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海洋冒険小説の家

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(6)「ポルトガルの数(かず)に0が

     (6)

 「ポルトガルの数に0(まる)の数がありますが、わが国では同じようなものがありますか?」
 「これはもう、唐の時代に使っているものが日本に入ってきておる。○でな。数だけで表すときに、ある位の数が欠如しておるときに、○をいれた。この○を使う考え方は天竺、即ちインディアから入ってきたらしい。南宋の頃、李冶の書いた[測円海鏡]にもつかわれておる。しかし、使うのは天文や暦学や算学をする者の間だけじゃ」
 「エウロペでは、どの国も同じ暦を使っていると聞いたことがあります。日本ではあちこちで暦が作られ、使われています。たとえば、伊勢神宮暦以外に、東国の暦など、どうしてですか?」
 
 次郎丸の質問攻めに眼を細めて嬉しそうに聞きながら、この、白髪のおじいさんは答えた。
 「南蛮暦は太陽の動きをもとに暦が作られた。エウロペでは、切支丹の本山の羅馬の力で普及したようじゃ。長い年月羅馬は大きな力を持ってきた。しかし、暦の新年の始まりを一月一日から、切支丹行事(注1)の前日にしたりして、かなり国によって混乱しているようじゃな。だから、いまは国によって暦が違っておる。それもひっくるめて、今、羅馬で、ルーテル派以外の国々の天文の博士を集めて、暦の研究をさせておるそうな。
 南蛮暦は千五百七十九年間修正しておらんのでな、少し狂ってきたゆうことで、いま会議が開かれておる。十日ほど足して修正せねばならぬそうじゃ。
 日本では、武家が政治(まつりごと)の実権を握って以来、武家の支配を全国に行き渡らせるのに、大変な日数がかかったうえ、武家の文芸を花開かせたのが、足利義政公の時代じゃ。そして、すぐ応仁の乱が始まり、この戦乱で、暦まで手がまわらなんだ。それで、あちこちで暦をつくってきたのじゃ。薩摩暦は源の頼朝公が、領国があまりにも遠いという理由で島津氏の請いを入れて認めたものだし、武蔵の国・氷川神社の大宮暦、伊豆の三島神社の三島暦などあるが、それらは一国か二国でしか使われなかった。ほとんどは、伊勢神宮の神職の御師(おんし、おし)が、年末に全国を回り、御祓とともに配る伊勢神宮暦をつかったのじゃ。薩摩や東国のものも結局は京の天文家で暦道も兼ねておる土御門(ちちみかど)家か、暦家の賀茂氏の流れをくむ伊勢の賀茂氏に聞きにくることになる。
 月の動きをもとに暦がつくられておるわが国では、小の月、大の月の配分、閏月をどこに入れてよいか分からなくなるからじゃ。また、全体の日の配分もあるからな、大の月(30日)が4回続く場合がある」
 助左衛門は驚いて、
 「へーえ、そんなことがありましたか?」
 「そうじゃ、永禄八年(1565年)の九月、十月、十一月、十二月がそうじゃった。今年でも、九月、十月、十一月は小の月(29日)が続いておる」
 「それで、その、まちごうた暦を作ったことがあるのですか?」
 次郎丸が息を弾ませて聞いた。
 「一番近いところでは、天正三年に北条氏政殿が武蔵の大宮暦を停止(ちょうじ)しておるのう」
 「へーえ、知らなんだ。そんなことがあったとは」
 六兵衛は驚くばかりで、改めて小見の公秀殿を見直した。そのあと、公秀殿の暦についての難しい話を聞いたが、それは六兵衛の頭の中をただ通過しただけのようであった。日本で使っている暦は、唐の時代に入ってきた宣明暦(せんみょうれき)で、十九年間に七回の閏月を入れると、十九年間の一年の平均の長さは、南蛮暦の一年の長さと等しくなるとか、冬至をもって暦の計算の起点にするとか、七十六年周期を考えることによって、南蛮暦との位置は不変になるとか、壁に大きな紙を貼って数字の計算もしてみせたが、六兵衛にとってはちんぷんかんぷんで、ただ、ながめていただけだった。
 「それでは、なぜ、わが国ではそんな便利な南蛮暦を使わないのですか?」
 次郎丸が聞いたようだった。
 「さあ、そこじゃ、わしらの暮らしは、人は気がついておらぬが、本当は深く暦と結びついておる。三日になっても三日月が出ず、十五日になっても月が満月にならず、潮の満ち干きもいつやらわからないでは、日々の暮らしに支障が出てくる。わしらは月を見て今日は何日か分かるが、エウロペのものは分からないだろう。南蛮暦は計算では完璧ではある。しかし、日本の今の暮らしが続く限り、やはり今使っている暦も使うことになるやろな。たとえ、南蛮暦を使うと決めたにしても。織田信長殿はどうなさるつもりか、それは、わからないが」

 このあと、昼食を馳走になった。
                  (続く)
[注1=復活祭、春分後の満月直後の日曜日]



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