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![]() 前回の日記では、「三郡山」と「壱岐島」を結ぶ”赤い軸線”(下の地図画像に図示)を中心に、その軸線上に鎮座する「筥崎宮」と「聖母宮」の深い関係性について解説した。 そして今回は、「筥崎宮」の創建(西暦923年)において、少なくとも【三本の祭祀線】(”赤い軸線”を含む)の〈交点〉を鎮座地として選定した可能性について解説してみよう。 ![]() そこで上の地図画像は、今回の「筥崎宮」の御神前で開催された展示会がキッカケで見出せた上記の【三本の軸線】(赤・青・緑)を、関連する山々や島々や各神社の名称と共に図示したものである。 前回の日記で”赤の軸線”については解説済みなので、今回はまず”青の軸線”に関する解説を試みたい。 この”青の軸線”の右端に「大分宮」(だいぶぐう)と図示したが、この神社の正式名は「大分八幡宮」(福岡県飯塚市)と称し、西暦726年の創建と伝わる当社は「筥崎宮」の元宮とされている。その経緯を記すと、西暦921年に御託宣があり、「筥崎宮」の神霊は「大分宮」から西暦923年に遷座されたということだ。 つまり”青の軸線”は、西暦923年に斎行された「大分宮」から「筥崎宮」への遷座の道筋を、直線で示したということになる。ここで注目したいのは、その二つの社を結ぶ軸線上に「若杉山(標高 681m)」が存在し、その山頂部にある「磐座群」を透過する《三点一直線》の祭祀線が形成されているところである。 ![]()
まさかの展開に驚いたと同時に思い出したのは、地元の山口県山口市に鎮座する「今八幡宮」の主祭神が、今でこそ「筥崎宮」と同神の「応神天皇」なのだが、当社に祀られた当初の主祭神は「宇治皇子」、すなわち「菟道雅郎子皇子」であったことである。 加えて、隠された歴史を伝承してきた『出雲口伝』(以下に参考文献を紹介)によると、この「雅郎子皇子」は「応神天皇」の後を継いで、(第16代の)天皇として即位したことを伝えている。(※通常の歴史認識では、第16代天皇は「仁徳天皇」とされている。) ※参考文献・・・書名『』仁徳や若タケル大君』・富士林雅樹 著(大元出版 初版2020年) 以上のことを踏まえて俯瞰すると、この「筥崎宮」から「乙子神社」へ繋がる”緑の軸線”は、「応神天皇」から「宇治天皇」への皇位継承を暗示させるものであり、それは”分かる人には分かる”という痕跡を、往時の一大転期を見守った覚者が、後世に伝えるべく残した”祭祀線”だったのではあるまいか・・・。 さて、最後に全体を包括すると、上記の「筥崎宮」の鎮座地に交わる【三本の祭祀線】を明確に認識したのは10月29日、旧暦では9月9日の「重陽の節句」の当日にして、「菊の節句」とも言われる見頃を迎えた「菊」の最盛期を象徴する月日であった。 思い返せば”しかるべき聖地”にて・・・来る展示会では「菱型30面体」(菊花紋章の原型)を基盤とする造形を中心に披露するように・・・との想いが浮かんだことから、展示作品の選定をしたのであり、まさしく菊花の香る最盛期に、「筥崎宮」を【三本の祭祀線】の〈交点〉と再確認できたのであった。 ※関連記事・・・「菊花紋章」の原型は「菱型30面体」と洞察、そして・・・ 末尾画像は、平面図形の「菊花紋章」を、「菱形30面体」(橙色の軸線)の立体構造として表現した作品で、その内部に五つの「菱形12面体」を五色に色分けし、全体を緻密に構成したところが特徴である。
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最終更新日
2025年11月04日 10時07分44秒
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