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安倍晴明

七宝縁
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此晴明は、家の内に人の無き時は識神を仕けるにや有けむ、人も無きに、蔀上げ下げす事なむ有ける。

『今昔物語集』


晴明世に出てより、三国のうらかたの、ふかきおもむきを、ただひとつにして、さとりけれバ、占ふ事も、いのる事も、露たがハさりしとかや
仮名草子『安倍晴明物語』


都きっての陰陽師。数々の伝説を残し、実在の人物でありながら、多くの謎に包まれた人でもあった。
母は狐で、幼少の頃から見鬼(けんき)であったという。
そんな安倍晴明の伝説や仕事を紹介しましょう。

[安倍家]

安倍晴明は921年、安倍益材(あべのますき)の子として生まれました。
『尊卑文脈』による安倍家の系図では
御主人(みぬし)-広庭(ひろにわ)-嶋丸-粳虫(ぬかむし)-道守-兄雄-春材(はるき)-益材(ますき)(*)晴明
と、なっています。 さらに遡ると、遠祖は阿部倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)になるようです。倉梯麻呂は有間皇子(*)の祖父にあたります。
先祖、御主人は右大臣まで出世した人物であったが、それ以降、政権からは遠ざかり、地方長官クラスに落ち、従四位~五位(*)程度の貴族となる。
(*)益材・・・保名(やすな)とも呼ばれる。
(*)有間皇子(ありまのみこ)・・・孝徳天皇の皇子。最明天皇の時、謀反の罪をきせられ、紀伊の藤白坂で処刑された。
(*)従四位~五位・・・貴族の位。正一位から少初位まで10段階あり、正と従、四位以下には上と下、に細かく分かれていた。


[晴明の母親]
晴明の母親もまた、謎につつまれた人だ。
なんとまぁ、「狐」だというのです。
「葛の葉」伝説として古典で取り上げられています。聞かれた事もあるのではないでしょうか?

   〔葛の葉伝説〕
「陰陽師、芦屋道満の弟、石川悪右衛門の妻が奇病に侵され、道満から「メス狐の生き肝を飲ませなければ死ぬ」と言われた。
悪右衛門は信田の森に狐狩に出かけ、一匹のメス狐の目を付けた。
メス狐は必死に逃げ、偶然出逢った人間に助けを求めた。
それが、安倍保名。晴明の父だった。
暫らくして、保名の元に美しい女がやってきた。保名はその女を妻に娶り、 一子をもうける。これが後の晴明である。
晴明は生まれつき異形の者を知る能力があった為、母の正体を知ってしまうのだ。
正体を知られた母は狐に姿を変え、泣く泣く信田の森に帰っていく。
保名と晴明は信田の森に母を捜しに行き、そこに母狐が姿を現し、晴明に霊力を授ける。
晴明は母から貰った力のお陰で、都一の陰陽師となるのだ。

しかし、面白くない思いをしている者がいた。芦屋道満だ。
道満はその頃、帝の覚えもめでたい陰陽師であった為、御前での術比べを申し出る。
受けて立った晴明と、秘術を尽くした勝負をし、ついに、晴明に負けてしまった。
道満は憤慨し、晴明に復讐する為、一条戻り橋で弟の悪右衛門に、晴明の父、保名を殺させる。
晴明はバラバラにされた父の死体を集め、甦りの呪法を施し、ついに保名を生き返らせた。
晴明親子に訴えられた道満は、悪運尽きて、首を刎ねられる・・・」


と、こんな風に晴明の母のお話は、現代に語り継がれています。
狐の子だから、「化生のもの」と呼ばれ、朝廷社会の一員でありながら、世間とは一線を画していた。という風に、イメージとして成り立ってしまったのです。

では、実在の晴明はどのような人であったのか?

[晴明、陰陽道を学ぶ]
晴明は幼少の頃、陰陽道の大家、賀茂忠行(かものただゆき)に弟子入りしました。
たちまち、晴明は忠行の元で才能を開花させました。
『今昔物語』に出て来るお話で、晴明が「鬼の道行き(百鬼夜行)」を察知する、というのがあります。

   〔鬼の道ゆき〕
ある夜、忠行のお供で下京あたりを徒歩で牛車に従っていた晴明。
前から名にやら得体の知れない者達が、近づいてくるのが見えた。
晴明はすぐさま、牛車の中の忠行に知らせた。忠行は眠っていたが、
ただ事ではない様子に気付き、すぐに陰行(おんぎょう)の術を施し、
牛車も共の者も全て鬼の前から見えなくした。
鬼はそのまま過ぎて行き、事なきを得たのである。


晴明の持つ「見鬼」の才能は陰陽師としては不可欠なものでした。
鬼や化生の者を制圧するには、そのものの正体を、見抜かなければならなかったからです。
鬼や化生の者といっても、種類があり、「人鬼」「妖怪」「ものの精」などがあります。
そのもの達は、己の正体を知られ、名を知られると、とたんに邪悪な力が激減してしまいます。
なので、陰陽師はその物達の本当の正体を見、呪で抑える力が必要でした。
こうして晴明は師、忠行の元でメキメキ陰陽の力をつけ、陰陽師としての地位を確立しいったのです。

[宮廷社会の中の晴明]
晴明の名が、歴史に出て来るのは天徳四年(九六〇)頃で「天文得業生(てんもんとくごうせい)安倍晴明」といものでした。大体、晴明が四〇歳の頃と考えられます。
「天文得業生」とは陰陽寮に属して、天文道を学ぶ学生の事。四〇歳にしてまだ学生とは、結構、遅咲きの人だったのですね。
「賀茂忠行に幼少の頃に弟子入り」と先程の項目で書きましたが、実際は賀茂家に弟子入りするまでは「大舎人(おおとねり)(*)」の職についていたようです。
『続古事談』という書物には、「晴明、陰陽師:具曠(ぐこう)が許(もと)に行きたるに用ひず。また保憲が行きたるに、その相を見てもたなしけり」とあります。
これは「晴明は具曠という陰陽師を最初に訪れたが、相手にされず、賀茂保憲の所に行ったら、晴明の才能の相を見つけ、用いた」という事です。
ここでは賀茂忠行ではなく、その子の保憲に弟子入りしたようになっています。
保憲は晴明より四歳年上に過ぎませんが、この時既に陰陽寮の天文博士の地位にありました。
忠行に弟子入りしたという説には根拠がないらしいですが、保憲が天文博士の頃、晴明が天文得業生だった事が、保憲が晴明の師であった事を裏付けしています。
(*)大舎人・・・律令制の下級官人。貴人に従う雑人。

本当の所は良くわからないのですけれど・・・ 今後も保憲や忠行の名前がゴッチャになって出て来ると思いますけど、なにせ私が生きていない時代の話なので、その辺はご容赦願いますネ☆(生きてたら、人間じゃないですよね~。それこそ、魑魅魍魎だわ)

[晴明。保憲と共に霊剣を鋳造す]
天徳四年。内裏が焼亡した折、護身剣(*)と破敵剣(*)の霊験二振りも焼けてしまった。
朝廷はこの二剣を新たに鋳造するように天文博士の賀茂保憲に命じ、天文得業生の晴明もその任につきました。
まだ天文得業生の晴明が何故このような重要な任の補佐に抜擢されたのか?
晴明は大舎人の役職に付いていたが、その頃より陰陽の術や天文の知識な才があったと思われます。
先の項目でも述べましたが、これ以上出世も望めない下級官僚にしがみ付くより、自分の才能を生かせる陰陽寮の仕事がしたいと思い、陰陽師に弟子入りする事にしたのです。
保憲は、晴明に逢った時に、才能がある事を瞬時に察しました。まだ天文得業生と言えども、保憲は晴明を重用していたとみられます。
(*)護身剣・・「疾病邪気を除く」とされた霊剣。左面に太陽・南斗六星・朱雀・青龍、右面に月・北斗七星・玄武・白虎が描かれていた。「歳は庚申の正月に在り。百済の造るところの三七練刀。南斗、北斗、左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武。避深不祥、百福会就、年齢延長、万歳無極」の銘があった。
(*)破敵剣・・左面に三皇五帝・南斗六星・青龍・西王母の兵刃符(道教の呪符)、右面には北極五星・北斗七星・白虎・老子の破敵符(道教の呪符)が描かれていた。


[晴明、いよいよ陰陽師に]
晴明が陰陽師として史料に登場するのは庚保四年(九六七)、47歳の頃です。
「政(まつりごと)始めの日時を勧進した」とあります。
そして、52歳で天文博士として、史料に出てきます。天文博士は陰陽師よりワンランク上の位でしたが、正七位下あたりの地位で決して高くはありませんでした。
しかし、天文博士というのは天文観察で異変を察知すると、陰陽頭を介さず、直接摂関に奏上出来る地位だったのです
そして、報告書は摂関から天皇へと、蔵人を通じて届けられた。
この時代の摂関といえば、今を時めく「藤原氏」。晴明はこうして藤原氏を深く接点を持ち、天皇のお覚えもめでたい人物になっていくのです。

[陰陽寮引退後の晴明]
貞元二年(七九九)、賀茂保憲が黄泉の国に旅立った後、晴明の時代が到来した。時に晴明、五七歳。
晴明は陰陽寮を離れ「蔵人所陰陽師(ろうどどころおんみょうじ)」として活躍しました。
蔵人所陰陽師とは「蔵人所の役人や医師とともに、内裏における怪異を占い、天皇に関する行事日時を勘申し、祭祓を行うもの」で、陰陽師の一臈(いちろう)がその任に就いたとされています。
一臈とはその筋の達人と言えば分かりやすいでしょうか。
こうして、晴明は藤原氏(兼家・道隆・道長)や、まだ幼き七歳の帝、一条天皇の吉凶占い、邪気祓い、などの祭祀、呪術を行い、多大な影響力を与えたとみられます。

[晴明が行った占術・祭祀・呪法]
晴明が行った主な祭祀・呪法

内容
説 明
年齢(書物)
解除
藤原実資の妻の安産祈願
六五歳:小右記
鬼奇祭
実資の子の治病・邪気祓い
六八歳(小右記)
泰山府君祭
一条天皇の母:詮子の病気退散
六八歳(小右記)
御禊
一条天皇の御悩を祓う
七三歳(小右記)
防解火災祭
道長の命で行う
七七歳(権記)
玄宮北極祭
一条天皇の命で行う
八二歳(諸祭文故実抄)
泰山府君祭
蔵人頭・藤原行成の寿命延長
八二歳(権記)
五龍祭
雨乞い
八四歳(御堂関白記)


[晴明が行った反閇(へんばい)]

反閇とは、「大刀の供奉に対応するもの」とされ、神々を召還して種々の呪文を唱えた後、北斗七星の形に大地を踏み鎮め、行幸する者の心身を霊的に守護するための呪的歩行法。道教からとりこまれたとされています。

内容
年齢(書物)
一条天皇の為に反閇を行う
七七歳(権記)
新内裏に遷御した時に反閇を行う
八十歳(権記)
大原の社に参詣する中宮・彰子の為に反閇を行う
八五歳(小右記)


[晴明、死後の安部家]

晴明は寛弘二年(一〇〇五)九月二六日、従四位下の地位でこの世を去りました。
晴明には吉平と吉昌の二人の後継ぎがいました。
吉平は天文博士・陰陽博士から陰陽助となり、道長に重用されました。
一方、吉昌は天文博士から陰陽頭になっています。
そして、晴明の孫の章親(あきちか)が一〇五五年に陰陽頭になってから、賀茂氏が暦博士を、安倍氏が天文博士を世襲するようになりました。
安倍氏は後に「土御門」に名前を変えていきました。賀茂氏は衰退していきましたが、土御門家は今も、陰陽家として存続しています。

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参考文献「学研・歴史群像シリーズ 安倍晴明」♥:



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