69.影
「ぼく?」 勿論、ぼくがハルにミルクをいれたのは、今日が初めてだ。最初はハルの冗談かと思ったけれど、どうもそんな感じじゃない。ハルは、ぼくの問いかけに気付いているのかいないのか、手の中のカップを両手で包んで、独り言のように、言った。「うん、同じ。砂糖2つのミルクの味も、この、僕のカップも」 薄い青い色のカップ。それは、棚にいくつかあったうちの一つだ。どれにしようなんて、特別考える事もなく手に取ったものだけれど。でもそれを、「僕のカップ」ってハルは言った。「あの…ぼく、よく、わからないんだけど…」 手の中のカップに落とされていた、長い睫が2、3度しばたいた。そして、少しの沈黙の後。「…君が来る前にね、ここにいた人、その人もね、レンって名前だったんだ」 ぽつぽつと降る雨音のように、静かにハルが話し出す。「レンは……あぁ、僕よりずっとずっと年上だったから、普段は『お爺さん』って呼んでたけど…色んな事を良く知っていて、とても優しくて、それは素敵な人だったんだ。僕達はうんと歳は違っていたけれど、とてもいい友達だったんだよ。僕は良くここへ遊びに来ては、こうしてミルクを御馳走になってた。この青いカップでね」 その話に、ぼくはちょっとびっくりして…同時に背中がヒヤリとするような、嫌な感じがした。 この森にいた人が、ぼくと同じ名前だったなんて。「陽の森に来たばかりの頃は、僕は本当に何も知らなくて、お爺さんは、そんな僕をあちこちへ連れていってくれた。街の市場へも良く一緒に行ったんだ。このカップも、その時にお爺さんが僕のにしようって買ってくれたもの」 ぼくの知らない「レン」との事を話すハルは、とても楽しそうだ。ルースさんや、他の森の人たちの所へ行った話、魚釣りをした話、岬へピクニックに出かけた話。 それはハルが、ぼくと一緒にやろうねって言ってくれたものばかりで、そんな話を聞いているうちに、ぼくの中には何かもやもやしたものが溢れ出してきた。「楽しみだな、またレンと一緒に行けるの」 けれどそう言うハルの瞳に、今のぼくは映っていない。 苦しい。 何だかとても苦しい。それは、どんどん喉の方までせり上がって来る。 このままでは、言いたくもない言葉が口から出てしまいそうだ。(ぼくは「お爺さん」じゃないのに) たとえそれが、以前と同じでも、それはきっとたまたまの偶然で、ぼくが知ってる事じゃない。(君に薄い青のカップにミルクをいれたのも、砂糖を2つと思ったのも、お爺さんなんかじゃなくて、ぼくだ) ハルは、ぼくの最初で一番の友達だ。それを嬉しいと思っていたけれど、ハルは「レン」という名前の向こうに、お爺さんを見てたんだって事を、ぼくは知った。「そろそろぼく、仕事の続きをしなくっちゃ」 ぼくの知らないぼくとの話を、もうこれ以上は聞きたくはなかった。話の途中で急にそう言ったぼくを、ハルが訝しげに見た。その瞳が見返せなくて、ぼくはしゃがみ込んで器材を調整するふりをする。「本当にこれ、急ぎの仕事なんだ」 不自然な言い訳。出来るだけ普通にと答えたつもりの声は、誤魔化しようがないくらい震えてしまった。 ぼくの背中で、ハルは押し黙ったまま。 声をかける訳でもなく、帰るそぶりを見せるでもなく。その沈黙に、ぼくの心臓はどんどん大きな音をたてる。「ごめんね」 ふいに、ハルの静かな声が言った。「ごめんね、レン。君をお爺さんと…前のレンと、比べるつもりなんて、なかったんだ。君が友達になってくれて、本当に嬉しかった。でも、あんまり嬉しかったものだから、僕はお爺さんが居なくなった事すら忘れそうだった。 だから君の名前が同じだって知った時、僕は罪悪感で一杯になった。あんなに仲良かったのに、僕はなんでお爺さんの事をもっと哀しんであげられなかったんだろうって」 ハルの声が近い。多分、ぼくのすぐ後ろに立っている。「でも、何も知らない君は、きっと嫌な思いをしたね。同じ名前だって君の名前には違いはないのに、それを一緒に喜んであげられなかった。今日はそれを謝りに来たのに、僕ときたらお爺さんの話ばかりだ。ほんとに、ごめん」 ハルの声は少し潤んでいて、いつもの元気な声じゃない。 どうしよう。どうすればいいんだろう。ハルの顔が見られない。恐くて後ろを振り向けない。(気にしてないよ、ハル。大丈夫) そう言えたら。(ぼくこそ、ごめんね) そう言って笑えれば、きっとこの喉のつかえも取れるのに。 でも、ぼくは結局振り向けなかった。 暫くして、諦めたように靴音が、ぼくの背中から離れていった。 トントンとハルが階段を降りていく。コリィに声をかけ、ガサガサと壁にかけたレインコートに手を通し…軋んだ蝶番の音。 アトリエの重い扉がバタンと閉まると、ぼくはその場にへたり込んだ。 床に、手の上に、パタパタと雫が落ちる。「泣いたって、もう遅い…ぼくは、本当に馬鹿だ…」 ぼくの中の、醜い怪獣。ぼくの心をばりばりと食べて、真っ黒な霧で一杯にしてしまう怪獣。 ぼくがもっと大人で、強い心を持っていたなら、きっとそんな怪獣は捻り潰してしまえるのに。 むくむくと膨れ上がる霧はどこまでも黒く、ぼくはその中で、ただ蹲って泣いていた。