テーマ:暮らしを楽しむ(389864)
カテゴリ:Q輔とU子と「シンプリスト」
![]() 公(おおやけ)と、私(わたくし)。 あくまで僕の場合ですが、 これまでの半生を振り返ってみても、 仕事で、家庭で、人間関係で、 あらゆる場面において「私」の自分ってのが、 自身を成長させ、何かしらの成果を掴む原動力となったというケースは、 極めて少ないと記憶しています。 てか、一度もないと言い切ってしまっても、ほぼ差支えないのですが、 すっかり忘れている希少な事柄もあるやもしれぬので、 この場合、念のため「極めて少ない」と記しているわけです。 ![]() プライベートな、ありのままの、本来の、正直な、内なる、もって生まれた的な、 みなさんは、そんな「私」が好きですか? みなさんの「私」は、自分を成長させてくれてくれる存在ですか? 僕の「私」は、頑固で、偏屈で、自堕落で、ずる賢く、向上心のない、ロクデナシなので、 僕は自分の「私」が、あまり好きではありません。 けっこー嫌いです。 正直彼とは、あまり関わりたくありません。 例えば、仕事で、家庭で、人間関係で、 眼前の難局に立ち向かわねばという時に、または、立ち向かっている真っ只中に、 いつだって「私」の野郎がひょっこり顔を出し、僕に囁くのです。 こんなことして何になる? そこまでする意味がどこにある? なんの得がある? いくらになる? つらい。 キツい。 休みたい。 逃げたい。 そして、とどめの決め台詞。 一度きりの人生、自分らしく生きよう。 やりたいことだけやって、楽しく生きよう。 これ、僕ら世代の成功者が、執拗に宣う悪魔の囁きですね。 もとい、今の時代は、天使の囁きか。 ![]() そんな時、必ず「公」の自分が颯爽と現われ、僕を叱咤するのです。 僕の「公」は、 「世の為、人の為に生きよう」的な、「社会人として、この国や地域に貢献しよう」的な、 そんな、もっともらしい説教はしないヤツなんだけれども。 ただ、いつもぶっきらぼうにこう言います。 自分らしく生きる。 やりたいことだけやって生きる。 楽しく生きる。 人は、そんな欲の無い生き方をしてはいけない。 人は、もっと欲深くあるべきだ。 自分らしい生き方も、自分らしくない生き方も、 やりたいことも、やりたくないことも、 楽しいことも、楽しくないことも、 生きているうちに、片っぱしから根こそぎ体験し、 惜しみなく、徹底的に自分を使い切る。 それこそが贅沢な人生だ。 やりたいことだけやって生きる? そんな謙虚な生き方をしている暇はない。 ![]() そんなこんなで、長らく「公」の自分ばかりを奮い立たせて生活していると、 かつては、先ず「私」の自分ありきで、 社会に出向く時にだけ、家の玄関扉の前で「公」を身にまとっていたのが、 いつしか、「公」の割合が、自分の大半を占めるようになり、 気が付くと、家路辿り着いた玄関扉の前で「私」を身にまとっている自分がいたりする。 べつに、この感覚は嫌いじゃない。むしろ着心地は良い。 そして、この感覚は決して特別なものではなく、ある一定の社会人は普通に持ち合わせていると思う。 時代がこういった発言をはばかるから、あえて言わないだけであってね。 兎にも角にも、 プライベートな、ありのままの、本来の、正直な、内なる、もって生まれた的な、 そんな自分だけが、本当の自分じゃないってコトよ。 「公」のミーも、「私」のミーも、どっちも本当のミーざんす。 ![]() 以上、色づき始めた京都は嵐山「天龍寺庭園」の風景と共に、はんなりとお送りしました。 仕事の方は、相も変わらずバタバタですが、 歩む姿は、しゃなりしゃなりと行きたいものどす。 にほんブログ村 ↑ポチッと一枚! ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.11.08 21:48:21
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