テーマ:ニュース(100222)
カテゴリ:歴史と教育
読売新聞の夕刊紙面では国民投票法案成立のニュースとの並びで写真入りで大きく出ていたが、これは“外国勢力の排除開始”を暗示でもしているのだろうか? まあ、考えすぎだわな。(笑)
そうだ、そうだ~っ。がんばれ、がんばれ~っ。p(^o^)q 皇居は日本的なるものの象徴だから、ここが外来魚に荒らされるのは大問題だ。象徴的には、日本が外国に占領されるようなものだからね。誰が入れたんだか知らないが、日本の生態系を壊すような行為は慎むべきだ。 ずっと前に、こんな理屈を聞いたことがあるような。。。「釣ってきた魚を殺してしまうのは可哀相だから皇居のお濠に流したんだろう」と。そんなに可哀相ならば釣りなんかするな!と言いたい。ブルーギルやブラックバスがお濠の中の在来魚(の卵や稚魚など)を食べてしまうのは可哀相ではないのか? これまで平安に暮らしてきた在来魚が人間の勝手で滅亡に瀕してしまうのだ。へんなところでセンチメンタルな人間性を発揮しないでほしい。そんな人間の意識とはうらはらに、魚の世界は弱肉強食だ。知性的に発達した人間においてさえも異質な人々との共存は難しいのに、在来魚と外来魚の共存なんてできやしない。 釣り人にとっては、外来魚のほうが引きが強くて楽しいのだろうが、それならば特定の場所だけに限定してその種の釣りを楽しむべきであって、釣り果を自慢するために家にまで持ってきて、可哀相だから近くの川などに放つなどということはやめるべきである。自分の自慢のために日本の生態系を破壊するなど、自然を愛する人間とはとても言えない。それは必ずしも優しさではない。 少数の不心得者のために日本の生態系が破壊されつつあるわけだが、自分の小さな行動がそんな大きな結果を招くとは想像もできないのだろう。ゴミならば繁殖することはないが生物ならばいくらでも繁殖する可能性がある。そういうものを扱っているのだということは釣り人はよく理解しておくべきだろう。それは釣り人の基本的マナーである。悪いのは釣り人だけではなくて、たとえば外来種のペットを育てられなくなって放す人などもいる。これもまた物珍しさという人間のエゴを満足させるためにやっていることなのだから、それなりの社会的責任はもつべきだろう。エゴを満足させるための自由には、それを見合った社会的責任が課されるべきである。自由権は“錦の御旗”や“葵の御紋”ではないのだ。 ゴミの分別以上に、こういう面での環境教育は不可欠である。生態系を考える場合には、これまでの発想を少し変えなければならないのかもしれないから。他人に迷惑をかけないように楽しむというのはマナーとして当然なのだが、これまでのマナー教育は、他人の顔色などからすぐに気づけるような種類のセルフコントロールを教えるものだった。ところが、生態系に関しては、数年後・数十年後に他人に迷惑をかけてしまう現在の行為を想像できなければならない。これは教育に根本的な改革が求められているとも言えるのである。 人気blogランキング ↑このブログを応援してくれる方は、是非こちらをクリックしてください。 「p(^o^) 和の空間」の Window Shopping |
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