カテゴリ:天皇はどこから来たか
![]() 崇神天皇の時代に天照大神は天皇の御殿から離れ、倭の笠縫邑に祀られる(『新編日本古典文学全集 日本書紀1』小学館 p.271)が、やがて垂仁天皇25年に宇陀の まず、日本の神道を単なる自然崇拝(アニミズム)と考える人々がいるようだが、これは間違いである。なかにはそのような自然崇拝に陥っている人々もいるのだろうが、彼らが崇拝している石や木や山などは、じつはそれ自身が神なのではなく、そこに神が降りてくる依代(神の座)にすぎないのである。神はあくまでも別の場所にいる。 さて、古代イスラエルにおいても似たようなことが起こっている。たとえばシケムの樫の木にヤハウェが現われて、「あなたの子孫に、私はこの地を与える」と告げられたのでアブラハムはそこに祭壇を築いたり(『旧約聖書』創世記12:7)、また彼はヘブロンの樫の木のそばに住んでそこに祭壇を築いたりしている(創世記13:18)。アブラハムが息子イサクを捧げるために出かけたモリヤの地の山の上にもヤハウェが現われる(創世記22章)。ヤコブがベテルで意思を枕にして寝たときにも夢にヤハウェが現われたので、その石に油を注いでいる(創世記28:11-22)。 アブラハムなど古代イスラエルの族長たちは特別に神秘的なことが起こった場所に祭壇を立ててはいるが、もちろん彼らは石や木や山などをヤハウェとして崇拝しているわけではない。重要なのは、それらの象徴物が神と人間を結びつけるチャンネルになっているということである。やがてモーセの時代にヤハウェから十戒を授かると、それを刻んだ石版がそのチャンネルとして重要視される。これは石や木や山などの象徴物とは違って、持ち運びが可能である。ここに“移動する神”が成立した。これはモーセの時代には「契約の箱」と呼ばれ、のちには「主の箱」または「神の箱」とも呼ばれるようになった。 日本においては、神輿がこれに相当する。両者は形も似ているし、なによりも神が降臨(ないし臨在)する箱、これに乗って神が移動する箱である。古代イスラエルの契約の箱は、シナイ半島を40年も彷徨った。そして最終的にカナンの地に落ち着くことになる。この場合には最初から落ち着き先がだいたい決まっていたという点で崇神天皇時代の天照大神の移動とは微妙に違うが、天照大神の御神体である八咫鏡が十戒の石版のように各地を彷徨ったと考えると、なにやら両者は非常に類似しているように思える。 日本には、輿がいちど川に入って再び出てくるという祭があるが、これはヨシュア時代に主の箱がヨルダン川を渡った(ヨシュア記3章)ことと関連しているかもしれない。ヨシュアの場合には川の水がせき止められるという奇跡が起こっており、担ぎ手が水浸しになる日本の祭とは違うが、それでも記念として同じ象徴的行為がなされていると考えることは不可能ではあるまい。 では、天照大神はヤハウェなのか。ううん、ここまで断言するのはかなり難しい。むしろ日本の神道はヤハウェ信仰の祭儀形式に大いに影響されたという程度にとどめておくのが妥当かと思われる。しかし、ファンタジーとしては天照大神=ヤハウェ説を考えてみるのもおもしろい。 かつてこのシリーズで、南のユダ王国で信仰されていたヤハウェと北のイスラエル王国で信仰されていた太陽神とが、大物主神(または倭大国魂神)と天照大神とに対応することを暗示した。北王国の王族の始祖であるエフライムは、その母がエジプトの地オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテである。したがって北王国では実際には神の名のもとに太陽神が信仰されていたかもしれない。そして、北王国と南王国はダビデ・ソロモン時代の後は分裂したままだった。そのような南北対立が天山山脈の麓の崇神王朝に反映され、国家の分裂を回避するために二つの神を王宮から遠ざける戦略をとったのかもしれない。 ひょっとしたら北王国の出身者が天照大神を担ぎ、南王国の出身者が大物主神や倭大国魂神を担いでいたのかもしれない。王宮のなかで古代イスラエル人が勢力を拡大したために内紛が起こったというような状況を仮定することもできるのではあるまいか。疫病は民族の勢力争いからは説明できないようにも見えるが、当時の衛生観念からして対立勢力が水を汚染させるなどを画策すれば疫病は十分に起こりうる。そうすると今度は、どこから彼ら古代イスラエル人が王宮に入り込んできたかという話になるが、おそらくは神武天皇から崇神天皇までの妃を通じて外戚としてじわじわと天皇家に食い込んできたのだろう。 ![]() ↑この記事が面白かった方、またはこのブログを応援してくれる方は、是非こちらをクリックしてください。 「p(^o^) 和の空間」の Window Shopping |
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