テーマ:ニュース(99452)
カテゴリ:天皇・皇室関連
いくらのんびり屋の私でも、こういうのはすぐにブログ記事にしないと・・・。(-_-;
じつに近視眼的な発想である。そもそも現在のイギリス王家はエリザベス女王で家系が一端切れたようなものだが、それにしても、男女を問わない長子継承にすることで、イギリス王家の家系はズタズタになる。彼らイギリス人は親子の継承であれば男系としての家系はどうでもよいのかもしれないが、これまで王族というのは男系で考えられてきたのだから、変更されればイギリス王家は歴史的意義を失うだろう。 ひるがえって日本でも、皇位を男女を問わない長子継承にしようと画策する人々が勢いを増すに違いない。彼らは、男女平等という理念に目が眩んだイギリスの愚かな選択(まだ検討段階ではあるが)を“進歩的”だといってそのまま採用したがるだろう。だが、そもそも王家の存在自体が“進歩的”ではない。だから、王家を大切に守っていこうとするならば、むしろ“反進歩的”にやるべきなのである。我々はこれを“伝統的”と呼ぶ。 国王(ないし天皇)というのは、自ら政治的権力をもたないにしても、国家統合の象徴である。ましてわが日本国では、天皇は日本民族の歴史的連続性の象徴でもある。そして、民族というのは男系でつながっていると見なされてきた。この二つの象徴機能を同時に満たすには、男系継承しかない。 国家統合という場合、王が国民を束ねるという(専制的な)あり方と、国民が自らひとまとまりになるという(民主的な)あり方とがある。しかし、後者の場合には何を中心にまとまるのかが難しい問題となる。日本国にとっては、その中心に担がれるのは天皇である。 あらゆる政治的決定は、国政を国民に委任した“象徴としての天皇”に帰される。国民が国政を政治家に信託するのだと憲法学者は言うかもしれないが、国会を召集するのは天皇であり、形式的にいえば天皇が召集しなければ国会は成立せず、内閣も組織できないので国政も成立しない。決定内容すなわちまとまりの具体相は国民に任せられているが、形式上は天皇が国家国民のまとまりの始源となる。国民の代表(国会議員)はしょっちゅう変わるし、法律もころころ変わりうるが、天皇の国会召集から政治が始まるという形式は変わらない。それゆえに不動の中心は天皇と見なされて国民に担がれるのである。 安易な民主主義では、なんであれ国会の多数決による決定を国のまとまりの中心とするだろう。だが、この場合には決定がなされたその数年間の民意にのみ基づくことになる。短期的な問題の決定はそれでもいいかもしれない。しかし、長期にわたって影響を与える決定であればあるほど、それは一時的な民意に左右されてはならないし、日本国の過去と未来が慎重に考慮に入れられなければならない。とくに皇位継承問題など、日本国が日本国であること即ち国家のアイデンティティに関わる政治的問題は、日本国の歴史を無視した決定をしてはならない。 ところで、皇位継承“権”などとしばしば言い間違えられるが、天皇は皇居や宮殿など広大な土地・建物を個人的に所有しているわけではないし、政治的権力をもっているわけでもない。天皇個人にあるのは、皇居の借地借家権のみということになる。なにやら非常に失礼な話になってしまうが、これは西洋の王族との違いである。天皇は国家であり、国家機関の一部として特定個人が皇位に即くのである。特定個人が天皇という地位を獲得するというよりも、天皇という地位が特定個人を吸収してしまうのである。この違いは大きい。 だから、天皇には個人の権利はない。むしろ逆に、日本の場合、天皇には無私の心で国民の幸福と安寧を祈る“務め”がある。憲法には明言されていないが、これは天皇の義務といってよい。あえて天皇の権利を考えるならば、文化的・宗教的にいって国家的祭祀を行なう権利がある。これはほかの誰もできない。 “進歩的”な人々は「権利、権利」と騒がしいが、よほど皇居に住んでみたい人ならいざしらず、天皇に即位したからといって一般的な意味での特権など全く得られない。否、そんな人は我欲の塊で、無私の心で国民の幸福と安寧を祈るなんて窮屈な務めを同時に負わされるのはそれこそ“人権侵害”にほかならない。(笑) 天皇になると、権利より義務(務め)のほうが遙かに大きくなるだろう。 皇位の男系継承というのは、男女差別というよりも、むしろ男系氏族の始祖である天照大神およびその男系子孫の祭祀という“宗教的制約”である。女系になれば、婿が天孫族でないかぎり、別の氏族の子に祭祀の務めを継承させることになる。これは宗教的には皇祖皇宗に対する裏切りにも等しいものであり、そのような苦しみを未来の女性天皇にさせていいものか。 天皇陛下は、たしかに日本国のトップとして仰ぎ見られ、尊敬され、称賛されるが、皇后陛下だって負けず劣らず仰ぎ見られ、尊敬され、称賛されているし、敬称からして天皇と同じである。皇太子と結婚しなければただの平民にすぎなかった女性が、そういう最高のポジションに立てるのである。皇室を尊敬する人々の中には、皇后陛下を“国母”とまで言う人もいる。日本はべつに女性を蔑視している国ではないし、天皇は皇族(天孫族)の代表、皇后は一般国民の代表と考えれば、日本国民は女性のほうが優遇されているのではないかと思えるくらいである。 国民は、わざわざ内親王殿下がたを慮って男女差別をなくそうとするより、「税金で生活して社会的に優遇されているのだから、それ以上は望むな」と言うべきではなかろうか。ま、内親王殿下がたは日本の歴史的伝統を踏みにじってまでも自分が皇位を継承したいと思うほど欲深くはあるまい。むしろ、男女平等という理念に酔っている自称進歩主義者が、内親王殿下がたに投影している自らの権力欲に気づくべきなのである。皇位継承における男女同権や男女平等を実現しようというのは、皇室が求めている問題ではなく国民(のごく一部)が求めている問題である。皇室には皇室の伝統があるのだから、それに反しないかぎりで最大限に男女同権や男女平等を考慮すればいい。 人気blogランキング ↑この記事が面白かった方、またはこのブログを応援してくれる方は、是非こちらをクリックしてください。 「p(^o^) 和の空間」の Window Shopping |
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