段階で書いている。努力を継続しているか、未来へ警告を出しているのだ。未来を甘やかさない。それ以上に、今を頑張る。他人にやるなら限度があるが、自分自身にやる分には問題ない。過去と未来の努力に関する対話だ。他人が関われるのは限界がある。自分のことは自分でなんとかしないとな。《「そこまでやる!?」と思うくらいに》~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~Pat Connaughton がスーパースターから学んだこと~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~・スーパーヒーローを作り上げてるのは日々の努力。日々のルーティーンで試合に向けた準備をする。・不可能とも思えるような努力を毎日続けているからこそ、今の彼がある。・明確な目標を設定すること、24時間を最大限に活用する、自分の存在感を示し、周りの人たちと良い関係を築いて、家族や仲間を大切にする。この全ては僕がスーパーヒーローから学んで取り入れたことだ。・この10年間、僕が見てきたスーパーヒーローは結果にこだわることなく、自分を向上させるプロセスに集中していた。・自分の技術をより高め、より良い人間になり、そしてその過程を楽しんでいた。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~…不可能と思えるような努力か。それを毎日やっていたから、今のGiannis Antetokounmpo があるのか。1日1日で成長を実感し、それを楽しみながら行っているからこそ、Pat Connaughton が言う"スーパーヒーロー"になれるのか。 俺の身近にも似たような人がいる。誰もが驚くような努力をして、誰もが追い付かないような成果と信頼を得る人がいる。その人からも言われている。「日々頑張れ」と。実際にやっているからこそ、その言葉に重みがあるんだ。具体的なんだ。伝えてくれているはずなんだ。俺の理解が追い付いていないだけなんだ。俺のマインドセットが甘いんだ。やっているつもりでは無意味だ。無意味な自己満足では何の成果にもならないんだ。だからこそ、具体的な目標を決めて管理すべきなんだ。それに向けて、具体的に正しい努力をするんだ。 日々限界突破だ。毎日が挑戦だ。より良い仕事をするために、具体的な目標とテーマを日々決めて計画的に動くんだ。やみくもに動いても徒労に終わる。無意味な自己満足で終わる。そうじゃない。具体的な目標と計画に向かって動くんだ。だから事前準備が大事なんだ。段取り八割ってやつだ。残りの2割を常に集中できるようにするんだ。その2割の出来が良ければ、成果も自ずと付いてくるだろう。 日々勉強、日々精神論だ。勉強を習慣化し、精神論で自分自身を励ますんだ。そうやって自分を鼓舞するんだ。周りの人の励みには限界がある。自分のマインドセットは、自分で正しい方向へ向けさせるんだ。そのために、このブログで未来の自分に向けて書き続けているんだ。過去の期待に応えられるよう、日々精進していこう。《《《恥を知り"格好良い"を目指す》》》「恥を知れば堕落しない。恥を知れば勇気となる」…勇気とは恥を知ることである、と古典に書かれていた記憶がある。そこから、恥と勇気には密接な関係があると考えるようになった。 恥とはなにか?「格好悪い生き方」だと俺は思っている。嘘をつく。無駄に取り繕う。無意味な正当化をする。人のせいにする。だらしない身だしなみ。頭のわるい話し方。みっともない言動。くだらない自慢…。"格好悪い"の言葉で思い浮かんだことを書いてみた。まだまだ無数にあると思う。人によっても捉え方は違うと思う。要は、格好悪いとは"みっともないことをする"ことである。そんなことをしていては胸を張って生きていけないでしょう。そう思うことをやってしまうことを格好悪いと言うんだろうな。そんな格好悪いことを"格好悪い"と自覚したとき、恥じらう感情が芽生える。嫌な気持ちなんだよね。だからつい取り繕ったり正当化したりしてしまう。それが"恥の上塗り"になることに気付かずにね。格好悪いと気付いたら、繰り返さないよう違う方法を見出だすんだ。"格好良い"に切り替えるんだ。 格好良いとは何なのか?それは人により考え方は異なる。自分で出来ることは、自分が思い描く"格好良い人物像"を具体的に明らかにして、その理想像を目指すことだ。人により格好良い人は異なるから、何か定義があるわけではない。各自で思い描く"格好良い"を目指せばいい。それが、今現在の自分の"格好良い"に対する考え方の限界値だ。実際は、もっと格好良くて高尚な存在は無数にいる。だけども、そんな高尚な存在を始めから目指しても仕方がない。今出来るところから積み重ねていき、今思い描ける"格好良い存在"を目指して日々頑張ればいい。《集中力が上がってきた ~明確に挑む~》…よしよし、集中力が上がってきたぞ。限られた時間で出来る限りのことをやるマインドセットが形成されてきた。これも、ブログに思いの丈をぶちこんでいる成果なのだろう。 結局自分は何がしたいのか、それを明確にして見えるようにするのが大切なんだ。ブログで宣言している以上、もうやるしかない。そうやって自分をやらざるを得ない状況に追い込むんだ。そうすれば、やるべきことに集中できる。ポケーっとしている場合じゃない。まだまだやれる。すこし休みが入るが、休むときは休んで、週明け近くなったらマインドセットを正して戦っていこう。《宿題は楽しんで取り組む ~課題出す~》…1日は有限。限られた時間で終わらせられる範囲には限界がある。ならば、一度"宿題"として持ち帰ればいい。そして、宿題をサクッと終わらせて早々に自由の身にする。 自分自身に宿題を課すんだ。その宿題を一つ一つ済ますことで、また一つ上のレベルにいける。宿題は、寛(くつろ)いでいるときにやるんだ。遊び感覚でやるんだ。頭を柔らかくして、リラックスして宿題に挑むんだ。宿題は本番じゃない、単なる事前準備だ。楽しみながらやればいい。大したことはない。ミニゲームみたいなものだ。自由な発想で楽しんでトライしてみるんだ。楽しむことが大切なんだ。事前準備が万全だと、本番が楽しみになるんだ。ほどよい緊張感、高揚感が生まれるんだ。やってやるって気持ちになる。それも、マインドセットの一つである。本番に全力で挑むために、宿題を課して、楽しみながら事前準備をしていこう。《堕落の沼、成長悦び ~易きに流れろ~》…堕落は延々と続く。成長は、目的・目標・意識・習慣がないと長続きしない。人は易(やす)きに流れる。苦労から逃げて楽(ラク)に逃れる。それが人の性(さが)だ。こればかりは変え難い。だったら、さっさとそれを認めて、易きに流れるよう促してやればいい。 易きとは、なにも楽(ラク)で堕落した状態を指しているわけじゃない。自分が自然体でいられて、喜怒哀楽を思う存分発揮できる状態を指す。喜怒哀楽の感情を発散させるのは、日々の人生を謳歌するための大切なキーワードである。嬉しいときは喜び、怒りが湧いたら怒りを露にする。悲しいときは悲しみ、楽したいときは思いっきり楽をすればいい。それが出来る状況や環境を作り上げることが、今を楽しむための大切な要素となる。 易きに居座れるようになるには、とにかく自分を強くするのが手っ取り早い。他人を変えるのは至難の技だが、自分自身を変えるのは比較的簡単だ。いかに自分自身をコントロールできるか。それがカギとなる。《精神論を"未来の自分自身"にねじ込む》…ブログに精神論をぶちこむのは楽しい。その精神論を、未来の自分へぶちこんでやるんだ。ヘタレで気弱な俺には響くだろう。なぜなら、俺自身がぶちこんでいるからだ。自分のことは自分がよく分かっている。どんな精神の持ち主か、それは自分自身がよく分かっているんだ。だからこそ、自分自身に響く言葉をぶちこんでやれるんだ。それに、過去の"年下の先輩"に言われるのは癪だ。意地でもその期待に応えるよう躍起になるだろう。 今現時点の俺には限界がある。だが、未来は可能性が無限大だ。だから俺は、未来の自分自身に託すんだ。ぶん投げるんだ。その熱意も高尚さも。気高く生きてほしいんだ。だが、今現段階では限界があるんだ。だから未来に託すんだ。今の理想論を、今の精神論を、未来にぶん投げてやるんだ。やれるならやってみろ。傍観者は気楽だ。評論家は楽しいもんだ。相手のことを気にせずに、相手について語っていくんだ。ぶん投げていけるんだ。それは爽快で気持ちがいい。自分のことは棚に上げて、相手について語っていくんだ。それはそれで爽快な気分になる。いいだろ、そんな気分転換やストレス発散があっても。応えれるか否かなんて気にしない。ただ期待しているだけだ。酒で酔った勢いで無責任な期待をかけてやる。それを未来の俺がどう応えていくか、楽しみにしておいてやる。《成果を残して"自由"に ~自由と責任~》…成果を残せる人は重宝される。成果人は、自分なりに考え、自分なりに行動して結果を残す。それが信頼に繋がり、最低限の報告さえすればあとは自由になれる。どうでもいい自己満足な助言や的外れなアドバイスからも解放される。原則を知っているからだ。自由を与えられるなら、仕事をもっと楽しめるだろう。もちろん、成果に対する責任を背負わなければならない。誰かのせいにすることは出来ないし、自分で状況を打破しなければならない。自由と責任は表裏一体。それを理解しているならば、ある程度の自由が認められる。周りの人が出来ないことであればなおさらだ。その自由を得るために、もっと頑張ることは楽しいことではないだろうか。 決められたルーティンワークは楽だ。決められたことをやればいいだけで、上手くいかなければ誰かのせいにすることもできる。だが、組織機能が停滞すれば何もできなくなる。パニックになる。決められたことが出来なくなるからだ。決められた通りのルーティンワークは、機能が止まれば何もできなくなる。思考停止に陥りやすい。その仕事の原理原則が見えづらくなり、浅い理解で完璧だと勘違いしやすくなる。違うんだ。そのルーティンワークにも原理原則があるんだ。その原理原則を理解していれば、たとえルーティンの機能停止が起きたとしても仕事はできる。やるべきことが自ずと見える。原理原則を理解することが大事なんだ。昨今、企業側はコンプライアンス厳守により、労働者に"修行の場"を提供しづらくなっている。結局は自分次第となっている。自分の意思で、自分自身をマネジメントしなければいけなくなっている。いつまでも雇い主に甘えられない。雇い主が何とかしてくれるという甘い考えは捨てたほうがいい。雇い主と対等な考え方をして、雇い主からの期待に応えて報酬を得る考え方に切り替えなければならない。雇い主と対等な考え方になれれば、自分自身の存在価値を見出だすことができて、いつしか「どこででも通用するブランド人」となれるんだ。単調なルーティンワークに惑わされてはいけない。そのルーティンワークから、その仕事の原理原則を自分の力で見出だすんだ。《童蒙より我に求む ~学ぶときの姿勢~》【易経】山水蒙 by My blog…童蒙より我に求むとは、無知な愚か者から師匠に教えを求めるのが筋、という意味だ。待っていても、誰も教えないし誰も構ってあげられない。皆、自分のことで精一杯なんだ。だからこそ、自ら教えを請うのが正しい道なんだ。 教えてもらって当然と考えるのは傲慢だ。給料をもらっているなら自ら学ぶのが当然だ。教えてもらってないから分かりませんでは話にならない。予習は出来るだろ。予習しても分からないところがあるなら、そこで初めて教えを請うんだ。そうすれば、理解は一層深まる。自分でもなんとかする努力は必要だ。企業の大半は中小なんだから、教える余裕や体制がある会社は稀(まれ)と思っておけ。自分のことは自分で何とかせい。立派な大人なんだから、出来るところは全てやる気持ちで日々挑めよ。そうすれば、一人前にはスムーズになれるよ。 社会人として、一人前になるのは通過儀礼だ。当然のことなんだよ。いつまでも甘ったれてはいけない。延々と甘ったれている人を時々見かけるが、その人は常に不安に苛(さいな)まされている。自分を頼れないからだ。自信が無いからだ。いつまで経っても自立出来ない。そんなの不安でしかない。不安は万病のもとだ。だったら、自分の力で打開する術(すべ)を見出だせばいい。他人に依存するな。自分一人でも生きていけるように、日頃から自分を養っていけ。《"役職"は人を育てるのか ~本人次第~》「役職は人を育てる」これは、責任感を与えることで、使命感が増し、より邁進するようになる、ということなのだろう。だが、俺は思う。「役職が人を育てるわけがない」と。結局は"本人次第"であると、俺は実感している。 実力以上の役職や報酬を得ていると、それを手離したくないがために必死に取り繕うようになる。もしくは、役職や報酬を得て満足し、それ以上の努力を怠る場合もある。役職や報酬が、人を堕落させる場合だってあるんだ。それは、それらを得た本人の勘違いから始まっている。もう十分と錯覚してしまうケースは多々ある。勘違いすると、お互いに悲劇でしかない。雇い主は実績が上がらずに苦しみ、労働者は取り繕うために苦しむ。無駄しか生まない。もし、実力以上の役職を得てしまったら、とにかく頑張るしかない。人一倍の努力と、人一倍の工夫が必要だ。 役職負けすんな。役職を最低限としろ。そのくらいの実力があると証明すれば、この問題はあっけなく解決する。だからこそ、もっと真剣に仕事に向き合わなければならない。もっと見聞を広めて、視野を広くして考えていかなければならない。役職が上がるのは嬉しい。給料が増えるのは嬉しい。だが、更なるレベルアップが必須だ。覚悟を決めなければならない。俺は何者になるのか。指針を明確にし、決意をもって仕事に取り組まなければならない。《偉そうに語りたい欲求を発散させる場》…おそらく、俺が潜在的にかかえているであろう欲求は、「俺が知っていることを偉そうに語る」ことだと思っている。だが、常識知らずな俺が、そんなこと出来るわけがないと半ば諦めているんだ。大した努力もせず、ただ単に偉そうに語る欲求を封じ込めているんだ。だからモヤモヤする。欲求不満を感じる。ならばブログに書き込んでモヤモヤを発散させればいい。 そもそも、俺がブログを始めたのは"ストレス発散"のためだ。自分が書きたいように書いて言いたい放題言うこと自体が目的なんだ。完全なる自己満足。それでいいんだ。自分を表現する場がほしいんだ。偉そうに語る場所がほしかったんだ。だから書き続けている。ネタが切れたらNBAについて書いていく。一種のライフワークだからな。全30チームについて書いていくうちに、またネタが溜まるんだ。そしたら再び思いの丈を書いていく。書いているうちに古典ネタを思い出すときがある。そしたら引用して参考にするんだ。古典の教えは現代でも通用する。良い意見は取り入れて、思考を深化させるんだ。《プロ習慣を身に付ける ~失望感解消~》…このモヤモヤの正体は何だろう?抜けが多い不甲斐なさなのだろうか。なかなか完璧に出来ないもどかしさなのだろうか。絶望感、というよりも無力感がある。頑張っているつもりでも、まだまだ足りない失望感がある。 俺が分かる範囲で頑張っているんだけどね。それでも、全然不足しているよ。実力が待遇にそぐわない。怠けていたわけじゃない。知らなかったのだ。知らなかったから、やれることが限られるのだ。知っている人からしたら、それを怠けているというのだろう。失望感、無力感がする。どうすりゃいいんだ。足りないものは何なのか?それすら把握していないんじゃないか。向かう道が分かってないんじゃないか。 足りないと思っていることをリスト化してみよう。それらを一つ一つマスターすれば、またもう一つ上にあがれるよ。悪いことだけじゃない。まだまだ成長の余地があるんだ。まだまだ楽しめるよ。運良くたまたま上手くいっていたこれまでとは決別し、自分で鍛えた実力で勝負しようよ。また違った楽しさがあるはずだ。 知識が足りない。ノウハウの幅が狭い。人間力。社交性。一般常識。礼儀作法。交渉力。調査能力。分析力。論理的に考える力。持続性。スケジューリング。そして信念。足りないことだらけだ。かじった程度で通用するほど甘くはない。プロに徹しろ。プロになるんだ、最低限な。それで報酬をもらっているんだ。プロは社会に無数にいる。当たり前のように存在する。その"当たり前の存在"になるよう努力するのが、俺に課せられた『最低限の課題』だ。基礎固めだ。基礎をガチガチに固めろ。深層にまで落とし込め。それが当たり前になるまで、繰り返し繰り返し行うんだ。そうやって、正しいプロ習慣が生まれるんだ。 ま、当たり前のことしか書いていないな。ちゃんとした社会人として生きていたら、自然とこのくらいのことは身に付いているんだ。だが、俺は出遅れた人間だからな。皆が当たり前だと思っていることを、何故だか特別なことだと勘違いしているんだ。そうじゃない。特別ではない。欠陥が普通とは思ってはいけない。成長を延々と阻害するぞ、その考え方は。いつまでもアマチュアに甘んじていてはいけない。ここまで何とかなっているのは「運がよかった」だけなんだ。幸運は、いつまでも続かんぞ。幸運にうつつを抜かしていると、一気に絶望の淵まで叩き落とされるぞ。運がいいなら、その運を活かせばいい。年老いていく未来のために。歳を重ねても不甲斐ないことをしていたら、いつか見捨てられるぞ。誰からも相手にされなくなるぞ。誰からも信じられなくなるぞ。社会は信頼関係で出来ているんだ。だったら、最低限"信頼に足る人物"にならんといかん。最低限なんだ。当たり前のことなんだ。いつまでも"当たり前"という言葉に嫌悪感を抱いていてはいかん。適応が大切なんだ。大した力がないなら、最低限の適応は義務なんだ。社会的義務だ。《全力とは"全ての力" ~努力の方向性~》「全力でやります!」とか「本気出す!」とか、口先では何とでも言えるが、果たして実際に行っている人はどのくらいいるのだろうか?たとえ全力でやっていたとしても、頑張る方向を間違えていたり無意味なことをしていれば、それは単なる徒労である。全力の徒労である。そんな茶番劇を繰り広げていても、得られるのは無意味な自己満足のみである。成果には結び付かないし、労力の浪費である。これは「考えるのをサボっている」と言えるだろう。全力とは"全ての力"を指す。自分で出来ることを"全ての力"を使って遂行することだ。身体だけじゃない。神経だけでもない。頭も使い、時には周りの人をも巻き込み、全ての力で物事に挑むんだ。 ビジネスをするなら、努力の方向音痴になってはいけない。ターゲットを明確にして具体的な提案をするんだ。正式なマーケター部門はないから、自分自身で調べ上げて足を運ぶしかない。直接会って話すほうが手っ取り早いからな。事前準備もきっちりやる。テーマを決めて挑むんだ。 力を入れる方向性が定まると、効率よく成果を挙げるための行動が出来る。その結果、短時間で仕事を仕上げられるようになるのではないか。時々、しっかり行動計画を立てて動くと、やるべきことが分かるようになって、必要なことに時間を割けていた感覚がした。そのとき、不思議と時間の経過がゆっくりだったような気がした。集中していた証だ。物事に集中して取り組めていると、時間の流れがゆったりになるんだ。短時間で多くのことを遂行できる。テーマと行動計画だ。効率よく成果を挙げて、堂々と休む権利を勝ち取りたいものだ。 自己満足な茶番劇を繰り広げている場合じゃない。時間は常々流れている。人生は常に本番なんだ。限られた時間をどのように使うかで、未来の行き先は決まっていくんだ。テキトーにやって後悔するくらいなら、全力で真剣に向き合って、考えうる最高のシナリオを目指して頑張る方がよっぽどいい。頑張るときは頑張って、休むときはしっかり休もう。メリハリが大事。休んでいるときに、もしやる気が出てきたら、ちゃちゃっと15分くらいの短時間で段取りだけ考えてスケジュール表に書き残そう。そうすれば、頑張る時間のときに思い出せる。休んでいるときのほうが柔軟な発想が出来たりする。頑張ると言っても、根詰めてヘロヘロになってしまったら発想が生まれなくなる。休むときは休んでいいんだ。段取りを思い付いたときにメモするくらいにとどめればいいんだ。これも時間の有効活用だ。頑張れる状態を作るために休むときは休む。休んだ分だけ頑張ればいいんだ。《"怒り"か"怠け"か ~各々のスタイル~》「怒りを抱えるor楽を追求する」仕事をしていると、人種はこの2種に分かれる。 怒りを抱える人とは、真剣に仕事に向き合って取り組む人を指す。真剣に取り組んでいるからこそ、ふつふつと怒りを覚えることが多い。感情をコントロール出来ている人は表に出ないよう自律しているが、抑制力が無い人は怒りを表に出して発散してしまう。真剣に取り組んでいると言っても、その方向性が納得出来るものではないと、理不尽さから嫌悪感を与えて敵と見なされる。良くも悪くも、怒りを抱えられる人は真剣であることが多い。何に真剣かは人によるが。プライベートでも仕事に関することを頭の片隅で考えている人もいる。 楽を追求する人とは、負荷をかけることなくやるべきことをサクッと済ませる人を指す。物腰は柔らかでどこか軟弱な印象を受ける。事なかれ主義が多い。無難に済ませたい。トラブルに巻き込まれたくない。変化を嫌う。特徴を言えば様々だ。余計なことをしたくないので、問題ないくらいに手加減をする。仕事とプライベートをきっちり分ける人が多い。 どっちが良くてどっちが悪いということはない。それぞれスタイルが違うだけだ。仕事で成果を挙げれば信頼され、成果がなければ疎んじられる。ただそれだけだ。成果を挙げるために、怒りを抱えてでも真剣に仕事に取り組む人もいれば、楽を追求したいがために要点を押さえてサクッと仕事を終わらせる人もいる。スタイルはそれぞれ。一番成果が挙げられるスタイルで戦っていけばいいと思う。《書く気力失うまで書いたら読み始める》…書く気力を失うまでとことん書いたら、次は読む側にまわるんだ。とことん書いたら頭が空っぽになるんだ。書きたくても書けない、何も思い浮かばない状態がおとずれる。そうなった時に初めて、様々な書籍を読み始められるんだ。空っぽだから吸収できる。納得するまで書いたらスッキリするんだ。スッキリした状態は"空っぽの状態"に似ている。雑念が綺麗サッパリなくなった。そうなって初めて書籍の内容が頭に入るようになる。雑念が新たな知識を邪魔しない。余計な感情が新たな知識を拒まない。それが"純粋な学習"となる。雑念や余計な感情は、時には個性と呼ばれ、時には邪魔な不純物と呼ばれる。上手くいっているときは個性と呼ばれる。上手くいっていれば問題ない。上手くいっていないときは邪魔な不純物扱いされる。ムダだからだ。だったら俺の場合は、書き出して吐き出すんだ。余計な感情を全てブログに吐き出すんだ。無駄かどうかは未来が決める。実際、何やってんだコイツと思うことはあるよ。だが、それも含めて自分自身なんだ。だから、外聞気にせず好き放題書いてやるんだ。空っぽの状態を目指してな。吐き出してしまえばスッキリする。本当は、駄弁って吐き出すのが一番手っ取り早い。だが、それだと相手が必要だし記録に残らない。そんなんでは客観視できない。だから俺は、未来の自分自身に向けて吐き出し記録を残しているんだ。自分自身を客観視するためにな。それでいい。ようやく空っぽになってきた。何も思い付かなくなってきた。やっと学習出来る準備が整った。これからますます頑張っていく。のめり込んでいく。《《"べき論"の弊害に気付くまで》》…「~すべき」という論調は弊害を生むと見たことがある。その内容は覚えていない。ただ何となく、"~すべき"という論調は宜しくないと漠然と思っている。俺が書く"精神論"は、まさに"~すべき論調"なのである。だが、気にしない。~すべきと書いた方が書きやすいからだ。それに、ここで書く精神論は"未来の自分自身"に向けて書いている。主な読者は未来の俺自身だ。未来の自分自身が、その"~すべき論"について、反論するかもしれないし納得するかもしれない。過去と未来の討論会って感じだ。だから、ここで書く"~すべき論"については気にしないようにしている。自由に書けばいい。《《《限界まで続けてカタチにする》》》________________________【力足らざる者は中道にして廃す、今汝はかぎれり】「"力不足"と言う者はいつも途中で諦めるからだ。努力する気持ちが足りず、始めから自身の限界を決めているのではないか」・能力の有無よりも"継続の有無"が大事・何事も最初から上手くやろうとしても無理がある。・少しずつ学び反省して頑張れば上手くいく。・上手くいくかは個人差がある。それでも、諦めず努力していけばカタチになる。・能力は"努力"の後についてくる。・ただ、人には向き不向きがある。限界まで努力しても上手くいかないと悟ったときに、初めて方向転換を図る。・方向転換する前に『本当に限界まで努力したか』と自問自答する必要はある。・NBA選手も、周りから批判を浴びても、信念を曲げずに努力し続ける人が最終的には成功している。・そのまま継続するか方向転換するか、その決断を迫られたときは、物事を客観視しながらも『限界まで努力したか』を問う。・そこまで辿(たと)り着いてから初めて、新たな展開が拓(ひら)く可能性が出てくる。・最終的に決断するのは自分自身。どんな物事にも悔いの残らないよう出来る限りの努力を続けたい。【習慣を変える手段は主に2つ】●感動的なインパクトある体験する●日々の生活でコツコツ経験を積む・インパクト体験は非日常的。稀にある程度でいい。・コツコツ経験は日常的だ。ルーティン守っていけば3週間くらいで定着していく。・今やっている事がたとえ「向いてない」と自分で思っていても、続けていけばカタチになる。・経験を積み、知識を蓄えていけば、プロとなる。・プロとなれば、周りから頼られ、自信が身に付く。・自信が身に付けば、いつの間にか「向いてない」と思っていた事を忘れ去る。・兎にも角にも、まずは継続するんだ。あれこれ悩んでも仕方ない。カタチになれば悩みは解消される。限界まで続けていこう。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄…限界まで続けてカタチにする。そんなの当たり前だ。最低でも"やってる振り"はしてろ。最低でも空気は読め。そうすれば"風景"に馴染める。下(くだ)らない愚かしい行為だが、及ばないなら仕方がない。無能な高尚思想よりも空気を読める有能。演技も社会を生きる術(すべ)だ。簡単にクビになってたまるか。俺の信条は「クビになるまで頑張る」だ。それまでは思い切り頑張る。最大限の力を駆使して頑張る。日々限界突破だ。日々最大限だ。愚鈍者はそのくらいするのが当たり前だ。及んでいないと自覚しているなら、毎日最大限が当然の礼儀だ。日々最大限を繰り返して日々成長だ。それが、常識不知の最低限の礼儀だ。及んでいないなら全力を出せよ。日々成長しろよ。まともになって初めて"常識不知"のレッテルは剥がれる。そして、成果を出せるようになって漸(ようや)く"偉き人"と評される。常識不知だが1つの事に突出している。1つの事なら信頼を置ける。最低でもそうならないと。ま、それでも、周りの奴らが常識人とは限らないけどな。奴らを黙らせてやるんだ。ぐうの音も出ないくらいに成果を出してやる。そこまでやって漸(ようや)く"偉き人"だ。2位とはダブルスコア差の成果だ。それが、偉き人の最低限だ。そんなんでは足りない。ダブルスコアどころではなく、トリプルスコア、フォーススコアを目指せ。誰もが「敵わない」と白旗を挙げるまで徹底的にやってやる。評価は成果で決まる。圧倒的な成果で周りを屈服させてやる。競う前から降参させるだけの成果を挙げてやる。誰もが足元にも及ばない圧倒的な成果を挙げてやる。そこまでやって漸(ようや)く偉き人だ。専門家は徹底的にやらないと。一つのことで圧倒的してやる。信頼させてやる。それが最低限だ。それを忘れるな。圧倒して最低限だ。圧倒的が当然だ。それが当たり前なんだ。日々最大限だ。そうやって初めて成功が期待できる。過去をバカにできるくらいに頑張る。過去に感謝しながらバカにする。これは口では出さない。決して口にしてはいけない。だが、そのくらいの意思を持って日々過ごしてやる。《完き人を目指す》________________________《論語と算盤》偉き人と完き人 ~過去記事~【偉き人】・性格など欠点が目立って難あり。だが、その欠点を補って余るほどの偏って卓越した長所や能力がある。・智恵・情愛・意思のバランスに偏りがある。そのいずれかの力が突出している。・必要ではある。多くなくてもよい。【完き人】・性格的に偏りがない。一切の常識を理解している。人間的に成熟している者。・智恵/情愛/意思のバランスがとれた常識人。・出来るだけ"多く"社会に必要である。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄…俺はどちらかと言えば"偉き人"寄りだ。突出した能力は全(まった)く無いが、偏りがあるタイプではある。趣味が偏っている。興味対象に偏りがある。関心と無関心の差が激しい。そんな欠点を補って余るほどの長所や能力があれば良かったのだが、そんなものはない。飽き性で長続きしないから、一つの事を極めることなんて性(しょう)に合わない。興味対象がコロコロ変わる。落ち着きがない。興味を持ったら突っ走る。飽きたら放置する。そんなタイプだ。だから俺は"偉き人"寄りだと思ったが、書いていく内にそんなこともないとも思った。興味対象がコロコロ変わるということは、幅広く物事を知っているということだ。広く浅く。興味の深さにムラがあるだけだ。広く物事を知ろうとしている。だが、関心と無関心の差が激しいのは宜しくないな。無関心だと何も情報が入ってこないからな。偉き人は"狭く深く"のタイプが多い。真逆かな。"広く浅く"は完き人タイプなのか。それも何だか違う気がする。完き人はバランスが良い。広くはある。だが、浅くは無い。ある程度の深さ、最低限の深さを広く持っている。そういうイメージだ。俺には深みが足りない。広く関心を持つとはいうが、俺の場合は関心と無関心のムラが激しい。広いとは言えないな。バランスが悪い。深くもなく広くもない。中途半端なんだよな。完き常識人とはまだまだ開きがある。意識しよう。狭くとも深い"偉き人"には俺はなれない。俺が目指すは"完き人"である。バランスの取れた、何でも幅広く知識と技能がある人物。それを目指そう。完き人になるにはどうするか?常識を知ることだ。世間一般的な観念を知るんだ。常識を知るにはどうするか?情報を集めて参考になる知識を身に付ける。情報収集するならTVや新聞がいい。書籍も必要なら読む。YouTubeやネットニュースだけだと偏る。詳しく知る場合に使う。基本はTVや新聞に書籍だ。上手く使い分ける。そして、身に付けた情報や知識を社会で上手く使う。情報を活かすのだ。必要であれば現地に足を運ぶ。自分の目耳で見聞するのが一番信憑性が高い情報だ。そうやって常識を固めていく。常識人としての立ち振舞いを実践する。意識して行う。そして習慣にする。そうなれば"当たり前"となっていく。継続が大切だ。周りの意見は、常識に照らし合わせて判断する。そのために世間一般的な観念を知る必要がある。世間一般的な観念を知るには多くの情報を仕入れて分析し、その情報を分かりやすく取りまとめて見やすくする。そして、自分なりに常識を理解して把握する。常識をもって事に臨む。それを繰り返す。情報を仕入れる→分析して見やすくする→常識を理解する→事に臨む。これを繰り返すんだ。こればかりは実践して経験を積むしかない。自ら身に付けるんだ。自他共に認める常識人となる。 常識人になったなら、その知識と情報で啓蒙していく。指標の1つとなるのだ。この人に聞けば間違いない。そう思われるほどの知識と情報を抱えるんだ。一日一日の積み重ね。常識人への道は、日々の積み重ねで出来ている。コツコツと物事を知ればいい。世界を少しずつ知っていく。そうやって一歩一歩常識人となっていくのだ。遊んでいる場合じゃない。常識人になりたいなら、日々積み重ねていくしかない。その蓄積が自分の力となる。積み重ねてきた人にチャンスはおとずれる。常識人かどうかは相手が決める。たとえ自分では常識人と思っていても、まだまだ世の中は知らないことだらけだ。無限大に広がる知識や情報の中で、俺が必要だと思うものを抱え込めばいい。そして、有益となりうる相手と取引をすればいい。人間関係には限りがある。その中で、有益になる相手がほしがる知識や情報を抱えていればいい。大事なのは、結局自分は何者になりたいのか、である。どんな世界で、どんな人物になりたいのか。それを具体的に明確にしておくのだ。そうすれば、自ずと自分は何をしなければならないか分かるから。________________________《《智恵・情愛・意思=常識三要素》》【常識とは】物事に対し奇矯に馳せず頑固に陥らず是非善悪を見分け利害損得を判断言動挙動がすべて理に適している・奇抜な事をせず、偏見を無くし、何が正しいか考え、何をすれば上手くいくか判断することを常識という・言葉すると当たり前のように聞こえるが、実際の行動がどうかを振り返ると、後になって偏見があったり間違った判断をしていたと気付くことがある・常々客観視していても、実践に移さなければ無意味【常識を理解】常識を理解して実践に活かせば「普通一般の人情を理解でき、物事の状況を客観視して理解し、その物事に対して適切・的確な対処が出来る」・このように出来る人が近くにいるなら心強いし頼りになる。【理解の三要素】----常識を理解する要素3つ----・智恵→物事の識別する判断力・情愛→喜怒哀楽愛悪欲の七情を察する力・意思→物事を成し遂げる為の信念-この三要素をバランス良く深めていく-・智恵があるなら常に正しい方向に向かえる。・情愛があるなら気分良く物事を行う事ができる。・意思が一貫すれば物事を着実に成し遂げられる。・結果として利益を得られる。【偏りなくバランス良く】・バランス良く保つことが大事。・智恵のみ突出→利己的で周りに迷惑・情愛のみ過剰→迷いが無駄に生じ前に進めない・意思のみ強い→頑固で話を聞かず一人突っ走る・智恵/情愛/意思/の三要素をバランス良く深める・視野が広がり、物事を客観視でき、常に的確な判断を下し、物事を確実に成し遂げられる。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄…上記は、渋沢栄一が語る"常識人の条件"である。とにかくバランス良く深めることだ。智恵・情愛・意思の三要素がカギとなる。智恵とは情報や知識にノウハウなど、情愛とは教養や人間力など、意思とは精神論や勇気に信念などを指す。今は、このくらいの理解でいい。一日一日を大事に過ごし、気が付いたことをブログに書いて思想を深めていこう。《感情エネルギーをフルに活かす》…他人を変えるよりも自分が対応する。それが一番手っ取り早い。そもそも、他人に不満や文句があったとしても、それを俺自身がきっちりやっているのか?まずは自分自身で手本になるようキッチリやるべきだ。他人にあーだこーだ言うのは単なる自己満足だ。言わなきゃいけない立場の人は不本意でも伝えなければならないが、好き好んで文句を言うなら単なる自己満足だ。ときに、怒り心頭となって怒鳴ってしまう衝動に駈られる人もいるだろう。だが、怒りが湧いたら一度立ち止まって鎮めるといい。その怒りエネルギーをどこにぶつけるか。怒りエネルギーは正しく使う。目的を見定めて有効活用する。文句を言いたくなったら、一度立ち止まって客観視する。冷静になるんだ。全力で取り組んでいるほど、感情のコントロールは大変になる。怒りの感情が湧かないのは、結局は手加減しているからだ。真剣に取り組んでいたら怒りも湧いてくるんだ。何やってんだアイツとか、何でこんなことも出来ないんだとか、怒りが次から次へと湧いてくる。そのコントロールが大切だ。怒りが湧いてきたら、一度『視・観・察』の考えを思いだそう。「実際に起きた事を視て、何故そうなったか観て、そこからどうすれば宜しいかを察する」ということだ。そこで一度冷静になって、一番良い最適解を考えるんだ。感情は爆発的なエネルギーを生み出すが、使い方を誤ると積み上げてきたものをぶっ壊してしまう。感情エネルギーは、正しく使えば停滞打破のキッカケを作る武器になる。 久しぶりに怒りの感情が湧いたな。怒りをそのままぶつけたい衝動も少しあった。ま、始めから無意味と分かっていたから怒りを出そうとも思わなかったが。だが、そこで思ったことは2つある。1つは、文句を言うなら、その文句を自分自身が完璧に出来ていると自他共に認める状態になってから、ということだ。自分の事を棚に上げて文句を言うなんて、格好悪いの極みだ。格好悪い奴に誰が付いていくんだよ。権力者に渋々付き合ってやっているだけだよ。そんな状態では、人望を失って誰からも見放されるだけだ。そんな無意味なことはしない。文句を言うなら、まず自分は完璧に仕上げておくんだ。これが最低限。最低限も出来ずに文句を言える筈がない。そんな醜態は晒さない。醜態は恥であり格好悪い。そんなことをするくらいなら、文句なんて言うべきじゃない。その文句は自分の腹のなかに納めておくんだ。そしてもう1つは、もっと俺が物事に興味を持つべきだ、ということだ。最大限の努力と把握もせずに文句は言えない。俺自身に出来る最大限を"既にやった"状態にするんだ。真の完璧を目指していたら時間はいくらあっても足りないが、要点を押さえて完璧な把握をすれば、あとは自ずと分かってくるようになる。他人なんてCPUみたいなものだ。期待すればするほど失望感も増してくるんだ。だったら、もっと自分自身に期待しようよ。やれることを増やそうよ。他人よりも自分自身だ。ま、それを無闇に表に出しちゃうと、他人はつけあがって自分の都合の良いように解釈して全てをぶん投げてくるんだ。その線引きが大事。やれることを増やす努力は粛々とやるんだ。努力をアピールしていると、ろくなことが起きない。無駄に苦労が増えるだけだ。そんなの無意味だ。だったら、要点を押さえて必要な努力を粛々とやればいい。 叱る条件、怒る条件、説教する条件、注意する条件、指示する条件、文句を言う条件等々、怒りを露にする条件は先に決めてしまおう。そうすれば、怒りを感情のまま無闇に撒き散らす衝動をいくぶん抑えられるだろう。 日頃から穏和な事無かれ主義では、相手は嘗めた態度しかとらなくなるだろう。簡単に言えば無視だ。眼中に無くなるんだよ。穏和な事無かれ主義は空気みたいな存在だ。自分の保身しか考えていない。存在感は無い。影響力は皆無だ。そんな奴の話を聞く奴がいるわけがない。それぞれ自分勝手なことをやり始めるだろう。いる意味がない。言うべき事は言う。時折ボイスリーダーになるんだ。的確にありのままを伝えるんだ。納得させてやれ。そうすれば、相手は少しずつ耳を傾けるようになる。 いかに楽に質の高い仕事をやらせるか。業務ではなく"仕事"をしてもらうんだ。そのためには、こちらの段取りを完璧に仕上げて託すのだ。これが、チームワークの基本だ。一人の力では限界がある。いかに協力してもらうか。それが、大きな事業を進めるために必要な要素だ。 図太く粘着気質に粛々と進める。それが、本来の俺の持ち味だ。たとえ相手がキレても動じずに淡々と話を進める。感情に振り回されても進捗が遅くなるだけだ。必要な情報だけのやり取りを行う。それは多少強引でもやる。全てが済んだ後に反省会をすればいい。その頃に忘れているなら大した問題じゃない。反省会で出てきた言葉には耳を傾ける。冷静さを取り戻せば建設的な話が出来る。やるときはやる。突き進む。反省するところは反省して学習し、次に活かせばいいんだ。いちいち失敗や不手際に苛立っても前に進まない。何が駄目なのか明確にして軌道修正すればいい。俺の場合は、仕事中は個人的な感情を投げ捨てるようにしている。やるべきことをやる。前に進む。そして反省して学習して活かす。それがルーティンだ。周囲を攻撃したところで何になる?後悔だけ残って自己満足すらできない。そんな不毛なやり取りは不要だ。感情は大切だ。それがモチベーションの基となるからだ。だが、感情に振り回されてモチベーションのアップダウンが激しくなっては落ち着かない。感情は自分自身でコントロールすべき。そして、仕事に集中するマインドセットにする。俺はそうする。相手は相手で感情のコントロールをしてほしいと願うが、そんなの甘ったれた考えだ。その感情を汲み取った上でどうするか考えろ、俺の場合はね。相手を直接コントロールするのはほぼ不可能。誘導するくらいしか出来ないんだよ。相手に期待してもムダだ。もっと自分を上手く活かせよ。自分を最大限に活かしつつ、相手に協力してもらう段取りを完璧に仕上げてから相手に託す。非の打ち所が無い完璧な段取りだ。それでようやく、相手は協力してやっていいという気持ちになる。相手はとにかく楽をしたい。そう思っとけ。そうすれば、相手に過度に期待する気が失せるから。自分自身をもっと活かせ。もっと自分自身の力をフル稼働させてみろ。 不真面目が格好良いと思い込んでいるふざけた中二病の相手はしない。結果を出してないのに自分が有能と勘違いしている奴に期待しても無駄だ。その程度と見極めて、出来る範囲に限定して割り振る。給料は能力値でもなく労力費でもない。単なる求人材料でありモチベーション費である。たとえ自分と同じ待遇だったとしても、同等の実力があるとは限らない。極端な話、給料交渉すら一種のビジネスである。 個人的な感情を投げ捨てる弊害は、物事に対して徐々に無関心になっていくことだ。関心があるから感情が湧く。感情が出て関心が生じる。感情と関心は結び付いている。感情を抑え込み過ぎると、関心を薄くして感情を出さないようにしてしまう。無関心ATフィールドだな。無関心だと感情も湧かない。ある意味強力な盾だが、代償として身動きがとれなくなる。無関心だから何も思うことが無く何も考え付かないからだ。個人的な感情も持っておいた方がいい。だが、それを空気を読まずに誰彼構わず話していたら鬱陶(うっとう)しがられる。状況により心にしまっておくことも大切だ。ただ、ずっとしまっておいたら、いつの間にか忘れて消えてしまう。だったら、メモして思い出せるようにすればいい。思い出せる状態にするんだ。俺の場合はブログを活用するようにしている。未来投稿機能で思い出すようにしている。それをフィードバックして落とし込む。それを繰り返している。そうすれば、思考はより深くなって、納得できる腑に落ちた答えを閃く瞬間がおとずれる。感情をコントロールしつつ活用する。感情エネルギーを最大限に活かす。そうすれば、思いのまま喜怒哀楽豊かに素直に過ごしていける。感情は、表現してしまえば発散される。感情はストレスでもある。適度に感情ストレスを発散しているなら、ある意味自己実現が出来ている証である。もっと楽しもう。《思と学 ~吸収と実践~》___________________【過去記事】聖人の糟魄-古人の残りカス- ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄『学びて思わざれば則ち罔し 思いて学ばざれば則ち危うし』・読書で学ぶ事と自ら考えていく事は並行して行う。・物事の本質を理解するには絶え間なく努力すべき。・書籍や助言からヒント得て理解していく。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~…学習とは"学"と"思"を繰り返し行って経験を積み、ひたすらに吸収と実践を繰り返すことを指す。双方バランス良く実施する。ずっと受け身だと考える力が身に付かず、ずっと考えているだけだと考えが凝り固まる。受信と考察、そして行動。PDCAを回すとも言う。計画/行動/確認/実践の4つだな。行動と実践は少し違う。行動は仮説をもとに動くのに対し、実践は情報収集で状況を知った上での動きとなる。計画は仮説、確認は仮説と事実の照らし合わせを指す。計画と行動は"仮説"をもとに行い、確認と実践は"事実"をもとに行う。動かなければ事実は見えてこない。だが、仮説が無ければどのように動けばいいか分からない。だからこそ、考える力と分析する力が必要になる。『思いて学ばざれば則ち危うし』とは独り善がりを指し、『学びて思わざれば則ち罔し』とは鵜呑みを指す。鵜呑みでは御用聞き、単に相手の都合に合わせて動くことしか出来なくなる。独り善がりだと、頓珍漢な動きになるケースが多くなる。考えながらも学んでいく。自分の考えを持ちながら目の前の現象も受け入れる。その上で"どうしていくか"を考え実践する。適切な経験の積み重ねは、このようにして行われる。PDCAで大切なのは一番始めのPlanだ。仮説を事実に近付けるには、見聞と経験が世間一般の常識に即している必要がある。世間一般の常識は、各媒体が発表している内容が全てではない。報道されている事実なんてほんの数パーセントだ。大半の情報は現地に埋もれたままだ。そもそも、情報自体が無数に存在しているのだ。無数にある情報の中から、自分達にとって有益となる情報をピックアップして有効活用するんだ。媒体が全てじゃない。現地調査が一番手っ取り早いのだ。今はネット社会とは言われるが、実際は現地が一番情報が早いんだ。だからこそ、現地に足を運んで見聞するのがいい。だが、情報収集にしても、テーマと計画を持って行うべき。ノンプランだと無闇な徒労で終わる。テーマと計画があって初めて動ける。 テーマと目的をもって動く。ビジネスの世界であれば"当たり前"のことだ。常識不知にはハードルが高いように見える。だが、ごくごく当たり前な考え方だ。言われたからやる世間不知では理解できない考え方だ。俺自身はそれじゃ駄目だ。過去は世間不知でも、今はビジネスマンとして生きているんだ。だからこそ、当たり前のことを当たり前のようにやるんだ。やればできるから。テーマと目的をもって動くには、まず自軍がどのような状況になっているか把握するところから始める。そして、自軍の課題を洗い出すのだ。課題が見えてきたなら、そこから課題解消のための計画を立てる。何をしなければならないのか、それを明らかにする。出来る出来ないじゃない、やるんだよ。それが会社人(サラリーマン)の生きざまだ。昭和的な精神論だが、ビジネスの世界では当たり前の考え方だ。ビジネスの世界は甘くない。現状維持に甘えていたら瞬く間に淘汰されるんだよ。令和の時代とか日本の都合だろ。国際社会はそんなに甘くない。それを自覚しよう。ビジネスの世界は甘くない。それだけ自覚すればいい。ま、だからといって漆黒(ブラックブラック)な労働環境に身を置けとは言わない。ただ単に、俺自身の心構えとして留(とど)めておくだけだ。テーマと目的。それがビジネスの世界では当たり前の考え方だ。常識不知で世間不知な俺には身に付けるべき前提の考え方である。もっと頑張っていこう。 実践して初めて吸収したと証明できる。目に見えるカタチにして初めて実施したと証明できる。目に見えるまでは"理解した"とは言えない。目に見えるカタチで分かりやすく伝えるのだ。表現方法は無数にある。無数の選択肢から一番伝わる適切な方法を選べばいい。《《《精神論と独り言 ~超思想~》》》【精神論と独り言の違い】…最近はよく、精神論と独り言を書く。精神論はいわば"理想"だ。「こうあるべき」と考えていることを文字にして見えるようにしている。一方、独り言はとにかく書きたいことを書き連ねている感じだ。その日の気持ちや心情を書いて頭の整理をしている。気持ちの吐露だな。理想論と気持ち吐露。この2つを、書きたくなった方で書いていく。傾向としては、やる気が漲(みなぎ)っているときは精神論を、疲れたときは独り言を書いている。そうやって頭や気持ちを整理するんだ。考えすぎとよく言われているから、余計な思考はブログに書き込んで書き捨てるんだ。そして、目の前の物事に集中するんだ。雑念は捨て置け。書き捨てて保存して未来へ投稿するんだ。未来に書き捨てるって感じだ。それを、未来の俺自身が気が向いたときに読んでやる。拾い上げてやる。その時に、過去と現在の変化に気付くんだ。それと同時に思い出すんだ、どんな気持ちで日々頑張っていたのかを。いま歩んでいる道は正しいのか。今のやり方に納得しているのか。それを思い出すキッカケになるんだ。そうやって、マインドセットは整っていくんだ。【超思想 ~ブログで自己実現~】…ブログで自分を表現している。好き放題書いて自己実現している。気分がいい。書くこと自体が目的なんだ。自分自身の思想をより深化させる。思慮深く考える。俺はそれを"超思想"と呼ぼう。今現在の自分より更に思慮深くさせる。より深く考える。より広く考える。そのための超思想だ。文字をいくら書いても足りない。成長の可能性は無限大だからだ。それでも、今現在の思考を書かないと何を考えているのか見えなく分かりづらい。分かっているつもりになっているだけだ。そんなんじゃ漠然とした不安を抱えることになる。不安は病のもと。そんなものは書き明らかにして滅してしまえばいい。思考を明らかにして道を示せばいい。そのために俺はブログを書いている。それは一種の自己実現とも言える。その超思想をもとにして行動して実績を挙げて社会的信用を得たならば、それも自己実現の一つとしてカウントされるだろう。今の自分を越えるための超思想。これは、俺の新たなライフワークとなりつつある。 習慣は継続しなければ身に付かない。感情と思考を整えなければ継続は難しい。だが、継続した先にある素晴らしい世界に、俺は期待している。俺の数少ないモチベーションの一つだ。成長した先にある素晴らしい世界。ま、世界といっても、その世界自体は俺が認識できる範囲内でしかないけどな。どんなに可能性のあるチャンスがあったとしても、無関心であればサクッとチャンスを見逃すんだよね。チャンスだと気が付かないからだ。チャンスをチャンスと捉えるには、そもそも『自分が何をしなければならないのかしたいのか。何者になりたいのか』次第なんだよな。欲望深き理想の高い人物であれば、形(なり)振り構わずにチャンスを掴もうと貪欲に取り組むんだ。そんなに欲深く無い"欲浅き者"は、チャンスと気付かずに華麗にスルーするだけだ。関心度合いによりチャンスに気付くか否かが分かれる。ま、それ自体は本人のご自由にどうぞと思うんだが、俺は。チャンスを掴みたいなら貪欲にいくべきだし、保証された生活を望みたいなら自らに課せられた役割に集中すればいいと思う。《格好つけたい欲求と隠れた意識高い系》…年下や部下や恋人の前では格好つけたい。そう願う人が大半だろう。格好つけるのは当然だ。自分の存在をかけて戦っているからだ。存在意義を明確にしたい。そんな気持ちが、格好つけたい欲求につながるのだ。それ自体が格好悪いか?そんなことはない。むしろ、何とかしようともがいている姿の方が尊敬に値する。逆に、格好悪い事に美学を感じる人もいる。どんなに格好悪くても泥臭く前に進むスタンスが好きな人もいる。一時期、俺もそう考えていた。だが、最近は"格好つけたい欲求"の方が強くなった。「格好悪くても泥臭く」も悪くはないが、俺がやると"愚かでもいい"という甘ったれた考えが出てしまう。泥臭くても愚かではダメだ。だったら、格好つけられるような実力を養えばいい。サラッとスマートに事を済ます格好いい人だ。そうなるには、尋常ならぬ隠れた努力が必要だ。泥臭い人は努力を前面に出すが、格好いい人は努力を感じさせない。それが当たり前という雰囲気を醸し出す。それが鼻につく人もいるかもしれないが、それは少数派だ。大抵の人はサラッとスマートに進める格好良い人に物事を頼むだろう。だからこそ、身嗜みや言葉遣い、物事に取り組む姿勢が大切になってくる。スマートにサラッと何でもこなす人は格好良い。そんな人は大抵"意識高い系"と呼ばれる傾向がある。近年、意識高い系は叩かれる傾向にある。それは何故か?意識が高いことを見せびらかすからだ。意識高いのは問題ない。下手にアピールするのが問題だ。ならば『隠れた意識高い系』になればいい。隠れて猛烈な努力。努力の経歴を微塵も感じさせないスマートな対応。そんな格好良い人だったら、嫌みも感じないし寧(むし)ろ尊敬に値する。当たり前のことを当たり前にやる。そんなスマートな存在になりたいものだ。そして、当たり前のことを当たり前と認識できるなら、その人は確固たる自信を勝ち取ることが出来る。確固たる自信がある人は、ありのまま見聞した物事を受け入れられる。素直に捉えることが出来るのだ。目の前の物事は、自分なりのフィルターを通じて認識される。そしてそのフィルターは、過去の経験や原理原則を基にして捉えられ、最適となる答えを導き出す。『当たり前のことを当たり前に済ます格好良い人』これが、俺が目指す人物像だ。サラッとスマートに進める格好良い人。今現時点の俺では想像できない姿だ。だが、具体的にイメージしてやることを事前に決めて実践し続けていけば、いつしか自他共に認める格好良い人になれる。格好良い人の姿を具体的にイメージして、それを当たり前のように済ますスマートな言動を日頃から意識して行う。まずはやってみよう。《給料/社会人/権利/世間/保護/先延 etc.》【給料(サラリー)の決められかた】…給料とは実力費じゃない。求人材料でありモチベーション費である。労力費でもなく苦労費でもない。求人材料もしくはモチベーション費でしかない。もし、それが実力費と言うとしても、結局評価の仕方も人によって異なるのだ。評価するポイントが人によって異なってくるのだ。だから不平不満が出る。実力費だと思い込んでいるから不満に感じるのだ。給料の決められかたは多種多様ある。その給料額に決めた目的も様々複数ある。単純に貢献度で決める場合もあれば、先行投資としての期待値を込めて上げる場合もある。狙いは様々だ。給料を貰って暮らすサラリーマンにとって大切な考え方は「何故その給料を貰っているのか」をしっかり認識することだ。別に雇い主にへつらえと言っているわけではない。その給料を貰うに値する働きをしているのか、しっかり考えるのが大事と言っているのだ。給料を貰って当然という考えは傲慢だ。あまりにも自分勝手。そんな考えでは自分勝手な振る舞いで身を滅ぼすよ。この身を滅ぼすというのは「自分の居場所が損なわれる」という意味だ。やって当然を当然のように行い、その働きで報酬を貰っている。これでいい。これがサラリーマンの生き方だ。自分の仕事は何か?終わらせないといけない業務は何か?そんな当たり前のことをしっかり理解/認識しているのか?意外と疎かにしている人は多い。もしくは給料を貰うことが"当たり前"になり過ぎて忘れてしまったか。自分の価値を過大評価しているんだ。自分の評価をするのは周囲だ。自分自身は、自分の仕事に専念すればいい。単なる業務ではなく仕事だ。仕事とは目的である。仕事のために業務を当たり前のように遂行する。それに専念すればいい。評価は他人任せでいい。ただ、給料についてはある程度こだわると良い。【世間一般的な社会人とは】…いまいち、世間一般的に考えられている社会人像がパッと思い浮かばない。社会人経験はある程度積んできたつもりだが、未だに世間一般的な社会人のイメージが曖昧なままだ。それは恐らく、ローカルな社会で過ごしてきたからだと思う。クセが強いローカルな社会でずっと生きていると、それが当たり前という感覚になる。外の世界はどうなっているのか。これは転職などで居場所を移さないと見えてこない。外の世界に足を踏み入れるのは勇気がいる。今までの安寧な暮らしを手放すことになるからだ。ま、外の世界に出たとしてもオフィシャルな社会に出会えるかは不透明なんだけどね。世間一般的な健全な社会だと思いきや、とんでもなくクセが強い社会でした、という話は無数にあると思う。とにもかくにも、どんな社会でも生きていけるように、俺は世間一般的な社会人を目指す。どこに行っても通用する社会人としての実力があれば、たとえ居場所を失ったとしてもすぐに新たな居場所を見つけられるんだ。社会を気にしすぎるな。最低限の礼儀とマナーで程よい距離感を維持するんだ。深入りは不要。スーパー社会人を目指そう。【段取りと事前準備は手際よく】…何事も、段取りと事前準備を完璧に仕上げていれば順調に事が進む。段取りや事前準備は大切。だが、無駄に時間をかけるな。サクッと終わらせろ。10分でいい。もっと言うなら5分で終わらせる。思考にはエネルギーが必要。そのエネルギーは瞬発的だ。ほんの少ししか集中力は続かない。だったら、段取りや事前準備は5分で済ませよう。過程よりクオリティだ。完璧な段取りと事前準備で事をスムーズに進める。【理不尽にも動じない精神を養うために掃除する】…たとえ周りの人達が掃除していなくとも、俺は粛々と掃除して支度する。綺麗な環境の方が集中力が持続することを知っているからだ。もはや習慣だ。綺麗じゃないと気が済まない。それでいい。また、物がどこにあるか把握するためにも掃除する。隅々まで掃除しながら物の場所を把握するんだ。もし、周りの人が掃除してなくて俺だけ掃除している状態は、たとえ理不尽に要求ばかりされている状況でも冷静でいられる不動心を養うのにも役立つ。何で俺だけ、と思う暇を与えない。そんなものだ、とおおらかに構える。そうすれば、余裕あるスマートな人になれるよ。余裕綽々で事を進めるためにも、掃除習慣はこれからも続けていく。【碌でなしの歩む道】…自分は碌(ろく)でなしだと感じたとき、人は主に2つの行動パターンに分かれる。碌でなしと自覚して一生懸命努力するか、碌でなしと認めずに言い訳して正当化するか、である。【無闇に期待する甘ったれ】…自分の力を頼りに出来ず、ただ無闇に周りに期待するのは単なる甘ったれだ。【斥候とは】「相手の状況などを探ること。また、そのために部隊から派遣する少数の兵(つわもの)」by Goo辞書「役割は主に偵察/攻撃/追跡の三つ」by Wikipedia「斥とは、押しのける、様子をうかがう、などの意味になる。候は、様子を見る、待ち受ける、兆候、きざし、などの意味となってる。様子を観る、うかがう、の意味を重ねて強調した言語である」by YAOYALOG【こじつけ好き。へりくつと言われても】…理由の後付け。こじつけるのが好きなんだ、俺は。結果について考えるとき、あーだこーだとテキトーな理由付けをするのが好きなんだ。そして、こじつけにオリジナリティを感じるんだ。【裏切りを恐れる心理】…裏切りを過度に恐れる。俺の深層心理には裏切りを恐れる気持ちが根強くある。ずっと引っ掛かっているんだ、この気持ち。だったら、いつか書いて明らかにしよう。【権利への執着】…なんとなく嫌な気持ち。それを抱えて日々過ごしている。モヤモヤした気持ちだ。真面目にやることを拒絶している。嫌な感じだ。素直にやるべきことをやればいいのに、嫌な感情がそれを邪魔する。そうじゃないと訴えてくる。これが葛藤か?このモヤモヤを絶たないと集中できない。ずっと嫌な感情を引きずることになる。ふと思った。これは"権利への執着"なんじゃないかと。権利への執着とは何か?働く権利、休む権利など、一種の許可証である。これをやっていい、これをやってはいけない。これをやるべき。一種のルールだ。それに囚われている気がする。自分のルールは、過去の思考と体験を積み重ねて形作られる。そして、無意識のうちに自分自身を支配しているんだ。思考の癖とも呼ぶ。この思考の癖が、世間一般的な観念とズレていると、違和感や嫌悪感が生じるのではないか。【2種の世間一般】 世間一般と言ってもオフィシャルとローカルがある。オフィシャル寄りであれば納得出来ることも多い。だが、ローカルは不特定多数ある。もし、そのローカルがオフィシャルとかけ離れていると、強力な違和感を感じるようになる。何が正しいのか、訳がわからなくなる。オフィシャルは王道だ。ローカルは言わば邪道だ。どちらを選ぶかは本人の自由だが、オフィシャルである方が選択肢は増える。自分の思考の癖はどんなものか?オフィシャルな考え方は何か?自分の思考とオフィシャルな思考はどう違うのか?それを明確にすれば、もっとオフィシャルな考え方が出来るんじゃないか。どうすれば違いがわかる?もっと世間を知ることだ。どうすれば世間を知れる?世間一般的な環境に身を投じることだ。そんな場はあるのか?一歩ずつ近づけばいい。もしくは、小説など物語の世界へ飛び込めばいい。予習にはなるだろう。【保護と束縛 ~成長を阻害する要因~】…保護を受ければ安心を得られる。だが、それは安易な安心だ。保護する存在が滅すれば、社会というジャングルに放り出される。また、保護する存在から追い出されれば、無知蒙昧なまま社会で生きていかなければならなくなる。だから、保護する存在にしがみつくケースも多くあるんじゃないか。そう、ウシジマくんに出てくる"中年会社員くん"みたいに。【サボると先延ばしになる】…サボればサボるほど先延ばしになる。だから終わらない。その場で終わらせればいいのに先延ばしにする。いま出来ることは今しか出来ないのに。先延ばしは不安の元だ。先延ばし事項は無い方がいい。常々フリー状態が望ましい。タスクは即対応して、常に余裕綽々な状態にする。《エンディング(終着点)を決めておく》「ここで何をやりたいのか」…新しい居場所に辿り着いたとき、先に成し遂げたいことを決めておく。それの有無により、日々の過ごし方も大きく変わる。特に成し遂げたいことが無いと、目標が無く漠然とした日々を過ごすことになる。もし、成し遂げたいことがあって終着点を決めていたなら、終着点に到達するにはどうするか、自ずと考えて行動するようになるだろう。自分なりの終着点、つまりエンディングを決めておくんだ。そうすれば、ここで何をしなければいけないか明確になって、1日1日メリハリを付けて行動するだろう。さて、どんな目標設定がいいか?○○○万稼ぐとか収入を目標にするのはあまりオススメしない。その収入を得たいが為にしがみつくからだ。○○がしたい、○○を成し遂げたいとか、具体的な行動目標の方が終着点を明確にしやすい。たとえば、営業成績を他拠点のダブルスコア差を付ける、とかでもいい。具体的な数値目標、それに向けてどうするか考え、計画を立ててアクションを起こしやすい。抽象的な精神論よりも具体的な数値目標。その方が人は動きやすい。目標設定でも、個人的な目標なら自由に設定していい。拠点の営業目標など他人が関わるなら、少し頑張れば達成できる現実的な数値目標を立てよう。他人が関わる目標はたいてい公表される。だから現実的にならざるを得ない。だが、個人的な目標なら別だ。公表しなくていい個人目標なら尚更(なおさら)だ。自由に個人的目標を設定すればいい。その方が楽しめる。周りを圧倒して独り自己満足するのも良い。自己満足は仕事を楽しむコツである。ただ、仕事はどうしても他人が関わることになる。他者満足を叶えつつ自己満足も達成させる。それが良い。仕事をして報酬をもらっている以上、他者満足は最低限果たさなければならない。その最低限さえクリアしてしまえば、あとは個人的目標に向けて頑張ればいい。方向性が合致していれば付加価値もつけられる。それを実施するか否かは、自分自身の興味関心次第だ。興味関心が無ければそれまでだ。もし、興味や関心が強いなら、自ずと邁進していくだろう。あくまでも個人的な興味関心だ。それが、最低限以上の仕事をする上で必要な要素だ。他者満足だけでは物足りない。成果目標達成だけでは不十分だ。そこに、個人的な目標をプラスするんだ。個人的目標を付け加える。そうすれば、より楽しんで役割を果たせる。楽しんで取り組めるようになるよ。「自分はいったい何者になるのかね?」…エンディング(終着点)を決めるとき、結局自分はどのようになるか決めておく。終着点で自分がどうなっているのが望ましいか、具体的に思い描く。明確になればなるほど、行動計画を立てやすくなってくる。漠然と思い描くだけでは前進しない。日々思った通りの結果になるだけだ。マイナスの感情が入ればそっちに引っ張られる。プラスの感情というのは滅多に現れない。それだけ、世間で成果を挙げるのは大変なんだ。世間で思い通りに生きるのは大変なんだ。明確な信念や目標が無いと多勢に流されていく。易(やす)きに流される。流されながら生きると不安定だ。自分に信念が無いと流されやすい。他人に寄って生きるのは不安だ。歩くなら、自分の足で歩きたい。だからこそ、自分が何者になるのか明確にすべきなんだ。人は日進月歩、老いていく。ゆるやかに老いていく。日々変化しているんだ。見えないスピードで変わり続けているんだ。そんな中で、精神や考え方が変わらないのは"退化"とも言えなくはない。年を重ねる度に進歩して漸(ようや)く"トントン"なんだ。要は"普通"だ。最低でも"普通"でありたい。その普通を越えるには、より一層頑張るしかない。年齢不相応で劣等感を感じるなら、なおさら頑張るしかない。その為には、自分が何者になるのか、具体的に明確に示しておくんだ。《第2プロセス ~感情/精神/方法/結果~》…一歩踏み出すのはいい。問題は、次の第2第3のステップに踏み込めるか、ということだ。プロセスの段階は主に4つある。_______________【感情論】根本的な情緒や欲望に関する論理【精神論】健全な社会生活を送る為の考え方【方法論】理想的な感情や精神の表現を具体的に実現させるための理論【結果論】その行動の結果について考察 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄…感情論と精神論は謂(い)わば"骨組み"である。全ての根本である精神と感情について方向性を整え定めるのだ。一種の信念、自己実現の為の理論だ。感情と精神の違いは、感情は自分本意であり、精神は社会的であるということだ。自分の感情は自分だけのもの。その根底には欲望がある。欲望が生じて感情的という形で表出される。その根本を理解する。それが、自分自身への理解に繋がる。自分が何をしたいのか、それを明確にする。そうすれば、具体的な方向性がより明確になる。快活な日々を過ごす指針となる。だが、社会で生きるには自分本意だけではいけない。社会で生きるにはルールを理解して守らなければならない。誰もが自分本意だけで生きれるわけではない。ある程度の"妥協"が必要になる。譲歩とも言う。そんな社会で生きる為の人為的な考え方・思想が"精神論"である。自分本意な感情論を制御するための精神論だ。精神論で社会に適応しながらも、感情論から生じる自己実現をも達成させる。それが理想だ。精神論で最低限の社会ルールを遵守して、感情論から出る自己実現欲求を最大限に満たす。それが、人生を最大限に楽しむプロセスだ。ここまで組み立てて漸(ようや)く第1プロセスである。骨組みの完成である。感情論で個人的目標を立ち上げ、精神論により社会的ルールを理解する。個人と社会をいかに融合させて適応していくのか。それをより具体的に明確にする。人の生き方は多種多様で千差万別ある。一人一人の過去も違うし境遇も異なる。その過去や境遇から自身の最高の生き方を模索して、その方向性を具体的に明確化するのだ。そこまでしてから漸(ようや)く第2プロセスに入る。 第2プロセスとは何か?冒頭の4つの内の"方法論"である。具体的にどうしていくのか、その方法を明確に定める。ノウハウとも言う。感情論や精神論が明確に整えると「これがしたい」「こうしたい」と願望が表出される。その願望を叶えるための方法だ。ただやりたいという気持ちだけでは何も進まない。そこからどうしていくのかを具体的に考える。それが第2プロセスの始まりである。そして、思い付いた方法を実際に試してみる。実践してみる。その結果から次はどうするのか。トライ&エラーを繰り返す。考えついた方法を試して次に活かす。動きながら考えることは"結果論"とでも呼んでおこう。実際に動かなければ何も始まらない。実際に動いて初めて気付きに出会える。これは"学習"とも呼ぶ。実際に動いてみて自ら学ぶ。これは学習と言える。最終的に学習に繋がれば第2プロセスの為のルーティンが出来上がる。方法論から実践。実践して結果論から学びとって次のアクションに活かす。第2プロセスでは、具体的な実践と学習から日々学び取っていくのだ。謂(い)わば"肉付け"の段階。さて、第2プロセスのゴールはどこになるのか?一つ"型(かた)"が出来れば一段落である。一つのルーティンを完成させる。一つのノウハウや仕組みを作り上げる。第2プロセスのゴールはそこにある。自分なりの『王道』を形成させる。これさえやれば間違いない最高級のやり方を見出だす。そこまでやってやっと第2プロセスが一段落するんだ。 第1プロセスは"骨組み"。根本的な欲望や感情を見出だし、それを社会に適応させる精神論を自分なりに作り上げる。自身の根本を整えたら、次の第2プロセスは"肉付け"。具体的な方法論を編み出してトライ&エラーを繰り返し、自分なりのルーティンやノウハウ、やり方の『王道』を見出だすのだ。そこまでが、第1プロセスと第2プロセスの流れだ。《夜には『やりたいことリスト』を作成》《朝は『具体的スケジューリング』実施》《金曜の夜は『大筋段取り』を終わらす》「朝は時間がない。夜は気力がない」…最近そう思う。朝の時間の進みの速さは半端じゃない。気が付けば出発時間になっている。やることをパパッとやってサッサと出る。これが朝のルーティンだ。時間の経過は早いが気力は十分ある。寝て起きて休息十分だからな。それでも、時間がなくて何もせずに出発となる。逆に夜は、時間はあるが気力が無い状態だ。ボーっとして何も進まない。だが、時間はある。1日の義務を果たしてボーっとするのだ。何もする気が起こらない。ただ漠然とボーっとしているだけだ。コレやりたいアレやりたいはある。脳内が騒がしい。だが『面倒くさい』の一言で全てが帳消しとなる。そして不満を抱えながら先延ばしして、結局何もしないまま朝を迎えるのだ。 夜は段取りのみ。朝は遂行のみ。それでいい。朝晩でやることを明確にしておくんだ。集中する項目を決めておくんだ。夜は『やりたいことリスト』でも作っておけ。やることリストじゃないよ。やりたいことリストだ。あれもしたいこれもしたいで良い。とにかく思い付く限り書き連ねてみろ。取捨選択は翌日でいい。気力が少しでも残っているなら選別を少し行う。夜は『やりたいことリスト』を作成、朝は『具体的なスケジューリング』でいいだろう。金曜の夜には"大まかスケジューリング"を行えばいい。金曜の夜だけは『やりたいことリスト』と『大まかスケジューリング』を行う。解放されることを楽しみにして頑張る。たとえ集中力が途切れていたとしても進める。なんせ翌日は休みなのだから。ある程度の無理は出来る。無理できるときは無理しちゃっていい。先々の段取りを大筋終わらせてしまえばいい。夜はやりたいことリスト、朝は具体的スケジューリング、金曜は大筋段取り。この3つだ。時間帯別集中すべきこと一覧だ。これを参考に試してみるか。《型を知る。型を崩す。 ~常識の徹底~》…歌舞伎役者の中村勘九郎氏は子供の頃、食事のマナーについて厳しく躾(しつけ)られていたそうだ。人前で食事をする機会が多いため、日頃から食事マナーを正しくする必要があるのだ。その話をTVで見ていたとき「食事のマナー、型を知れば、そこから型を崩すことも可能」とも言っていた。まずは型を知る。そして状況に応じて型を崩す。許される範囲内で型を崩す。オリジナリティを出す。それが出来るのも、日頃から基礎固めをして型を知っているからだ。反対に、型を知らないことは型なしと呼ぶそうだ。型なしは礼儀知らず。それでは恥さらしとなる。だからこそ、型を知って日頃から心掛けるのだ。 この"型"を世間一般的なサラリーマンに喩えるなら、それは"常識"となるのではないか。一般常識、礼儀作法など、知ってて当然と言われる常識を『サラリーマンの型』とでも呼ぼうか。サラリーマンの型が整っている人は、信頼や人望を集めやすい。何故なら"常識"を知っているからだ。常識人は理解力が高い。状況を察して適切に対処できる。一般常識も礼儀作法も自然と身に付いているなら、嫌みなくスマートに対応する。動きが自然体なら「こいつは出来る」と思い込んでくれる。勘違いでも思い込ませれば勝ちだ。それに、一般常識や礼儀作法が身に付いている人は、物事に対する理解も深い。道理を理解しているからこそ、常識の重要性に気が付いている。だから信頼される。頼りにされる。そんなサラリーマンの型は、日々の行いで磨いていくんだ。身嗜みに問題はないか?言葉遣いは適切か?適切な対処が出来たか?それらを反省しながら学習して次に活かす。それが出来る人は、日々"常識人"として進歩していく。とてもスマートでオフィシャルな存在だ。状況を察する力があるからこそ、いま何をしなければならないか瞬時に理解して動くことができる。原理原則を理解しているんだ。 サラリーマンの型を身に付けて自然と立ち振る舞うことが出来るようになったならば、その次は"型崩し"にも挑戦してみせる。型を知っているから、どこまで砕(くだ)けて良いか把握しながら慎重に立ち振る舞うことも出来る。型崩しが出来るようになると、相手を自分のペースに巻き込める。こちらの思い通りに動かすことも可能だ。型崩しの状態は強力な自己主張となる。その強力な自己主張に圧倒されたなら、その相手はそのペースに従わざるを得なくなる。今までの常識が通用しなくなるから、どのように対処するか相手を見なければならなくなるからだ。それも"常識"を知っているからこそ出来る業(わざ)だ。 常識を知る。そして、あえて崩して自分のペースに引き込む。強力な自己主張で相手を巻き込む。型を知り、型を崩す。自分なりの型が出来るのも、基礎固めをきっちりやるからだ。型なしは論外。型を知るのは最低限。そして、型崩しは上級者向けだ。型を我がものにしなければ出来ない業(わざ)だ。まずは型を知ろう。型を身に付けるところから全ては始まる。《時を越え、姿を変え、主を変え》…このブログは、時間が経つたびにタイトルが変わり、ペンネームが変わり続けている。姿がコロコロ変わる。それは、ブログを書く目的が変わってきたからである。最初は単なるストレス発散だったが、実際に書き続けていくことで考えの整理や思考の見える化など様々な効果を発見できた。発見がある度に、ブログを書く目的も変わってきた。目的が変われば、タイトルも目的に沿ったものにしなければ気が済まない。NBA・古典・日常について書くのは変わらない。だが、それが目的ではない。今のタイトルは『未来への過去日誌』だ。過去の経験や学んだことを未来に活かす。過去現在と未来の対話により自分自身の変化に気付く。初心を思い出す。過去記事から思考を深掘りする。目的はそんなところかな。過去記事を読んで新たな発見も多々ある。文章の拙(つたな)さにも気が付ける。自分自身を客観視できるんだ。今現在について書けるだけ書いて、未来の自分自身がそれを評価や判断をする。独り対談だな。それはそれで面白い。過去にそんなことを思っていたんだなとふと我に返ることもある。また、過去の精神論記事から今現在の発奮材料にすることもある。俺なりのマインドセットだ。精神や感情は、ちょっとしたキッカケで大きく変わることが多々ある。だが、浮き沈みが激しいと落ち着かない。落ち着きのなさは不安感につながる。ならば、今現在の感情は一旦ブログに保管して、おおよそ1~2ヶ月後に投稿という形で解放する。投稿の予約機能は便利だね。おかげで過去と未来の対話が容易くなったよ。もうしばらくは、過去と未来の対話がブログの目的となるな。飽きるまで続けていこう。新たな目的が生じるまで続けていこう。全てを呑み込んでやろう。また目的が変わったら、姿も変えてやろう。《自分の"パーフェクトプラン"で挑む》「パーフェクトプランで挑む」これをテーマの一つとしよう。具体的に述べる。 俺は、指示が無ければ動けない。迷いが生じて右往左往する。だが、指示とは他人が行うこと。他人がいなければ動けないのか。そんなことでは延々と一人立ち出来ない。だったらどうする?自分で自分に指示を出せばいい。その「自分への指示」が"計画(プラン)"である。計画があれば、あとは遂行に集中すればいい。迷いもなく気が散ることもない。ただその計画に集中すればいい。だが、その計画自体の方向性が誤っていれば徒労に終わる可能性が一気に上がる。無駄な事はしたくない。無意味な行動は誰も得しない。だったら、その計画の段階で完璧を目指せばいい。それが『パーフェクトプラン』だ。自分にとってのパーフェクトプランを常々用意しておく。そうすれば、迷うことも不安になることもなくなる。ただその計画に集中すればいい。想定外のことも起こるかもしれない。だが、その時はその時だ。想定しうる完璧なプランを立てておく。イレギュラーはその場で対応だ。基本路線は"計画通り"である。想定しうる全てを計画にぶちこむ。そうすれば、起きること全てに準備が整う。計画通りに事が進めばラッキー程度に構えればいい。たいていイレギュラーは発生するものだ。そのイレギュラーから学べばいい。今後の糧にする。今後の計画にそのイレギュラーも想定させる。イレギュラーが発生するまでは"計画通り"に事を運べばいい。それまでの段取りや事前準備を念入りに行う。そうすれば、たいていの物事は上手く運ぶ。それほどまでに、プランは大切なのだ。プランを疎かにしてはいけない。完璧な一日を目指すなら、まずはパーフェクトプランを目指すべきだ。パーフェクトプランでもイレギュラーが発生するなら、それは俺の経験や勉強不足である。それは今後の糧としよう。まずはパーフェクトプランで事を進める。それがいい。《気を鎮めて地に足を着けて歩む》…お調子者の俺は、地に足を着けて歩むべきだ。その為に、気を鎮めて冷静沈着に事に挑むんだ。もちろん、我が儘身勝手に立ち振る舞えるのが一番気分が良い。だが、社会生活を営むなら、周囲の人々も尊重すべきなんだ。社会生活で必要なのは協調性だ。そして共感力。空気を察して、一人一人相手を理解しながら事を進めていくんだ。無私の領域に達するのが理想かもしれない。だが、無私ではどんどん無関心になっていくんだ。興味が薄まればやる気が失せる。それが俺だ。興味を絶えず持ち続けるなら、ある程度のエゴは必要だ。余裕や遊びを持つ、ということだ。自分なりの楽しみ方を見出だす。それが、興味を持ち続けるコツであり、仕事を楽しむ方法だ。常に限界ギリギリでは遊びが無くなる。ストレスMAXで事に励んでも成果が出なければ水泡と化す。ストレスMAXで挑んで成果無しなんて哀しすぎる。そうじゃない。成果を得るために何に集中すべきか。取捨選択だ。"遂行"も仕事だが"削除"も仕事だ。業務と呼ぶべきかもしれないが、業務にどう当たるか考えるのは仕事と呼べる。マネジメントだ。工夫して事に挑む。成果を出して余力がある状態が望ましい。別に全力全身限界ギリギリを出す必要は無い。成果が出ていれば良い。心身の限界ギリギリに挑むのは単なる自己満足。全身全霊のアピールでしかない。工夫が足りない。努力の方向音痴だ。力を入れるべきところ、集中すべきことを取捨選択するんだ。成果や目標に集中するんだ。そして逆算して考えて行動計画を立てる。それが正しい順序だ。地に足を着けて頑張るとは、一つ一つ着実に丁寧に対応し、最大限の成果を引き出すことだ。信頼は積み重ねで作られる。一つ一つ積み重ねるんだ。それが経験となって糧となり、自分自身のステータス(ブランド)になっていくんだ。それが"社会の自分"となっていく。個人ブランドというものだ。その人であれば信頼に足る。そう思わせるくらいにならないと。信頼される人のイメージは『フォーマルでスマートな常識人』という感じだ。正式で賢いオフィシャルな人、とでも言い換えられるのかな。世間一般的な王道を歩む、ということだ。既に個性はある。個性丸出しだ。自己概念は問題ない。「俺はこんなやつ」という自己概念は既にもっている。その自己概念を社会に適応させるんだ。そうすれば、その自己概念はオフィシャルなものに変化していく。目指す人物像を明らかにするんだ。人間は常々変化し続ける。それは当たり前なことだ。どのように変化していきたいのか。それを明らかにする。テーマが決まれば後は肉付けだ。肉付けは日々の活動で試しながら行うんだ。実際にやってみて気が付くことは多々ある。やってみないと気が付かないことだらけだ。まずは骨組みを作る。フレームを作る。どのような形にするのか、どのようなテーマを持つか、はじめに骨組みを作ってから肉付けだ。目標や目的を決めて計画を立ててから具体的に行動するのだ。そして糧にして再び骨組みを行う。試すたびに賢くなるんだ。俺がイメージする『フォーマルでスマートな常識人』になるんだ。世間一般がイメージする人物になれるかは、やってみなければ分からない。まずはその人物像を表現しよう。日々の活動で意識しよう。イメージを抱えて表現しよう。何事も挑戦だ。人生は未知なる挑戦の連続なんだ。挑戦するなら、楽しんでトライしてみるとしよう。《しつこくインプット。思い出す仕組み作り》…メモに書く。手帳に書く。スマホに記録。PCにもメモ。とにかく思い出せるように書き続ける。そして脳にインプットする。インプットが目的だ。その記録から瞬時に思い出せるよう"段取り"するのも目的だ。何度書いたっていい。どこにメモろうと自由だ。思い出せればいい。その目的が果たせればいい。思い出しスイッチだ。それを見ただけで思い出せる。そんな状態にしておく。記録しておく。無闇に書いても散らかるだけだ。ますます情報雑多となって逆に思い出せなくなる。思い出せる場所に記録する。メモしておく。思い出せない場所にメモしたなら、思い出せる場所にメモし直す。書き直しは面倒だ。極力やりたくない。書き直しは気力を大いに割く。あまりやりたくない。書き直しの手前を抑えるために、記録のルーティンを決めて習慣化する。習慣化すれば記録しないと気が済まなくなる。それがいい。記録の習慣化により正しいインプットが身に付く。結果、多くの情報を抱えるようになり、使うときに瞬時に引き出すことも出来る。「情報は貯めるものじゃない。使うものなんだ」情報は使ってこそ価値がある。中には滅多に使わないが保管すべき情報もある。だが、引き出せる状態にしておけば瞬時に動けるようになる。情報管理が大切なんだ。情報を引き出す体制作りをやるべきなんだ。探す手間が不毛で無駄な時間だ。そんなくだらないことに手を煩わすなら、情報を引き出せる体制作りをすればいい。それこそスマートで賢いやり方だ。無駄な努力アピールをしていても誰も得はしない。時間の浪費は誰のためにもならない。だったら、短い時間でやるべきことに集中しようよ。その為には、瞬時に思い出せる情報管理体制を整えるべきなんだ。やり易ければ習慣化される。ルーティン化して時間を短縮し、もっと考えるべきことや"やるべきこと"に集中できる。業務だけにのめりこんでも何も生み出さない。もっとクリエイティブにいこうよ。クリエイティブな活動が、より良い利益を生んで、より良い1日を過ごす要因なのだから。《"下書き"という段取り。清書して引き出せる》…下書きは便利だ。頭に浮かぶアイデアや情報を取り敢えずぶち込めばいいのだから。始めから完成させようとしても時間がかかる。段階を踏んで進めていけばいい。漫画を描くときのネームと同じだ。発想をまとめるため、まずは頭の中の情報を全て書き出す。次に取捨選択する(整理)。そして繋ぎ合わせて分かりやすくまとめる(整頓)。全てを書き出して整理整頓だ。そのやり方は様々だが、俺の場合"書き出す段階"ではスマホをよく使う。書くより手軽だからだ。書き出す段階ではとにかくスピードが大事。パッと浮かんだワードをとにかく全て書き出す。ムダだと思うワードも書き出す。あとで取捨選択するから安心して書き出す。これ以上出ないと思うまで書いたら、次は取捨選択だ。取捨選択のポイントは「テーマは何か」を明確にすることだ。取捨選択の基準を設ける。その基準のもと情報の取捨選択をする。捨てるときはバッサリ捨てる。あとで使えそうなものなら、見えない場所へ保管しておく。使える情報だけをピックアップしておく。そして最後は情報整頓だ。見やすくまとめる。ここでのポイントは「誰が見るのか」である。共有用であれば報告書、顧客に提出するなら提案書、自分へのメモなら記録となる。どんな形であれ「相手が何を欲しているのか」を基準にまとめ上げる。報告書と提案書は、テーマは同じでも表現方法は違ったものになる。他に情報整頓で大切なのは"短く分かりやすく理解できる"ことである。そこら中にある広告が参考になる。限られたスペースや時間で伝えたいことを伝える。もしくは関心を引かせる。目を引けば勝ちだ。興味を持ったら目的達成だ。情報の整理整頓は大事だ。伝える手段が多数あればコミュニケーションが円滑になる。コミュニケーションが取れると信頼される。信頼が、次の段階へ進むカギとなる。社会生活で基本とされるコミュニケーションを上達させるには、まずは情報の扱い方をマスターすることだ。情報の保管方法/引き出す仕組み/分かりやすく編集。この3つの基本を身に付けるとしよう。↓過去記事ピックアップ(2018年2月~3月)↓《"怒り"を活用 ~口動かさず手足動かせ~》 仕事がデキる人は『怒り』を抱えている場合が多い。逆に、あまり感情が無くポケーっとしている人は何も出来ない場合も多いなと思っています。因(ちな)みに、僕は後者です(^o^;) こんなポケーっとしている僕でも、怒りを抱え撒き散らしながら働いている人が多くの物事を処理していけている姿をずっと見てきました。怒りを抱えると、無駄に人目を気にせず目標達成の為に集中して考え、思い立ったら即行動を起こして多くの事を済ませていくのです。見掛けだけの怒りではありません。『純粋な怒り』を抱えている人だけが、それを可能にしていきます。 別に、みんな怒り抱えて動けと言いたい訳ではありません。ポケーっとしている人の中には判断力や観察力に優れた人もいます。しかし、実際に行動を起こす人は『純粋な怒り』を抱えて撒き散らしながらも結果を残す傾向にあるなぁと思うだけです。 この"純粋な怒り"は、凄まじいエネルギーを持っています。問題は「そのエネルギーをどのように使うか」です。 原則は『手足で表現!口動かすな!』です。手足を動かして結果を残す事だけに注力すべきです。ムダに口を出して怒りを撒き散らせても、更に感情が昂ってコントロールがますます難しくなっていきます。ほら、荀子でも言うじゃないですか。「賢者は学んだ事を身体に行き渡らせる 愚者は学んだ事を喋って口から吐き出す」 何時(いつ)までも成長出来ない人は、理解した事を他人に喋って"知ったかぶり"となり、そこから学んだ事を発展させようとしません。 成長デキる人/結果を残せる人は、学んだ事を更に自分なりに解釈させ、自分なりに理解を深め、理解した事柄を行動に移して実行させます。上手くいくならそれで良し、それを習慣化させます。失敗したならば、その経験を基に学び考えを深めて再びTRYします。 人の特徴って「どんな失敗をしたか」によって見えてきます。何度も同じ失敗を繰り返す人は、理解力が無いかヤル気が無いかのどちらかです。毎回失敗の種類が異なる人は、自分なりに工夫しながら挑戦しているので、様々な経験を積めている為に、いつかは成果を残し続けていけると考えられます。 …話がだいぶ逸れました(^o^;)。結論としては「"怒り"活かすなら口動かさず手足動かせ!」です。 もし、最近怒りの感情が沸々と湧き出ているのであれば、一度参考にして下さい。 以上、本気で物事に挑むと自ずと怒りの感情が湧いて出てくるんだなぁと最近理解し始めたO・D・Oからでした(゚Д゚ )。《"頑張り続ける"大変さ ~狂気が生じる~》 最近、意気込んで日々の活動に取り組むよう心掛けた結果、何故だか怒りに似た落ち着きの無い感情が湧き出てきている。 いやぁ、大変ですね(^_^;)。何で、こう震えが止まらないのでしょうね(ー_ー;)。冷静になれれば問題無い筈なのに、感情の昂りにより簡単な事すら難しく考えて勝手に混乱している有り様です(ーー;)。 頑張ろうと意気込むと、それに応じて強気な感情も湧き出てきます。強気な感情は"狂気"とも呼べそうです。狂気が生じると落ち着きが無くなり、感情のコントロールが難しくなってきちゃいます。今までは「自分の"能力"に見合う役職に就いて無難に淡々と業務を処理する」のが宜しいと考えてきました。しかし、そろそろ周囲に依存した甘ったれな考えを捨てたいのです(´Д`)。自分がどのくらい出来るのか、自ら限界を作らず目の前の出来事に「向き合って」進んでいきたいのです。真剣に物事に取り組めば、大抵の事は余裕綽々に容易く処理出来ると信じたい、というよりも証明したいのです(´Α`)。その為にも、日々頑張って自ずと気付かぬ間に成長したいのですヽ(´д`)ノ 本気を出すのはしんどいです( -д-)。感情のコントロールも難しくなるので、出来れば無難に楽に事を済ませたいです(*´・д・)。でも、それに寄り掛かっていては限られた事しか出来なくなります。だったら、本気で頑張って出来る事を増やす方が楽しいです。無難に日々を過ごしていると、徐々に退屈になってしまいます。"まとも"であり続けようとすると、少しずつ同じことの繰り返しでつまらなくなってしまうのではないかと不安になってしまいます。 "困難"を乗り越えるのは大変です。ただ、その困難さえ一度乗り越えてしまえば、その先は"楽な道"になるのではないかと信じてます。困難を乗り越えるまでの過程で自分自身は鍛えられ勝手に成長していると思っています。鍛えられ自力が身に付けば、この先の道も余裕綽々で乗り越えられていけるのではないでしょうか。 困難を乗り越えるのは「将来を楽にするため」と考えれば、決して無意味な事では無いと思います。大変であっても、簡単には心折れずにしぶとく前に進んでいこうと思っています(ーдー) 以上、ここまで、頭に思い立った言葉をテキトーに自分勝手にガーっと書き連ねていったO・D・Oからでした(;-Д-)。《フィル・ナイトの格好良さ》 東洋経済オンラインに掲載されているNIKEの創業者である"フィル・ナイト"に関する記事に載っているフィル・ナイト氏の写真がカッケーなぁと思っているO・D・Oです( ゚A゚ ) 最近まで、フィル・ナイト氏の自伝『SHOE DOG』を読んでいました。本を読み終えてから、この画像を見ると「老いても尚(なお)上を目指す眼差し」をしているように思えます。 フィル・ナイト氏とはどんな人物か。一言でいうなら「勝ちにいく人」です。とにかく負けたくない。負けたくないから、勝ち続けるんだ。SHOE DOGに何度も出てくる言葉です。その"勝ちに拘(こだわ)る姿勢"を貫き通した結果、NIKEは世界的に有名なスポーツ用品ブランドと成り上がりました。 NIKEのスローガン『JUST DO IT.』の意味も格好良いですね。自分では上手く表現出来ませんので、興味が御座いましたらこの記事を読んでみてください。この言葉に込められた"思い"が、フィル・ナイト氏の信念そのものだと思っています。 『SHOE DOG』の魅力は読んでみなければ分かりません。もし、本屋で見かけましたら是非とも読んでみてください。お薦めです!《『全力』とは、全てを完遂させること》「全力」とは、考え得る"全て"の事柄を完遂させることだと解釈しているO・D・Oです( ・ε・)…ただ、全力を出すって、言葉で言う程カンタンじゃ無いのですよσ(^_^;)?。実際にやってみると、どうしても「保身に走る」時が出てくるのです(ーー;。まぁ、それは仕様が無いです(^^;。だって、本当に「全力」を出しちゃったら、体調を崩すか燃え尽きてしまうからです(・・;) それでも、人間社会で生きていると、どうしても「自分の"限界"以上」に挑まねばならん時が来るのですよ(¬_¬)。そんな時、日々『全力』で頑張っていれば、少しずつ"自分の限界"の上限が上がってくるのです( ・`ω・´)。何故なら、人は学び、変わっていくからです。そして適応し、皆を引っ張っていく(^_^)v。 基本は、誰でも何でも出来るのです。何故ならば、「だって、人間だもの( ・ε・)」。単に人は『自己概念』による思い込みにより、自分自身に制約を設けているだけなのです(¬_¬)「人は、頑張って学べば成長する」これは、俺自身の人生経験から得た教訓であり、古典『荀子』の"勧学篇"にも此の様に書かれていますよ、「学ぶ者は人間である」と。反対に、学ばない者は「モンキーなんだよーッ!」とも言ってます(-_-;)…まぁ、人の成長の特効薬は僅かしか無いと思います。1日1日、コツコツと少しずつ成長させるしかないのです、自分も相手に対しても。1日頑張って漸(ようや)く一歩、1日サボれば"停滞"では無く『退化』です。それは何故か?時間が経った分だけ、年齢を重ねているからです。だから、1日で一歩、自分を進ませていくのが「当然」であり、「当たり前」であり、「普通」なのです( ・ε・)。サボれば退化しますよ。 1日1日を『全力』で生きる。今日1日を全力で生きたら、その成長は"一歩分"進んだ事になる。その『全力』を毎日コツコツ実践していけば、気付けば「凄い事を当然の如く成し遂げる人」に成長しているのですよ(¬_¬)。どんな"凄い人"でも、基本はコツコツ積み重ねているのです。知識や情報、ノウハウやモノの使い方など、様々な「生きる知恵」を積み重ねているのですよ。「毎日を全力で生きる」これを具体的に実践していくには、きっちり予定や計画を組み立てる事です。"何"を"どの様に"積み重ねていくか、それを予(あらかじ)め考えておき、明らかにしておくのです。日々を「計画的に全力で生きる」ことで、順調に無理なくコツコツと成長させていけると考えています。それを、いますぐにでも実践していきます( ゚Д゚)ゞ【2018.12.16】その時の目的を達成させる為にアクションを起こすか否か。それだけで、今後の人生に大きく影響を与える。単純に、何も動かなければ"0(ゼロ)"である。では、アクションを起こせば"1"となるのか?そうとは限らない。思い通りの結果が出なければ、それは"0.5"なのかもしれないし、場合によっては"0.1"でしかないかもしれない。それでも、動けばプラスにはなる。何も動かずに後悔するよりはマシである。問題は、それを続けられるかどうかである。もし、何かしら目標を期限付きで設けていたとしたら、何もアクションを起こさなかった場合は次の日以降に負担をかける事となる。もし、期限が2日だとしたら、初日にサボれば2日目に2倍の量を終わらせなければならない。そうなった場合、そりゃもう憂鬱だ。続けたくなくなるだろう。まぁ、たとえ初日にある程度終わらせたとしても、それはあくまでも「計画通り」であって大した事ではないと思ってしまうだろう。人が変わる時ってのは、何かしら感動や衝撃があった場合に限る。その切っ掛けも、やはり動かなければ出会えない。サボるのは簡単、いつでも出来る。その場で必要と感じる物事を終わらせるのは、その場限りにチャンスがある。必要と感じた時にすぐ動けるか?それが、自分の将来に大きく影響を与える。【2018.12.17】一言「疲れ」と言っても、その疲れが取れる事などあるのだろうか?「疲れ」と言っても、それはその人の捉え方次第なのではないかと思う時がある。じっとしてても埒が明かない。休んでても時間が過ぎるだけ。完全回復を期待しても無意味。気が済むまで休もうとしていたら、ずっと休む事となる。休むにしても、時間は決めるべき。【2018.12.18】向き不向きは思い込み。苦手意識は歩みを止める。たとえ不向きと思っていても、それに対して敢えて踏み込む意気込みは必要。人間、やれば出来る。やってみたら案外出来る事が多い。苦手意識が歩みを止めるのだ。0(ゼロ)と1は大違い。1は偉大だ、本人にとって。1を積み重ねる習慣さえ身に付けば、成長は普遍的なモノと認識していけるようになる。【2018.12.22】日進月歩。自分事に興味を持つ。日々の積み重ねが将来を形作る。日々怠けていれば、それ相応の未来を迎える。何も成長しなければ、歳を重ねる毎に社会から取り残される。世間は冷たい。誰もが自分や自分達の事で精一杯。赤の他人に構う訳がない、利益が生じない限りは。だからこそ、自分の事は自分で処理すべし。自分事を処理する習慣は日々培っていくべし。自分事にもっと興味をもとう。今の生活がどの様に成り立っているのか、最低限知っておくべきだ。案外、今の生活が成り立っている仕組みを完全に把握している人は少ないのではないか?全てを知るとなると、きめ細かく幅広く知識が無ければ把握出来ないだろう。何となく生活が成り立っている状態は不安だ。その生活が瓦解したとき、その後生きていくのに苦労するだろう。楽するには知る事だ。知識を増やして理解するのだ。理解力を高める為には、やはり勉強する習慣を身に付けるべきだ。ほら、荀子も言っているじゃないか、「学ぶ者は人間であり、学ばぬ者は禽獣である」と。勉強や学習は、何も机に突っ伏して書き事をする行為だけを指している訳では無い。自身で経験した事を振り返って次に生かすのも立派な勉強である。勉強の積み重ねが、自分自身の武器となって楽に生きる為の糧になる。積み重ねないから、何も理解出来ずにずっと路頭に迷うのだ。そうなるのも、やはり自分事に興味を持たないからである。もっと自分自身に興味を持って良いのではないか?もっと自分の人生に気を配っても良いのではないか?楽観的に環境に甘え続けていけば、その環境と共依存の関係に相成る。共依存は楽な関係だ。だが、個人にとってはその環境に適応するよう強いられ、自主性や自由を自分の手で無くしてしまうのだ。自主性のある自由な日々は、苦しくても楽しいそうだ。自由も自主性も無い日々は退屈だ。やがて苦痛を感じて逃げ出したくなるだろう。…まぁ、自主性のある自由な生活にも困難や苦しみはある。だが、一つ一つを積み重ねれば、やがて自分にとって大きな財産を築けるだろう。経験・知識・ノウハウは自分にとってのデカイ財産だ。とにかく、いま出来る事は今しか経験出来ないんだ。一つ一つを丁寧に完璧を目指して済ませ続けていけば、自ずと境遇にも変化が生じてくる…と信じたい。【2018.12.22】準備で決まる。さて、全力で日々を生きると決意したとしよう。だとしてもだ、何の道標も無しに全力前進しようとしても徒労に終わるだけだ。全力前進する為にも、先ずは進むべき道を明らかにする。何がしたいのか?それが分かるだけで自ずと意欲が掻き立てられていく。不安や迷いが無ければ処理も早くなる。決断や行動が早ければ短い時間で多くのタスクを処理出来る。指針は重要。目指すゴールがあって初めて前に進める。計画や準備に時間をかける必要は無い。ただ、自分が次に動ける状態を作り上げておくのが大事。納得するまで、計画を練り上げ、準備を磐石にしよう。《向き合うチカラ ~見返りを得るのみ~》 奥山典昭氏の著書「採るべき人、採ってはいけない人」を読むと、読めば読むほど耳と心がイタくなってしまうO・D・Oです(/o\) 本のタイトル通り、企業の採用活動を手助けしていく中で、著者の奥山氏が気付いた事や発見などについて書かれています。 様々な事が書かれていますが、今回はその中でも気になった「対象に向き合う力」について僕なりに書いてみようと思います👇【『対象に向き合う力』とは?】「目の前の事象や相手に"心"を向けているか」 対象に向き合う力について説明するなら👆の様になるかと思います。相手や事象について気を配っているのか?気を遣っているのか?言葉にするのが難しいですが、だいたいこんな感じです。 対象に"純粋に"向き合っていれば、様々な事に気付いて考え、もし問題があるなら解決に向けて動き出せます。【大半の人が"自分の殻"に引きこもる】 ただ、人間基本は我が身が一番かわいいです。もし何か問題が発生したとしても、メンドー事を避けて楽をしようとします。ですので、見て見ぬふりをしたり巧く逃げようとします。 問題であるのにも関わらず放置しがちになるのは、対象に向き合うのがメンドーなので自分の殻に籠(こも)り、自分で線引きをして無視するからなのだと思われます。【頑張り続ける難しさ】 某少年雑誌では、漫画を通じて頑張る大切さや目標に向けて努力する美徳を伝えようとしています。 ただ実際、努力し続けるには何かしら動機がなければなりません。目的や目標も無く頑張っている"振り"をしてもムダに疲弊してしまうだけです。 ヒトの言動には何かしらの動機が潜んでいます。そして、自身の欲求と周囲の要望が合致した時、初めて「対象に向き合う」事が可能になってくるのだと考えられます。【「頑張っても報われない」】「どんなにガンバってもなぁ、報われないんだよ」 少し話が逸れますが、👆のコトバは僕の身近にいるデキる人が放ちました。 その人は普段、頑張る事が大切だと説き続けています。しかし突如、何か意図を含めて言ってきたのでよく覚えています。 この言葉の意味は何なのだろう?気になったので納得するまで考えた結果、恐らくはこういう意味を込めているのではないかと思うのです↓「頑張るってのは、結局は自己満足に過ぎないんだよ」【自己中心的な努力は認められるのか】「頑張る事自体は自己満足」 何故ヒトは頑張るのか?それは、その人なりに目標や目的があるからです。目標や目的を設けるのも、その人自身に何かしらの欲求があるからです。 ただ、「対象に向き合う」事が出来ていなければ、その努力自体が"自己満足"ならぬ『自己だけ満足』で終わってしまいます。周囲の要望を理解出来ずに右往左往するだけです。【要望に応えて"見返り"を得る】 頑張っても報われない、努力しても認められないのは、その"過程"に満足してしまってゴールや結果から逸れた道のりを歩んでいるから、とも言えます。 しかし、もし「対象に向き合って」いれば、周囲の要望や意見に耳を貸し、それに応える為に考え行動していきます。 そして、結果として周囲の要望に応える事が出来たのであれば、応えただけの"見返り"を受け取る様になっていきます。 努力した人が報われるのでは無いのです。 要望に応えた者だけが『見返り』を得るのです。【自己満足は"良い事"】 ただ、自己満足は決して悪い事では無く、寧(むし)ろ良い事だと思っています。自己満足の為の行動が結果として周りに喜ばれるのであれば尚(なお)良いです。 問題は、独り善がりの『自己だけ満足』の行動で迷惑をかける事です。それさえなければ、自己満足を追い求めても宜しいと思います。自己満足自体は悪い事ではありません。その上で、対象に向き合うチカラを身に付けていければ良いと思います。…ということで今回は、対象に向き合う力をテーマにして思い付くままザーっと書いてみました。 この『対象に向き合う力』、意識していないとなかなか習慣化されていかないです。ポケーっとしていると知らぬ間に独り善がりの言動をしてしまう事が多々増えてきます。 ただ、一度その"対象に向き合った感覚"を理解すれば少しずつ習慣化されていくと思います。めげずに頑張っていきたいです( ゚Д゚)ゞ《蟠りをブチ壊す ~モチベーションの高め方~》特技は「空気をブチ壊すこと」と自負しているO・D・Oです(^o^;)。…ま、単にぶっ壊すのでは無く、あくまでも「悪い雰囲気をぶっ壊す」という意味で捉えて頂けたらと思いますσ(^_^;)。 この"悪い雰囲気を作り直す"方法としては、主に以下の3点を意識すれば宜しいでしょう👇【約束厳守。文句言わせない状況作る】…人間社会で一番大事なのは「約束を守る」事です。約束を破れば信用されません。『信用』こそが、社会で大切なステータスになります。信用を築き上げるには、確(しっか)り約束を守り続ける事です。 言葉にするは容易(たやす)いですが、それを実際に続けるのは結構しんどいです( ;`Д´)。中には無理難題を押し付けてくる場合もあるでしょう。然(しか)し、それでも、持てる力(チカラ)とブキを駆使して、その約束達成に近付ける努力が必要です。 約束を守れば、誰も文句は言えません。相手を黙らせれば、漸(ようや)く此方(コチラ)の主張や意見を聞き入れてくれます。何故なら、約束を守る者は「信用に足る」人物だからです。【怒りを笑いに変える工夫】…本気で真剣に業務に取り組んでいると、どうしても苛立ちが発生します。自由が奪われるからです。ただ、その苛立ちを表に出せば、周囲の生産性を著しく落とします。とある研究所によると、雰囲気の悪さにより業務効率は何と『3割』も落ちるそうです。 その苛立ちをどう処理すれば良いか?それは「如何にその苛立ちを"笑い"に変えるか」だと思います。苛立ちの原因は、恐らくお笑い芸人にとっては『ネタ』になります。別に、お笑い芸人だけがネタにする訳ではありません。私達でもネタに出来るのですよ。その"苛立ちの原因"をネタとして、休み時間等で気兼ね無く話せる仲間に話しちゃいましょう。もし、気兼ね無く話せる仲間が居ない場合は、わたくしO・D・Oのようにblog等に書いて発散させちゃいましょう(ただ、機密情報や個人情報の漏洩(ロウエイ)には十分注意して下さい!!!)【執拗く拘りを持ち、継続させる】…モチベーションが高い状態で働くにはどうするか?『承認欲求』を満たす満たさせる事だと思います。人は、誰かに認められたいのです。だからこそ、その拘(こだわ)りを認める事が大切です。それは「自他問わず」にです。 "これがやりたい!"それが一番やる気が上がります。僕もそうです(・`ω´・ )。そして、「やりたい!」と思った事を具現化させ完遂させるのです。一つずつ、完遂させるのです。あれもこれも手を出してはいけません。『必ず一つずつ』終わらせるのです。それにより、思っている以上に様々な事を成し遂げる事が出来るのです。 執拗(しつこ)く拘(こだわ)りを持って一つずつ"理想"を『現実』にする。それにより皆に利益をもたらす。こうやって実績を積み重ねる事により、社会的信頼を勝ち取る事が出来るのです。…以上、組織内の蟠(わだかま)りを掻き消し、皆のモチベーションを高めて利益を上げる術(すべ)について書き連ねていきました。 最後に、『仕事』と『労働』は別物だと考えています。労働とは、自由を奪われ言われた事だけ淡々と処理するイメージです。仕事とは、自由に動いて組織に最大限の利益をもたらす行為を指します。前者と後者、どちらの方が魅力的ですか? 今後、人生100年と呼ばれる時代がやってきます。とてもとても長い道程(みちのり)です。その生涯を如何に過ごすか?それは各々の自由です。どのような道が自分に適しているのか?それを考えながら、日々の生活を歩んでいきたいですね(^^)d《メンタルブレイクにご注意を!》 直接どストレートに相手に注意し、相手の非を責め立てる、これを僕は『メンタルブレイク』と呼んでます。今の時代、このメンタルブレイクをブチかますと、いとも容易く《パワハラ》認定されて世間から大非難を浴びせられますよ。 勿論、その"指摘した人"には指摘した人なりの《正義》があるのです。哲学があるのです。考えや信念があるのです。でも、パワハラはパワハラです。それ以上でもそれ以下でもありません。威圧したり暴言吐いたら、それだけでパワハラですよ。思想や目的じゃない、問題は"行為"なのですよ。 相手に対してアクションした《行為》によって、人は良し悪しを判断するのですよ。たとえ、正しい信念を持ってアクションを起こしても、その《やり方》に問題があれば、それは立派な{悪}なのです。正しい考え持ってるのに、正しく無いアクション起こして悪者呼ばわりされるの、嫌でしょぅ。だったら、もうちょい《伝え方》にも気を配りましょうよ。伝え方や接し方によって、相手の反応や捉え方も大きく変わるのですよ。もし、どう伝えたら良いか分からないのであれば、是非ともこの"OGAわあるど"の他の記事も参考にしてみて下さい。▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽《伝え方や接し方等の記事一覧》【伝え方】⚫韓非子の『説難』:平成27年4月19日の投稿・意見言う時、身の程知った上で、 タイミングや表現方法に気を配って、 コチラの意見を発言する方法⚫言葉の薬と毒:平成27年6月11日・言葉は扱い方次第。使い方によっては、 人を励ます"薬"になり、人を傷付ける"毒"にもなる⚫荀子の『正名』:平成27年6月15日・言葉を"正しく"『慎重に』扱う重要性⚫此方の主張を伝える術:平成27年9月25日・漫画『HELLSING』少佐の演説解説⚫デカい声:平成29年4月28日・声デカい人が、場の雰囲気を支配する⚫伝えなければ伝わらない:平成29年5月16日・他人は、思っている以上に無関心なのだよ(¬_¬)⚫義を市えり(`・ω・´)ゞ:平成29年6月24日・先々を考えて、冷静に状況判断した結果⚫直ぐ対応:平成30年3月13日・「やったか!?」「やってないです(゚Д゚)」 「バーカ!(#゚Д゚)」「(;゚∇゚)」 「判った俺やる」「スミマセーン(゚Д゚)」⚫しつこく説き続ける:平成30年3月18日・何度も何度も何度も言い続ければ、『風土』となり『習慣』として広まる【接し方】⚫挨拶の有無:平成27年4月29日・挨拶すれば雰囲気が劇的に良くなるよ(¬∀¬)⚫蟠りや疑心暗鬼:平成27年6月14日・蟠(わだかま)り&疑心暗鬼が判断を迷わす⚫相談を受ける姿勢:平成27年9月29日・教えていく事も大切な事だが、 上手く相談に乗る事も大事である⚫"お前は何者?"状態を打開する:平成29年4月16日・名も顔も分からぬ初対面者への対応法【コチラの姿勢や立ち振舞い】⚫強かな柔軟性:平成27年7月4日・柔軟に人や物事に対応し、しぶとく完遂させる⚫時宜を得た立ち振舞いや言動:平成27年9月13日・表現の仕方によって聞く印象も大分変わる⚫聖人の残りカス:平成28年10月12日・本読むだけダメ!伝えるのは大変なんだぞ(#゚Д゚)ノ⚫揚げ足は無限大:平成29年5月18日・揚げ足ばっか取っても大したメリット生まれない⚫批判大歓迎:平成29年6月30日・言いたい放題言わせて、一つ一つ課題クリア⚫本音言い合える仲になる:平成30年3月3日・皆と腹割って話す為の手法や考え方⚫ルール守る習慣:平成30年3月7日・皆に言う前に《自分》が守ろう【考え方】⚫互為論➡️平成27年5月27日より連載投稿・お"互"いの"為"になるにはどうするか"論"⚫遂事は咎めず:平成27年7月3日・過ぎた事を責めても過去は変わらん( ̄^ ̄)⚫墨子のアドバイス一覧:平成27年8月2日・期待や見込み&建築と同じ原理 &言行一致!&ムリなら立ち去る⚫喜怒哀楽の制御や発現:平成27年8月28日・「中は天下の大本なり。和は天下の達道なり」⚫面倒とは何か?:平成29年4月1日・日々の言動が、周囲の環境や雰囲気を作っている。 適切な解釈や対応をおこなって、 居心地の良い雰囲気や環境作る⚫魯連の諫言:平成29年6月11日・安易に人を見棄てるのではなく、 その特性活かせるか見極めるべし【捉え方】⚫視・観・察:平成27年7月18日・人を見破る/見抜く『観察方法』⚫皆の良い所取り:平成29年4月24日・悪い所ばっか見てないで、良い所見抜け!⚫物事の良し悪し:平成29年5月3日・結局人は、自分の都合で善悪を決める⚫何を悪と捉えるか:平成29年6月20日・無知・愚か・未熟について考える⚫愉しく反省:平成30年2月14日・なに悩んでんだ( ・д・)。前向きにいこう(^^)d【自分自身に対して言い聞かす】⚫頑張り続ける大変さ:平成30年2月21日・本気出すと感情露になって制御ムズい(^^;⚫あいつは話を聞かないからな:平成30年2月23日・注意する前に、コチラが話を聞いてるか?⚫怒りを活用:平成30年2月25日・『怒り』が爆発的な行動力を生み出す▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲…『手段』を挙げるとキリが無いです。まぁ、👆の中から気になったタイトルの記事だけ読んでみるのが宜しいと思います。是非、参考にしてみて下さい。 以上、今まで自分がパワハラ認定された事は無いのですが、過去に何故だか「パワハラを受けた被害者」として、他の人から人事の相談窓口に報告された経験があるO・D・Oからでした。いやぁ、可笑しいのですよ。だいぶ昔の話ですが、僕と"当時の上司"との普通の会話が、何故だか「ODOが上司から暴言を受けている」と、誰だか知りませんが社内の相談窓口に言っちゃったらしいのですよ。それ以降、当時の上司と「言いたい放題、話したい放題」が出来なくなっちゃったのですよ。腹を割って話しにくくなっちゃったのです。勿論、周りの人からしたら、そんな会話は聞きたくなかったのかもしれません。周りの人からしたら「軽い近所迷惑」だったのかもしれません(ーー;。ま、それ以降は、話す場所に応じて『話し方』に気を配ってますよ。しかし、全くもって肩身が狭かったですよ、当時は。ま、もう済んだ話なんですけどね。《即時発散! ~喜怒哀楽それぞれ解消案~》おはようございます。江口夏実著作『鬼灯の冷徹』に出てくる"鬼灯"のように、ストレスを感じたら即時発散できる工夫をしたいなぁと考えているO・D・Oです( ´△`)。"ストレス"とは何か?『内に抱えた、外に直(す)ぐには出せない感情』を指すと考えています。もっとざっくり言えば、「♪言いたいことも言えないこんな世の中じゃ~」POISON状態とも呼べます。感情が生じたら、その場の状況に合わせて然(さ)り気無く解消するのがよろしい。感情とは、主に喜怒哀楽で言い表せます。喜怒哀楽別のストレス解消法は以下の通りです👇【"喜び"の解消】喜びを心置き無く発散すれば、自信に繋がります。もし、喜びを阻害されれば自信を失います。自信を失えば自立が難しくなって誰かに依存していく事となります。依存心は成長や自立を阻害する要因となります。喜びを巧く発散するには、図に乗って自慢して発散するのでは無く、その勢いに乗じて『次の目標設定』で高みを目指すが宜しい。堂々とした目標設定により方向性が定まり、日々の生活をより良くする為のモチベーションとなります。【"怒り"の解消】 怒りは『真面目欲』とも呼べます。もし、怒りを阻害されれば意欲を削がれます。意欲を削がれれば諦め癖が付いて物事を継続させるのが困難になります。諦め癖は悪習慣の源です。怒りは、当たり散らすのではなく『問題への対策』に注力すると善いでしょう。問題への対策によって、今すぐでは無くとも取り組みにより徐々に事がスムーズに運ぶようになります。【"哀しみ"の解消】 哀しみの感情は"現実(いま)に真剣に向き合う"源(ミナモト)となります。哀しみを阻害されれば心が折れ、心が折れれば無気力になって周りに無関心となり、無関心は疎外感を生み出して自暴自棄に陥らせます。哀しみは、愚痴ではなく『分析と活用方法』を生み出す材料として使いましょう。分析して活用方法が思い付けば、取り組みにより悩みや迷いが無くなって純粋に現実(いま)に挑む事が出来るようになります。【"楽しみ"の解消】 極論、人は"楽しみ"の為に生きています。楽しみを阻害されれば反抗的になっちまいます。反抗的になれば誰からの指図も受け付けなくなり、自分勝手になっていきます。自分勝手は破滅と孤立の原因です。楽しみを解消するには、自分本意になるのでは無く、誰にも邪魔されない『環境&状況の形成』に取り組むが宜しいです。環境と状況が整っていれば、無駄に手を加えたり下したりせずに済み、結果として楽(ラク)に余裕綽々で事が進めるようになっていけるのです。 …感情は、エネルギッシュな行動の源です。その時々の感情の発散により、快(こころよ)く人は成長して自立していけます。この考えを実践し、もし論理が間違ってなさそうであれば、他の人にも広め、皆で成長自立を目指していければと思います。まずは己(おのれ)の感情を知る事、次に感情の制御と発散方法の発案、そしてストレス発散案の実験、もし問題なければ習慣化ですね。以上、鬼灯のように適切にストレス発散をしつつ任務の遂行も着実に行いたいと願ったO・D・Oからでした。《思い至ったら先ず行動! ~動機に拘り不要~》漫画"SLAM DUNK"に出てくる桜木花道のように、最初の目的と最終的な目的が途中で変わるのもアリだなと思っている。桜木花道がバスケを始めた目的は「赤木晴子に気に入られるため」でした(^_^;)。この目的は、結局は最後まで持ち続ける事となりました(^o^;)。しかし、選手としての実力が身に付いていく内に、いつしか「皆の期待に応えるため」に勝利を目指していきました。あれだけ応援してくれる人がいたら、そりゃあ頑張らなければなりませんね。この考え、Kobe Bryant元選手に通じる所があります。皆の期待に応える為に結果を出す。勝つ。勝利を掴み取る。この競争心、正直羨ましいですね。どちらかと言えば「ことなかれ主義」な僕ですが、こんなにまで拘(こだわ)り持って勝利を目指していけるのでしょうか。まぁ、人は変わるモノ。目的を持って目標に突き進めば、いつの間にか心象に変化が生じているのですよ。そして、その変化の切っ掛けは何でも良いのですよ。例えば「アイツ、メッチャむかつく(#゚Д゚)」。怒りでも良いんです。案外、怒りが爆発的な行動を引き起こす事は多いんです( ゚A゚ )。怒りの感情は利用すべきです。他にも、好きな人に振り向いてもらう為でも良いです、桜木花道のように。何でも良いんですよ、始める動機は。動機に拘(こだわ)り過ぎて何もしない奴より数段マシですよ。先ず行動、コレ大事!動機に拘(こだわ)りは不要です。思い至ったら、先ず何かしらアクションを起こしましょうよ。目標を打ち立てるのも良し!計画を立てるも良し!整理整頓清潔清掃を始めるも良し!何でも良いんです。何か行動しましょうよ。考えるのは、動きながらでも出来るのですよ。ここでこんなblog読んでないで、何か「やりたい事」があるなら、サクッと動いて下さいッ!。以上、思い至って行動した方が様々な発見に出会える事を漸(ようや)く理解し始めたO・D・Oからでした(^.^)。そして行動した結果、具体的に「やりたい事」が分かってきたら、先ずは"具体的な目標と計画"を立てましょう。ゴールはどこか?どの様な道のりを進むのか?それらを具体的に詳細に決めるのです。何事も『段取り八割』です。目標値と計画次第で、その後の運命も決まるといっても過言ではないでしょう。思い至ったら先ず行動、そして目標設定と計画。これを習慣付けたいですね。《下っ端の役割 ~頑張って成果挙げる~》下っ端(シタッパ)の役割は「頑張って成果を挙げる」事だと思っている。それは何故か?2つあります。一つは「固定概念が無いから」。もう一つは「組織の活性化の為」。以下、それぞれ解説していきます。▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽【固定概念や思い込みが皆無の強み】…人は日々、同じ様な事を繰り返していると、"慣れ"が生じて視野が狭まります。これを『思い込み』もしくは『固定概念』と呼びます。思い込みや固定概念は、業務を円滑にする上で欠かせません。「これはこうだ!」と決め付けておけば、どう処理すべきか直(す)ぐに判別してアクションを直(ただ)ちに起こせます。思い込みや固定概念により、無駄に考えず、迅速な対応や行動が出来るのです。しかし、固定概念にも欠点があります。思い込む事により、違う観点から対象を見れなくなってくるのです。考えが"硬直化"しちゃうのです。すると、そこで発展は止まり、気付かぬ内に無駄な事をずーっと繰り返したりしちゃうのです。そこで、定期的に『新人』を加える事により、先輩達に新人教育させながら「業務の振り返り」をさせる事が出来るのです。また、もしその新人が知識やノウハウが豊富で"勇気"ある者だった場合は、質問を先輩にぶつけて気付きを与える事もあるのです。新人は仕組みを全く知りません。だからこそ、固定概念に縛られた先輩方が気付かない無駄に「気付く」場合が多いのです。ここで大事なのは、先輩方は「話を聞く姿勢」で新人教育に臨むこと、だと思います。もし、聞き易い、話し易い先輩だったとしたら、その先輩に質問と情報と人望が集まるのですよ。逆に、固定概念に縛られて頑固になって押し付けてくる輩(やから)に対し、本音で語ってくる勇敢な新人なんて、滅多に存在しないのです。【組織の活性化】…もし、新人が全社員の中でトップの成果を挙げたら、貴方はどう思いますか?「他の奴らは何をしてたんだァ!( `Д´)/」僕ならそう思います。こうやって、組織は活性化するのです。適度な競争、ライバル心。これが、組織を相当活発化させる源(みなもと)になる。まず、会社にしがみつく『ぶら下がり社員』に火がつけます。新人がトップの成果を挙げた場合、奴等には2つの選択肢があり、選択を迫られていきます。"やる"or立ち去る。だいたい、どっちかです。"やる"のであれば、頑張れ!新人に負けんな!と声援を送りたいです。もし、立ち去るのであれば、恐らく後悔します。何故なら、通用しないからです。"ぬるま湯"であれば通用しますが、それ以上は無いですよ。上を目指すなら、這い上がるか、受け入れるしかないのですよ。まぁ、個人の選択に深くは口出ししませんが。△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△【下っ端の役割】…ここまでザーッと「固定概念の無い強み」と「組織の活性化」について書いていきました。なので、新人こそ『頑張って成果を挙げる』心構えが必要です。まぁ、別に人それぞれなので押し付けるつもりはありません。ただ、"ぶら下がり目的"では、始めの1年か2年は問題無いです。しかし、3年目以降に不安になりますよ。「このままで良いのか?」自問自答し始めますよ。ぶら下がり目的だと何時か『嫌に』なりますよ。これは、僕の経験論ですよ。逆に、入った当初から既に「これやりてー」と目的や欲望があるなら、その実現に向けて皆を巻き込んじゃえば良い。大丈夫。人を見抜いて説得すれば協力者が現れますよ。…以上、ここまで『新人の役割』について書いていきました。一般的に企業は"資本(カネ)"という、人体で譬(たと)えるなら"血"が無ければ死んじゃうのですよ。法人(企業)を生き長らえさせるには、健全な血を常々(つねづね)補充し、循環させなければならないのですよ。そして、私達"労働者(社員)"は、法人から『血の代償』を受け取って日々の生活の糧にしているのですよ。このことを"知っている"が『理解している』人って案外少ないのですよ、僕も含めて。頑張って成果を挙げて、理解した『証明』をしたいですね。《執拗く説く ~徹底する姿勢~》 昔、お世話になった人から「お前の唯一の長所は"執拗(しつこ)さ"なんだよ」と言われた事がある。しつこいのが長所?ま、確かに僕は「言われたこと、方針として定めた事を徹底的にやろう」とは思ってますよ。そして自分自身でやってみて、出来そうなら皆にもやってもらうように伝え続けましたよ。それが仕事ですし役割だと思ったので。まずは自分でやってみて、次に周りの人にもやってもらい、それが"当たり前"の雰囲気を作り出すのって、組織が統制的に機能する為に必要だ。人は「習慣の奴隷」と言われています。人間は一日を約8割型"無意識"に生きてます。その"無意識状態"の時は、今までの習慣にしがみついて楽(ラク)に過ごします。なので、もし今までの習慣を覆す様な変化が起きた時、大抵の人は嫌がるのですよ。何故なら、今までの習慣にしがみついて楽(ラク)出来なくなりますから。何かを一(イチ)から覚えるのは大変なんすよ。それを習慣化するのも大変なんすよ。今までの習慣にしがみつきたいんですよ。それでも、もし変化を求められたら、それに適応するしかないんですよ。面倒臭いのですよ。それでも、やるしかないんですよ(#゚Д゚)ノ。そんな時、僕の場合は、ジョジョ5部に出てくる『ディアボロ』の初顔出しシーンにある「人の成長は、未熟な過去に打ち勝つことだな」という台詞を思い浮かべます。今後、何か変化を起こすのであれば、過去の習慣に屈せずに諦めずに打ち勝つ覚悟が必要です。是非とも、未熟な過去に打ち勝って、更に成長していきたいですね。以上、テンションが高くなってくると漫画やゲームのキャラの名台詞をデカい声で真似したくなるO・D・Oからでした(^o^;。《お喋り欲求 ~一方通行な会話~》 周りの人が止めてくれないと何時までも一方的に話してしまう。まぁ、私のハンドルネーム『ODO』も「おい・黙れ・オレ」の意味合いで付けているので、このblogである程度ストレス発散出来ているとは思っています。ただ、やっぱり喋りたいです。古典の荀子で「ダメな奴は直(す)ぐ喋って思想を吐き出す」とかと書かれていても、やっぱり喋りたいです。だからこそ、ときどき顔見知りを呼んで、飯行ってガーッと喋っちゃいます。相手に話す隙を与えず、聞き手に専念せざるを得ないまでに、一方的にずっと話しちゃいます。僕はこの状態を『アクセラレーター』と呼んでいます。そう、会話が一方通行なのです。ただ、やはり時々言いたい放題どうしても喋りたいのです。こればかりは、どうしようもないです。ズーッと喋りたいのです。むかしNBAで活躍したレジェンドのGary Payton選手やSam Cassell選手のように、ズーッと喋り続け、周りを此方(こちら)のペースに巻き込みたいのです。ただ、こんな僕でも相手は選びます。思想が空っぽだったり、誤魔化して生きている人に対しては、此方(こちら)のペースに巻き込み、此方(こちら)の狙い通りに動かす事は可能です。しかし、自信や信念や自立が出来ている人に対しては通じません。一方通行は通じません。自立した相手とだけは、漸(ようや)く『対話』が出来ます。同じ目線で、遠慮なく意見を浴びせられます。正直、相手を此方のペースに巻き込む"アクセラレーター"よりも、同じ目線で意見をぶつけ合える『対話』の方が断然愉しいです。『アクセラレーター』は孤独です。しかし、"対話"だと相手がいます。だからこそ愉しいのです。こんな面倒臭い奴の相手が務まる人は今後、現れてくるのか?首を長くして気長に待っておこう。《直(す)ぐ応対! ~迅速な受け答え~》以前働いていた現場で以下の様な会話をしていた。▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼現場長「ODO、これやったか!?( ゚Д゚)」 ODO「スンマセン、やってないです!(゚Д゚)」現場長「バーカ!(# ゚Д゚)」 ODO「(;゚∇゚)」現場長「分かった!俺やっとく!( ゚Д゚)」 ODO「…スンマセーン!(゚Д゚)」▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ この間、僅か八秒!お互いに今の状況を直(す)ぐに把握し、やるべき事を素早く見出だしています。こういった素早い報連相、状況確認により、業務を円滑にスムーズに回せています。しかし、何故こういった素早い報連相が可能だったのでしょうか?それは、あらかじめ相手が僕に対して言っていた事があったからです⤵️▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼「やってないなら"やってない"ってすぐ返事しろ」「失敗してもいい。"ごめんなさい"で良いんだよ」▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ これも「遂事は咎(とが)めず」の考え方だと思われます。過ぎ去った事をグチグチ言ってもしゃーないです。ならば、先ずは"今"対応し、反省や対策は『後回し』で宜しいと思います。勿論(もちろん)、何度も何度も同じ失敗を繰り返すのは宜しくありません。失敗したなら、失敗しない対策を確(しっか)り行いましょう。ただ、それをするのは『やるべき事をやった後』です。それを忘れないで下さい。素早い報連相や素早い対応は、業務を円滑にし、現場に活気を与えます。メリハリある職場は成果を上げつつ雰囲気も良い場合が多い。迅速な受け答えによって、業務をスムーズに出来る様お互いに頑張っていきましょう。以上、もし相手に言われた事が理解出来ていないと『( ・◇・)?』という顔をして相手を苛立たせる事が多いO・D・Oからでした(^o^;)。《相手を黙らせる意気込み ~上下関係無し~》 今までの社会人生活の中で、縁あって革新的な人に出会う事が多い。大抵、革新的な人は、面倒見が良い反面、トップに就く人にかみついたりします。勿論、そこには確固たる意志があり、意図を以(もっ)て交渉するのです。決して、自分勝手な我儘(ワガママ)な要望を出しません。全体が、お互いがより良くなる為に提案をするのです。それでも、革新的な人は身の程を弁(わきま)えています。相手の立場も尊重して言える事だけ言います。まぁ、基本的には「上司に従う」のが当然なのですが。そして、革新的な人は「相手を黙らせる為に義務を果たす」意志が強いです。期限や約束を確(しっか)り守り、その上で"報告"をするのです。基本的には方針に従います。たとえ、訳の分からない指示や始めから上手くいかない事が分かるような指示にも対応します。その上で提言してくるのですから、その上司にとっては面倒な存在である事は確かです。しかし、それでも全体やお互いに良くしていくために諫言するのですから、その上司はそれを甘んじて受け入れる寛大さがあった方が良いですね。上司の役割は"方針を打ち立てる"こと。部下の役割は"方針に則って期限を守って完遂させる"ことだと思っています。ですので、部下の立場であれば「相手を黙らせる」つもりで業務に励むのが宜しい。《変革を引き起こす ~方針掲げ意図込める~》 一つの集団や組織に所属していると、その場に「適応する」か「立ち去る」かに大まかに分かれてくると思います。しかし、第三の選択肢として「自分でどうにかする」方法もあると思います。その方法の一つとして、此方(コチラ)も以前に投稿した『空気をブチ壊す存在の必要性』で書いていきました。そう、自分でどうにかするには「空気を読んだ上でブッ壊し、新たに空気を作り直す」のです。嫌な空気をブチ壊すには、冷静に状況を見定める観察力と、実際に行動に移す勇気が必要です。あとは、自分の感情を確(しっか)りコントロールするのも肝心です。空気を読まずに単にブッ壊すだけでは「自分勝手な自己だけ満足な行為」で終わっちゃいます。運が良ければ結果として好転する場合もありますが、大抵は大半の人を敵に回して居づらくなるだけです。(ま、空気を読まない人は例え大半の人を敵に回したとしても図太さ故に歯牙にもかけないと思いますが(^o^;))。空気を変えていくには『観察力』『勇気』『感情制御』の3つが必要です。それらに加えて『確信』もあれば動けます。"こうすると上手くいく"という確信があれば堂々と行動出来ます。「変革を起こすのは、慎重でなければならない」 古典では👆の旨の内容をよく見掛けます。何か方針を掲げると、それを軌道修正するのが大変で困難だからです。そう、空気を変えるのは「方針の切り替え」をも意味するのです。集団は、方針があって初めて"組織"として機能するのです。空気を作り直す、方針を切り替えるのは、独り善がりでは迷惑です。様々な観点から、総合的にはプラスになるように設定すべきです。そんな意図を持って行動をしていけば、恐れるモノなど無いのです。じっくり考察してから確信を得てから堂々と行動する。そんな意識を心に秘めて日々を暮らせたら良い。《"ルールを守る"習慣を身に付ける》 身近にいる人が放った「社会は"約束"によって成り立っているんだ」という言葉に納得している。社会とは何なのか?多種多様な人間が関わり合う世界、とでも言いましょうか。そこには、様々な欲求や考え方や哲学があります。しかし、各々が自分勝手に動いてしまうと、北斗の拳のように秩序が乱れてしまいます。そこで、各々が暴走し過ぎないよう『法』によって統治していきます。それは、カンピさんも説いています。法(ルール)を守るのは"保護"の為です。しかし、保護されている事に気付かない世間知らずにより、ルールを蔑(ないがし)ろにする人をよく見掛けます。そして、その世間知らずにより少しずつ環境に歪(ひず)みが生じ、ルールは無視され、少しずつ雰囲気が悪くなっていくのです。ルールをブチ壊す事は、自分の居場所をブチ壊すのと同義と言えるでしょう。まぁ、"自立"出来ている人にとっては気にならない問題ですが。ただ、自立できている人は身の程を弁(わきま)えていますので、度が過ぎる事はしないでしょう。大抵、大それた問題を引き起こすのは、『自立出来ていない未熟な世間知らず』である事が多いです。何故ルールがあるのか?それを説明出来る人はどのくらいいるのでしょうか?もし、自分なりの"ルールの概念"をお持ちでしたら、是非ともコメント欄にお書き下さい。私も、ルールに対する認識はまだまだだと思っています。もし何かご意見がありましたら教えて頂ければと思います。以上、平気で自分達で決めたルールをブチ壊す人々が最近許せなくなってきたO・D・Oからでした(-""-;)。いやぁ、何だか全体的に堅苦しい文体になっちゃいましたね。ただ、意を正したいと思うとどうしても文体も整えたくなります(文体が整っているかどうかは、皆さんご自身のご判断に委ねます(^_^;))。まぁ、大事なのは「ルールを守る習慣を身に付ける」ことだと思います。習慣化すれば、それがクセになり正しくないと気分が悪くなってきます。その感覚を身に付ける為にも、少しずつ出来る所からやっていきたいですね。《本音言い合える仲の良さ ~共感得る嬉しさ~》 言いたい放題やりたい放題出来る環境って良いですね。少しでもおかしいと思えばすかさずツッコミが入る。ツッコミが言い合えると良い。そういった雰囲気が、全員が快く雰囲気に積極的に馴染もうとする、というより自ら雰囲気を作り出そうとする。そういった『参画』する姿勢が、自我を表に出す手助けになる。また、なかなか伝わりづらい事が伝わった時の嬉しさも格別だ。こちらの思いが伝わった時の嬉しさは言葉では簡単には言い表せれない悦びがある。趣味の合う人や気兼ね無く話せる相手は得難き者だ。これは個人的な考えだが、親しみが増せば増すほど接し方は雑になる。接し方が雑になってきたとすれば、それは相手が自分に対して蟠り無く本音で話せている状態とも言えるのではないか。仕事でもプライベートでも、蟠り無く本音で言い合える環境は好きだな。もちろん、人によって本音を言いたい言いたくないはある。無理に全てをさらけ出す必要はない。ただ、本音で話してくれる人の元には様々な話が振って来やすい。何故なら、本音で相談したくなる人柄だからだ。僕自身は未だその領域には達していない。どちらかと言えば慎重になり過ぎている節がある。根っこからのお調子者キャラは雰囲気そのものをブッ壊します。だからこそ、石橋を叩いて渡る、どころか「石橋を殴り付けて渡る」必要があるのかなと思っている。その雰囲気を維持するかブッ壊すか。維持するなら無難に合わせて基本は黙っている。もし、嫌な雰囲気で作り直す為にブッ壊す必要性を感じたならば、皆の要望を汲み取った上で何かしら手を打つ。その場の雰囲気は、その場にいる皆で作り上げ出来たモノ。もし、雰囲気が悪いとか感じる事があるのであれば、先ずは自分に原因が無いか内省し、その上で周りの人の協力を仰ぐのが宜しい。以上、お調子者キャラを封印していると、何故か吃(ども)ってしまって話が相手に伝わりにくくなるO・D・Oからでした(^o^;)。【《ひとりごと》】…これでおおよそ十万文字だ。試しに作ってみた。記事として読んだらどう見えるんだ、コレ。読んでも読んでも終わらない感覚になるんじゃないか。十万文字といったら、ほぼ小説1冊分だ。読み終わる前に挫折する人も多いんじゃないか。俺自身は大丈夫だ。何となく内容が分かっているから。パパッと読み終えられる。ま、このブログ自体は「誰かに読まれる」ために書いているわけじゃないんだな。俺自身の思考整理場なんだよ。そして、俺自身が読み直してマインドセットを整える場でもある。読む読まないは各々で決めればいい。気になったら読めばいい。興味無ければ無視すればいい。とてもシンプルだ。おっと、そろそろ十万文字を達成する。ここで微調整だ。十万文字の記事はこれからも投稿予定だ。気になったら読んでみてください。