蝉しぐれ
蝉たちが、雨音のようにやかましい。朝っぱらから家の近くの公園では、蝉しぐれがはらはら降っている。この夏改修工事を担当している小学校へ着くと、ゲリラ豪雨のように降っている。僕は耳が痛い。僕は耳を塞いでいる。
地鳴りのような周波数に意識が朦朧としてくると、僕は少年期に親友だったカッちゃんのことを思い出す。今も昔も歴然と友人というものが極めて少ない僕にとって、カッちゃんだけは恥ずかしげもなく「フレンドシップ」という文言を活用することができる人物だ。カッちゃんは、僕が子供の頃に住んでいたオンボロ長屋の近所にある、更にボロボロの何だかもう朽ち果てる寸前みたいな長屋に住んでいる僕の同級生だった。カッちゃんはとても友達思いなヤツだった。ていうか何故かいつも僕みたいなクズのことを第一に考えてくれるとても変わった優しいヤツだった。小中学生時代の僕の、セピア色をした記憶のフイルムには、いつもカッちゃんが躍動している。髪の毛みたいな線がウネウネする古ぼけた八ミリビデオの映像の中で、僕とカッちゃんはいつも笑っている。
夏休みになると、毎朝カッちゃんが「きゅ~ちゃん!」と独特の節回しで家の玄関の前で僕の名を叫ぶのだ。家の中の僕は、外の蝉しぐれの中からカッちゃんの声を探し当てると、嬉しくなって「は~あ~い~!」とこれまた独特の節回しで返事をする。それから僕たちは近くの神社に行って、油蝉を大量に捕獲して遊んだ。小学生のくせに煙草をプカプカふかした六年生たちが12変速式自転車に跨って神社に乗り込み、僕たちの遊び場を占領してしまった時は、僕たちはそこから少し離れた用水路に移動して、川に投げ捨てられたコーラやスプライトの瓶を拾って駄菓子屋に持って行くのだ。当時は、飲んだ瓶や拾った瓶を酒屋や駄菓子屋に持って行くと、10円で買い取ってもらえた。それでも川底のヘドロまみれの瓶や、バキバキに割れた小さな瓶の破片などを見境なく持って行くと、いつも温厚な駄菓子屋のお婆さんに「ゴミばっか持ってくるな、このクソガキ!」と叱られた。夕暮れ時にションボリと、カッちゃんと二人で拾った瓶を拾った川に捨てに行ったものだ。 「きゅ~ちゃん!」夏休みが終わっても、カッちゃんは毎朝登校する前に僕の家に寄って僕を呼んだ。僕はいつも同じ時間に自分を呼びに来るカッちゃんに迷惑をかけられないので、遅れないように身支度をした。僕たちは小学校、中学校といつも一緒に登下校をした。中学生になった時、僕が気まぐれに水泳部に入ると言ったら、カッちゃんも一緒になって水泳部に入部した。僕が気まぐれに地元の二流高校に進路を定めたら、僕より頭のいいはずのカッちゃんは「Qちゃんが行くなら」と言って、なんと僕と同じ高校を受験した。君は何ていいヤツなのだろう。出来ることなら僕は君と生涯何らかの形で関係を維持したい。いや、きっとそうなる。だって僕たちは親友なのだから。なんて直接言葉にこそしなかったが、僕たちは、なかなかの友情で結ばれていた。
高校生になって、僕の中の何かが変わった。僕はカッちゃんより、クラスの女子たちに夢中になり、カッちゃんより、もっと刺激的な友人に惹かれるようになった。高校生になってもカッちゃんは相変わらず毎朝僕を呼びに来た。僕はそれがたまらなく恥ずかしく、段々うざったい習慣と感じるようになっていた。カッちゃんは、ずっと小学生の頃のままのカッちゃんだった。それが僕には無性に苛立たしかった。「きゅ~ちゃん!」「ごめ~ん、朝ごはん食べてる」「きゅ~ちゃん!」「ごめ~ん、寝坊した」「きゅ~ちゃん!」「ごめ~ん、今日学校行きたくない」僕たちは徐々に一緒に登校することが少なくなった。僕は毎朝心の耳を塞いでいた。いつしかカッちゃんの呼ぶ声に返事をしなくなっていた。かつて蝉しぐれの中から瞬時に探し出すことの出来たカッちゃんの声は、僕にはもう聞き取れない周波数になっていた。それでもしばらくカッちゃんは毎朝僕を呼び続けた。そして、とうとうある朝、あのカッちゃんが僕を呼ばない朝がやって来た。自分で蒔いた種でありながら、その時はショックだった。良かったじゃないか。お望み通り、親友を失ったんだ。そう何度も何度も自嘲した。自嘲するより他なかった。 それから僕たちは、ただの知り合いになった。僕は僕で新たな友達と遊んだし、カッちゃんが新しい交友関係を築くのに時間はかからなかった、そもそもカッちゃんはとても人気者だった。僕たちは顔を合わせれば普通に会話をしたし、お互いの友達が友達であれば一緒に遊ぶこともあった。でもそこにはかつての絆のようなものはなかった。重ねて述べるが、僕たちは、ただの知り合いになり果てたのだ。
この歳になって、時折どういう訳か、この猛暑の蝉しぐれの中で、カッちゃんのあの声に苛まれることがある。きゅ~ちゃん。きゅ~ちゃん。きゅ~ちゃん。今でもカッちゃんはあの頃の、あの声で僕を呼び続けている。僕の返事を待っているのだ。は~あ~い~。今更ながら僕は精一杯の声なき声を、喉を枯らして張り上げている。ごめん。ごめんね、カッちゃん。違うんだ。そんなんじゃないんだ。あの時のあれは、決してそんなつもりじゃなかったんだ。本当にごめん。許してくれ。聞こえるか。聞こえるか、カッちゃん。蝉たちが、雨音のようにやかましい。僕は耳を塞いでいる。蝉の雨音に紛れて、顔を覆って泣きたくなる。
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