五番札所:巌鬼山神社 古神社 いわき見守る 二本角
帰省6か所目は巌鬼山神社です。岩木山神社参拝後に伺いました。岩木山環状線からやまなみロードに逸れるとたどり着けます。途中狭い道が続きますが、今の時期は緑がとてもきれいで、走っていて気持ちが良いです。津軽三十三観音霊場五番札所:巌鬼山神社着きました。鳥居前には車数台停められそうな駐車場有。鳥居両脇に石碑・石柱がありますね。巌鬼山神社の石碑です。創建から1200年!歴史の塊ですね。巌鬼山神社の石柱です。紀元2600年記念?これはいったい・・・?何を表しているんでしょう。一の鳥居です。手水です。龍の口から清水が流れ出でていますね。非常に透き通っていました。津軽二代惣領主信建の碑なんでも豊臣側と親交のあった方だったそうで、津軽氏の系譜から消されたとあります。この辺の歴史を掘り下げても面白そうですね!今後の課題にします。説明書きです。誌信建は津軽初代惣領主為信の長子である。豊臣秀吉に謁見し、石田三成をえぼし親として元服した。えぼし親とは元服後の父となったことで、関ヶ原で三成が敗れたあとの遺子を庇護したのはこの絆である。三成の裔はのちに弘前藩主となり、また重臣として藩政を担ってきた。関ヶ原戦後二代惣領主となった信建は、豊臣氏の武将として、徳川氏に備えた築城(弘前城)に着手したが、完成を見ることなく三十四歳で死去した。豊臣氏が亡んだのはこの九年後である。徳川政権下で「逆賊」と決めつけられた三成に殉じた信建が、津軽氏の系譜から消されたのはこの故である。信建の実像と事蹟が甦がえることを願って、今回碑の建立を思い立った次第である。平成29年11月 田澤正 書 毛内昭夫巌鬼山神社の石碑です。割と新しい感があります。二、三、四の三連鳥居です。先ほどの鳥居から右の方に三つの社があります。それぞれ見てみます。右の社です。3つの御幣が捧げられています。何の社でしょうか?左の社です。こちらも何の社かは分かりません。真ん中の社です。おそらく龍神だと思うのですが、社の中には男女一対の木像が納められています。結局特定することはかないませんでした。こういう場所に説明書きを建てて欲しいと切に願っています。斜めから次は狛犬です。一番手前の狛犬は左右どちらも口が開いています。ツイン阿ですね。次の狛犬は左が阿、右が吽ですね。駒馬もあります。右左拝殿左わきの二本杉です。でかすぎる・・・。なんでも県内最古級の杉だそうです。社を建てたくなる気持ちも分かりますよね。力強いよねぇ!手前の杉奥の杉説明書きです。県重宝 巌鬼山神社本殿一棟 附 厨子 棟札平成5年4月16日指定県天然記念物 大杉二本昭和31年5月14日指定巌鬼山神社の由緒は古く、延暦15年(796年)、岩木山北麓に巌鬼山西方寺観音院が建立されたことに始まり、坂上田村麿の蝦夷平定祈願のため再建されたと伝えられる。また、文安5年(1447年)に社殿が野火によって焼失したため長見氏によって再建。その後、藩祖津軽為信が修復したほか、慶長9年(1604年)にはその子信建が「津軽総領主宮内大輔藤原臣」銘の鰐口(県重宝)を奉納している。やがて百澤寺に併合されたが、神社は元禄4年(1691年)に氏子によって再興され、明治6年(1873年)巌鬼山神社と改称した。本殿や厨子は、近世津軽地方の小仏堂が神社に変わった典型的なもので、細部の様式などもよく時代の特徴を残している。また、大杉は樹齢千年以上、高さ41メートルを越える巨大なもので、県内にはこれに勝るものがなく、神社の歴史を語るとともに、津軽三十三観音の巡礼者をはじめ多くの人々の信仰を集めている。管理者 巌鬼山神社 弘前市教育委員会拝殿です。拝殿内左側に観音さまが居ります。調べてみると巌鬼山神社自体は現在大山祇命を祀っているそうです。説明書きにもあったように、明治の神仏分離によって巌鬼山神社と改称し、その時からの信仰だと思います。ただ、坂上田村麿が岩木山神社奥宮の下居宮として建立したとあるため、その時から大山祇命の信仰自体はありそうですよね。斜めからです。御詠歌詣るより 頼みをかけし十腰内 聞きしにまさる 古き宮だち札所本尊:十一面観音 एकदशमुख御朱印は神社右隣の民家にて判を押せます。黒インク、赤インクどちらもあり、↓2,3枚目のように判を押すこともできます。過去に頂いた御朱印を載せます。津軽三十三観音専用御朱印帳津軽三十三観音巌鬼山神社以上です。