どこからどこまでが世界で、どこからどこまでが自分なのか。
ぶおおお!絶景なり、伊吹ちゃん!こないだの日曜日、伊吹山に家族で行ってきた。滋賀県から岐阜県にまたぐ、標高1,377 mのお山である 。僕はこのお山がけっこー好きで、これまで幾度となく登ってるっす。でも、家族で行くのは今回が初めて。僕は仕事が建て込んでいる時こそ、休日はじっとしていないで、おもっきり遊ぶ派です。忙しい時ほど仕事に費やした濃度と同じふり幅で、全力で遊びに自分を振ることが肝心。そうすれば同じふり幅で、ブンっとまた仕事側に戻ることが出来るからっす。僕の常套句、「振り子の原理」です。ちなみに、この場合の振り幅は「時間」ではなく「濃度」ね、あくまで「濃度」。ちゅーわけで、喜ぶ子供と嫌がる妻を連れて、伊吹山をいただくことに。まあ流石に、下界一合目からの登山は、こいつらと一緒じゃ無理めなので。伊吹山ドライブウェイに乗っかって、ぴゅーーっと山頂付近までひとっ飛び。後は緩やかな登山道を30分も行けば頂上っす。子供たち、頂上付近でゴキゲンに記念撮影。ちなみに、妻のU子ちんはアウトドア全般苦手なのね。てか登山なんて、原則もっての外なのね。「無駄に死の確率が上がる場所に出向く闘志がアタイにゃナッティング」というのがその理由です。ですからこの日も、ちょいと危険な岩場を歩くたびに、「信じれん!来んときゃよかった!」「一刻も早よ帰えらせてちょ~すか!」「そもそも高っかぁ~とこ登る意味がよぉ~解らんでかん!」などと、ぶっつくさぶっつくさ言っとった。いやあ、無理矢理連れ回した甲斐があったってもんだあ。ははは。人は何故山に登るのか?そこに山があるからだあ!と答えたのは、伝説の登山家ジョージ・マロリー。あんらあ、ずいぶんアバウトな動機で、命賭される殿方だわぁ。しからずんば、僕は何故山に登るのだろう?せっかくなので自分の動機を考察してみよう。思うに、山の山頂に立つと、鳥の視点でこの星の丸みを眺めることが出来るよね。その景色には、独特の恍惚感があるよね。よくよく考えると、僕は単純にその恍惚感に浸りたいだけなのだ。ははは。お山の上から下界を見下ろせば。どこからどこまでが世界で、どこからどこまでが自分なのか。何だか外界と内界が曖昧になるような。まるで自我とういものが精気となって砕け散り、世界に溶け入ってしまっているかのような。その一瞬は、いわゆる「我を忘れる」とか、そんな現実逃避的なものでは決してなくて。自分はこの世界の精気の一粒として確かに存在するのだ、ということを痛感しているかのような。てかさ。例えばさ。焚火やキャンドルをじっと見ている時の、炎と自分が混じってるような感覚とかさ。船の上で海釣りをしている時に、自分が海の一部になっているような感覚とかさ。祭りやライブやスポーツ観戦で群衆が一体と化し、ひとつの生き物になったかのような感覚とかさ。どこからどこまでが世界で、どこからどこまでが自分なのか。まあ、山に限らずとも、そういった類の恍惚感ってのは、実は結構日常に転がっていているものなんだけどね。でも、やっぱ、お山は格別だよね。ちなみに、恐らく酒やセックスに溺れたり、ドラックを喰って得られる恍惚感というのは、一瞬「自分がゼロになる」かのような錯覚があるのだが、見えてくるのは「自分」ばかり。どこからも、どこまでも、自分、自分、自分。「逃げ惑う自分を凝視する自分」を自ら仕立て上げるという最悪の自分。僕が申す山のそれとは、対極に位置するものではないかと思うのである。パラシュートを開いたものの、どこに舞い降りたいのかよく分らない内容になってしまいましたが。大丈夫、着地点は決まってっから。そんなこんなで。どんなこんなで。要するにだ。僕が何を言いたいのかってえとだ。そしてまた、山、登らずにいられない。ちゅーこってありんす。にほんブログ村↑ポチッと一枚!