舞姫(川端康成)
「舞姫」という題名から何を想像するだろうか。 森鴎外の名作では留学先で出会った舞姫との悲恋であった。それに対し川端のは暗鬱で無力感に満ちた不倫だ。女主人公波子が元バレリイナというだけだ。 この作品で波子はバレエを教えているが、自ら踊らない。踊る描写がないのだ。主人公はバレエ公演を見てはいるが、自ら踊ることによって起こる高揚感とか肉体的快感とかいうものが綺麗に退けられている。川端が踊らないから踊り手の気持ちがわかるはずも無い、と言ってしまえば元も子もない。それを補うのが作家の想像力ではなかったか。どうやらこれはもっと別なところに理由がありそうだ。 物語は波子が夫の出張中に元恋人竹原と会う場面から始まる。彼らに果たして肉体関係があったかどうかはうまくぼかされていてわからない(おそらく無いと思う)。今風に言えば「金持ちの親父と結婚したけどぉ、なんか寂しくてぇ、元彼と会ってるのぉ」。今なら全然平気なちょっとした遊びだが、波子はそれだけで胸がドキドキして倒れそうになったり、夫の顔が見れなかったり、不安に慄いたりする。しまいにゃあ、離婚を決意するに至る。まさに時代なのだろうか。この女主人公には全く感情移入できない。身勝手すぎる。勝手に元彼を呼んでおきながら一人で罪の意識を持ったり。ラストでは離婚の決意に呼応するかのように、家族の離散を暗示するところで終わる。 夫の矢木は美術評論家らしい。波子が竹原と会っているのではと訝るものの、表面上は妻を愛している。ほとんど毎晩妻を求めているらしい。が、竹原が矢木のもとを訪れても、門前払いを食らわす。 この作品ではお互いに感情を持ちつつ、何の衝突も無く(波子は矢木に一歩的に罵られはするが)、未解決のまま、無気力にただ時間が流れていく。 子供たち、娘でやはりバレリイナの品子も留学したい弟高男も、親の不倫劇にそれぞれ不快感を持ちながら、結局何もできないままだ。敗戦を機に全てが虚しくなってしまったのか。 そして登場人物たちが踊らないのも、この虚しさゆえと思われる。 ここには家族の崩壊というテエマがある。夫婦の危機がとても冷ややかな視線で描写されている。そしてそれが現実と化している、現在。恐ろしいことだが、敗戦後の民主主義がもたらす日本の家族の危機を、川端はすでに嗅ぎ取っていたのだろうか。 別にバレリイナでなくてもいいような物語だが、音楽ファンにはちょっとうれしい。 作中、自宅のけいこ場からストラヴィンスキイのバレエ曲「ペトルウシュカ」が鳴るのだ。しかもそれは「ストコウスキイ指揮、ヒラデルヒア・オーケストラの演奏、ビクタアのレコオドであった。」とわざわざ書かれている。(19/Apr,7/Nov/1937録音。現在BMG-BVCC1052としてCDに復刻) 突然ストコフスキーが出てきたのでびっくりした。指揮者の名前が小説に出てくる事自体、珍しい。作曲者のストラビンスキイの名前は出てこなくて。。。 続いて矢木に「ニジンスキイの悲劇」と言わせ、戦争の犠牲者としての波子や品子を暗示させているのだけど。 あと、ベエトオベンのスプリング・ソナタに波子の竹原との思い出を重ねたり、この作品は音楽との関わりが(川端の作品としては)多い。 息子高男の父親への尊敬、愛情の示し方がちょい同性愛っぽくて気持ち悪いけど、幼い頃に両親と死に別れた川端が頭で考えて作った人工的な親子関係なのかなと見ると、かわいそうな気もしてくる。 小澤征爾のペトルーシュカの録音は若い頃(69年)ボストン響を振ったもののみ。ちなみにピアノソロはM・ティルソン・トーマス。