テーマ:暮らしを楽しむ(390060)
カテゴリ:Q輔とU子と「シンプリスト」
先日あるブロガーさんが、自我に囚われず生きる為に自分を捨て、
ミニマリストに囚われず生きる為にミニマリストを捨て、 ブログに囚われず生きる為にブログを捨てるという経緯をもって、ブログを閉じたっす。 その捨てっぷりは圧倒的で鬼気迫るものがあり、 一人の主婦の「生きざま」ならぬ「捨てざま」に強く魅せられました。 そして、囚われず生きるとはどういうことか? 僕は、あらためて考え込んじまったのさベイビーよろしく。 人は心の解放を求め始めた途端に、漏れなく悩み、苦しみ、迷う作業を始めるものだ。 逆に、何者かに全てを支配され、そのことにすら気が付かない「奴隷の心」のままでいれば、 悩まなくてよいのである。苦しまなくてすむのである。迷う必要じぇんじぇんないのである。 そして心の解放を求める多くの人は、いつ何時もモノゴトに囚われず生きねば、と焦るあまり、 さもすると、全ての「執着」をゼロにして、心の「解放」の目盛りを100%に振り切ろうとする。 正直、ここが僕が個人的に解せないところである。 僕の人生にとって「執着心」は絶対に欠かせないものだ。決してゼロにしてはならない。 もちろん「解き放たれた心」も大切。無くしてはならない。 どちらも大切。そして、どちらも重石だ。 しょせん「執着」も「解放」も、同じ「心の重石」に変わりはしない。 「執着」と「解放」二つの重石を天秤棒で担ぎ、転ばないようにバランスを取りながら真っ直ぐ歩く。 それがオイラの人生観ってやつなのさ。 執着に偏った心も、解放に偏った心も、心の天秤のバランスが取れていないから、 僕には、その歩行が、どこか危なっかしく、痛々しく、滑稽で、不自然に見えてしまう。 何事も、バランスよ、バランス。 僕は、多くのミニマリストやシンプリスト、ライフスタイルブロガーさん達が、 試行錯誤のすえ、モノゴトに囚われぬ心で手に入れたナニゴトにも囚われぬ暮しの、 その先にきっと立ちはだかるであろう最後の大きな壁は、 「囚われぬことに、囚われ過ぎている自分」だと思うのです。 モノゴトに囚われぬ生き方に、がんじがらめになっている自分っつーか。 「捨てる」ことすら捨てる時、人は何を捨てるのか?っつーか。 まあ、ここまでくると言葉遊び感が否めないので、ここいらで止めまするが。ははは。 やっぱ、あれかな、 「捨てる」ことすら捨てる時になれば、 人は「作り始める」んかな。 にほんブログ村 ↑ポチッと一枚! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.08.30 20:41:56
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