2007/01/03(水)11:04
SHIDOSO教育研究所
ブログのプロフィールのところにも書いてあるのであるが、私は『SHIDOSO教育研究所』という名称の私教育の教育研究機関を作りたいと思っている。「私教育の研究機関」というのは、簡単に言えば、「塾の先生の集まり」で、生徒を伸ばすためのノウハウや技術、教材や指導法の研究する場所である。全国に散らばった、人知れず行われている素晴らしい技術を共有しあって、自らの指導技術を高める会にしたい。「俺の技術は俺だけのもの」とお考えの方とは考え方の違う会になる。本当は昨年の秋くらいから少しずつ活動を始めたかったのであるが、いくつか理由があってストップしていた。ストップしていた一つ目の理由は、言い出しっぺの私が自分の塾も軌道に乗せられていない状態では会自体が説得力に欠けるような気がしたからである。まずは早く自分の塾を軌道に乗せてしまわなければならない。幸い、こちらの方は目処がつきつつある。二つ目の理由は、組織の骨格について、もっとしっかり考えておかなければならないと気づいたことにある。私はこの研究所を作って、別にお金儲けをしたいと考えているわけではなく、よりよい指導を子ども達に行っていくために、自分自身が勉強する「場」を作りたかったのである。すべての始まりはそこにある。しかしながら、組織、あるいはサークルを作る場合は、世間にしっかり主旨説明を行わなければならない。そのあたりが甘いとあらぬ批判も招くだろう。そういうことには十分配慮しなければならない。また私が作りたいのは、お互いが切磋琢磨する「研究会」なのであるが、中には、自分からは「発信」せず、人から「ノウハウ」だけを安易に吸収しようとする人も出てくるだろうと思う。それはそれでよい。しかし、そんな人に限って「あの会はイマイチ」とか「言うほどノウハウがない」なんて言ったりするものである。そんなことを言われたらたまらない。そういう人にはいてほしくない。腕がないくせにケチをつけることで自らをアピールしようとする人はどこにでもいる。そういう人、つまり「自らは発信せず、ノウハウをちゃっかりパクっていくくせに批判だけはお好きな人」を排除するような規約を作らなければならない。もちろん建設的な「批判」は歓迎だ。それは「会」に敬意を払い、「人」に敬意を払えるということが前提である。この「会」には上も下もない。誰がエライとかそういうのはない。素晴らしい腕を持ち、素晴らしい実践報告をする人は尊敬されるだろうが、組織的な上下はない。『SHIDOSO教育研究所』の「SHIDOSO」とは「私度僧」のことである。「私度僧」とは平安時代、出家するには朝廷の許可が必要であったが、その許可を受けず、勝手に得度した「僧」のことである。そこから名前を取った。国や文部科学省のお墨付きなどないところで、懸命に子どもの指導を行う自分たちを「私度僧」になぞらえたのである。空海もかつては私度僧であった。ロマン溢れる?名称である。話は逸れるが、「塾講師検定制度」なるものは、このロマン溢れるこの研究会の名称の由来を根底から覆すものである(笑)学習塾はお国からの何の制約も受けていないからこそ、豊かな実践があるのである。いっそのこと学校教育からも国は手を引いてみてはどうかとさえ私は思う。歴史的に見ても、学校教育に国が介入したのは先の戦争のためであった。それまでは「学校」と「塾」の線引きはあまりなかったのである。話を元に戻す。『SHIDOSO教育研究所』は、年に数度集まり、用意したレポートを報告しあい、情報を集め、話をし、交流を深めつつ、普段の活動はネットを使っての情報交換で行うというような会にしたい。ブログやネット上でも勉強はできるが、「会う」ということはその何倍も勉強できるものである。両方を大切な会にしたいと思っている。「市販の教材で一番個別指導に向いた教材は何か」「塾生の遅刻を減らす効果的な実践」「クラスをまとめる小ネタ20選」「完了時制をうまく理解させる導入法」「生徒が燃える小テストレイアウト法」「授業時間が5分余ったときのショートスピーチ集」なんてことを話し合い、共有できたらよいなと思う。教育論から日々の実践小ネタ集までを集められればよいと思う。 この会を通じて何より自分自身がもっともっとよい先生になりたい。