カテゴリ:短歌
栗木京子選の入選と佳作から、私の注目した歌にコメント。 門に立ち挨拶する朝 生徒よりわたしの声が恥ずかしそうで中学生は、ある意味まっすぐだから。。。 なんの邪心もなく挨拶できる。教師のほうはきちんと指導しようとか考えて、挨拶が挨拶になっていない部分がある。 日暮れどき南大門のゴキブリは国宝仁王を自在に歩む平然と歩き回るとは、仁王様よりゴキブリのほうが強いのかも・・・。(笑) 「帰ったぞ」夫偉そうに門限の午前一時に滑り込みたりまあ、午前一時というところがミソね。d(^-^) 「ちゃ~んと終電で帰って来たぞ。」と偉そうにしているのかな? ま、タクシーで帰ってくるときは平身低頭なのかもしれないが。(^^; 終電までは許容範囲となっているという夫婦関係が、妻のやさしさ? 透きとほる涎の口に笑まふ子の白帆のやうな門歯のひかり生えはじめた幼児のたった二本の前歯は、たしかに未来への希望があるような感じがする。 校門に一礼をして下校する 昭和一桁われの青春昔はね、教えてもらえるというのがありがたかった。今は、「教育を受ける権利がある」と、当然のように思わされている。お勉強だけでなく、お行儀だってある程度は学ぶ権利があるんじゃないかな。「無作法なヤツはうちの会社ではお断りだ・・・」なんて言われないためにも。 次の世も人として生れることあらば君の門下に学ばせ給えこういう一門をなすほどの先生は、なかなかいるものではない。師を信頼している者にとって、門下生という言葉はなかなか心地よい響きだ。 門札の父の名消さず二十五年 母は四人を育てあげたり主人の家を守ってきたということだろうか。昔は基本的に家は男系だったから、夫が亡くなってもこの家は夫の家と考えていた。そんな戦前の女性の力強い生き方を思い出させる。夫の名前があるから気丈に生きられるという一面がある。そこで自分が主人になると、「どうでもいいや」ということにもなりかねない。もっとも、家という身を律するものを捨ててしまったら、男でも「どうでもいいや」ということになってしまうだろう。家には個人を超えた力があるのだ。 校門を下りて右の細い道 孤独の道と名づけし十五ほとんど通らなくても何となく気になる道というのはあるものだ。そんな人通りの少ない道に孤独を見ていた十五歳という多感な時期の自分を回想している。 少年の紙飛行機はすこしだけ空の青さにふれて下りくる“すこしだけ”というのがいい。おそらく中学生の少年は、すぐにゴミゴミとした現実に引き戻される。空の青さに長く留まれるのは、高校二年生くらいかもしれない。二十歳をすぎると邪念が入ってきて空も真っ青ではなくなるんだな。(^^; 《『NHK短歌』のホームページ》 人気blogランキング ↑この記事が面白かった方、またはこのブログを応援してくれる方は、是非こちらをクリックしてください。 「p(^o^) 和の空間」の Window Shopping |
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