2008/07/26(土)13:50
「仲間だからさ」
時に教師の言葉は無力だ。
進退に悩んだ彼を救ったのは、先輩の言葉。
「この先、どうしようか、、、」
彼が直面した問題は、義務とか強制とか約束とか、大人が行使しようとする理路整然とした理屈では
上手く片付かないことだった。
自分の不甲斐なさをしり、現実を知り、実行力の不足を実感し努力することに萎えた。
もしかしたら、誰でも必ず一度は直面することかも知れない。
ある者は、そこで社会の批判をして、ある者は、自分の力不足をごまかす。
また、ある者は努力を繰り返し自己教育していく。
それぞれの結論を出すには、自分の知識と意識だけでは難しい。
彼も、自分で決めかねて逃げ続けていた。
そんな時に、先輩から「仲間だからさ」と言葉をかけられた。
経緯の紹介は省略するが、少なくとも彼は逃げ続けていた自分を仲間と呼んでくれる
先輩の存在が大きなものになったのだろう。
泣きながら感激をする彼。
我々教員がそこに多くの言葉を書ける必要はない。
「じゃぁ、、そんな先輩に、、なってみれば?」
それだけ。
彼は「なれますかねぇ、、」と不安げに言う。
「なれるさ。君が願いさえすれば。」
この少ない会話で彼は再生した。
「絶対になって見せます!!来年、1年生が入ったら、そう思われるような先輩になります!!」
と宣言する彼。
時に、教員や大人の理路整然とした正論は無意味だ。
いや、、
言葉を羅列するのは、逆に分かりにくくさせることもある。