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真理探究と歴史探訪

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2021年10月23日
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カテゴリ:カテゴリ未分類


さて今回の日記は、前回のシリーズ(特別編)を締めくくる記事となる。

前回の日記では、岩屋山の中腹にある「鏡岩」を取り上げ、縄文時代の古代人が”磐座(いわくら)”を活用した天体観測の痕跡から、毎年10月23日の日の出が「冬の始まり」を告げる月日と記した。

ということで今朝、その「冬の始まり」を指標する朝日を拝すべく、当山の「鏡岩」の後ろから10月23日の曙を撮影した画像が上である。

予想通りであったとはいえども、太古より定められし山頂より昇る「曙(あけぼの)」の美しさに感動・・・しばし胸を打たれた。




次に上の画像は、10月23日の月日を刻む山頂から昇ったばかりの、赤い陽光に照らされ神々しく反射する「鏡岩」を撮影したものだ。



そして朝日に輝く「鏡岩」の中央に立ち、「冬の始まり」を告げる陽光(上の画像の紫色の線が示す)を浴びながら・・・この鏡のように反射する光は、果たして何処に向かっているのだろう・・・と、「鏡岩」を背に自分なりに探ってみた。

すると、やはりその反射光(上の画像の黄色の線が示す)が向かう先は、かの「祝島」だと体感した。



そこで上の画像は、その私的に「鏡岩」と名付けた岩の上に乗り、その凹面鏡のようにカッティングされた磐座の精細な断面を、ほぼ真上から撮影したものである。

興味深いことに、今回この岩上に立ったことで気付いたのだが、この上の画像では左端に、どうやら大きな「円形」が刻まれているのである。また、同じ岩を真横から映した3つ上の画像には、右上の岩の最上部に、その「円形」を示す線がクッキリと刻んであるのだ。

この「鏡岩」の最上部に刻まれた「円形」だが、今の私にはなぜか「魚の目」に観えている。どうやら、その目の左先には「魚の口」のような線刻があり、反対側の先端には「魚の尾」のような線刻があるので、もしかすると本日の10月23日の陽光が「鏡岩」を反射する日から、沢山の魚が取れる”豊漁の季節”を迎えることから、この岩の最上部に古代人が線刻を施したのかもしれない・・・。



さて、このシリーズでは何度も取り上げた岩屋山より瀬戸内海を挟み、九州方面の遠方に望むことのできる南方の三山が、「由布岳(ゆふだけ)」と「鶴見岳(つるみだけ)」、そしてその前方に色濃く見えるなだらかな山並みの頂が、豊前国一宮 宇佐神宮の神体山である「御許山(おもとさん)」である。

この上の画像は、その山口市秋穂二島の岩屋山より「南方の三山」を撮影したものであり、その三山の内訳を分かりやすく図示した画像が下である。



いよいよ「冬」の季節を象徴する〔山口と九州を貫く南北軸〕を含む日本列島は、本日をもって「冬の始まり」の月日を迎え、そして「冬の終わり」を示す月日たる2月20日までの約120日間を経ていくなかで、おそらく”大きな変容”の時期を迎えたと、そのように感じ始めた今日この頃である。







最終更新日  2021年10月24日 00時10分07秒


2021年10月10日
カテゴリ:カテゴリ未分類



「岩屋山」の磐座群については、その全体像を過去記事の(1)と(2)で書いた。

☆過去記事・・・​「岩屋山」の磐座群と〔山口と九州を貫く南北軸〕(1)

☆過去記事・・・​「岩屋山」の磐座群と〔山口と九州を貫く南北軸〕(2)

実はその後も、当地の臼美歩道(うみほどう)」という遊歩道を訪れ、その道沿いにある様々な磐座を観察したのだが、その中でもとりわけ印象に残る磐座を「鏡岩」と名付け、今回は(特別編)として取り上げることにした。

そこで冒頭の画像は、その「鏡岩」(画像の手前左側に部分的に映る岩)の斜め背後から、海に突き出た半島に並ぶ小山の鞍部(凹みの部分)の遠方に浮かぶ「祝島(いわいしま)」に狙いを定め、ここから東南東に向かって撮影したものである。

(※上の画像では「祝島」が分かりづらいので、下方にその拡大画像と同島を”縁取り”した画像を掲載。)


つまり今までの経験から、この洗練された加工の形跡のある「鏡岩」を見出した時、この場所に「鏡岩」を置いた”背景”があると判断した私は、この岩の前に立って前方を眺めているうちに視認した対象が、二並びの小山の凹部に浮かぶ「祝島」だったというわけだ。

・・・やはり古代人は、広範囲に徹底した地文測量の末、しかるべき場所に磐座を設置しており、特にこの「鏡岩」は太陽光の反射を利用した「祝島」との”光通信”を目的とする施設ではなかったか・・・と直感した次第である。

※関連記事・・・​「祝島」の磐座群(下)​​

ちなみに、この「鏡岩」と「祝島」の位置関係は、当日記の一番下に掲載した地図に詳しいが、ここから「祝島」は直線距離で約60㎞も離れている。加えて微かではあるが、画像右端の海上には「姫島」(直線距離で約40㎞)が映り、また画像左端の遠方には「向島」(直線距離で約17㎞)の上部が映っている。



さて、この上の画像と下に続く2枚と計3枚の画像は、その私的に「鏡岩」と名付けた一つの大きな磐座を、3つの角度から撮影したものである。

この3枚の画像を見比べると、この岩を太陽光を反射する鏡と見立てるとすれば、いわゆる「凹面鏡」の様相を呈していることが判ると思う。



その鏡岩の凹面は、ほんの少し斜め下方に傾いているのだが、おそらくそれは朝日を集光し反射する目的があり、遠方の「祝島」を含む近隣の対岸域等に、強い陽光を伝達する意図があったと推察できる。



上の画像は、古代人によって凹面状に加工されたと思しき「鏡岩」を真正面から撮影したもので、午前8時頃の朝日が満面に当たった風情である。

おそらくこの「鏡岩」は、この場所に古代より据えられたままの状態で維持されてきたと考えられ、現在でも白っぽく陽光を反射する岩石の、石質を見極めて選択したであろう古代人の卓越した洞察力を垣間見て、深い感動に包まれるのであった。



次に上の画像は、二つの小山が並ぶ凹部の海に浮かぶ「祝島」が見えるように、冒頭画像を少し拡大したものである。ここから見た「祝島」は、横に長い台状の島だが、その島の中央部が少し凹んでおり、その凹みから燦然と昇る朝日が想定され、感無量になったことを憶えている。

そして下の画像は、観測地の「鏡岩」を起点として、上の画像に映る「祝島」に向かって黄色の軸線、その「祝島」を挟んで左側の山頂に向かって緑色の軸線、同じく右側の山頂に向かって紫色の軸線と、計三本の軸線を引いたものである。



さらに下の画像は、上の画像に引いた三本の軸線を地図上に示したものだ。実は、下の地図に線引きする過程で判然としてきたのは、起点となる東西軸上の「鏡岩」から、一方の山頂を貫く紫色の軸線が真東から南に約15度の角度を形成し、もう一方の山頂を貫く緑色の軸線が真東から南に約30度の角度を形成するということであった。

実はこの「鏡岩」から見て、紫と緑の軸線が示す山頂から昇る朝日は、暦の如く年間の決まった月日になっており、この紫の線が示す山頂から朝日が昇る月日は毎年10月23日頃と2月20日頃で、緑の線が示す山頂から朝日が昇る月日は「冬至」の12月21日頃である。

つまり、昇る朝日の顔を出す位置が、紫の線が示す山頂から緑の線が示す山頂へ至り、そこからまた紫の線が示す山頂に戻るまでの一往復となる期間が、10月23日(冬の始まり)から「冬至」を挟んで翌年2月20日(冬の終わり)までの《冬期の120日間》となるわけだ。

この「冬」の始まりから終わりまでを《冬期の120日間》として”冬の時期”とする捉え方は、既存の「グレゴリウス暦」等の【太陽暦】に基づく暦法には見受けられず、岐阜県下呂市に存在する「金山巨石群」に残された「古代太陽暦」の痕跡により解明された『縄文』系譜の太陽観測に基づくものとされており、上記の捉え方については、以下の関連サイトにある該当記事を参考にさせていただいた。

※関連サイト・・・​日本の考古天文学『 金山巨石群と太陽暦 』
​(関連サイト内の該当記事…〔冬至をはさんだ約120日間の観測〕と題し3ヵ所に記載)

​☆当日記の関連記事・・・​【中央】を担う祭祀場を巡る(1)
​☆当日記の関連記事・・・​【中央】を担う祭祀場を巡る(2)
​☆当日記の関連記事・・・​【中央】を担う祭祀場を巡る(3)


ちなみに上の画像では、紫の線が示す山頂の、すぐ左隣の山頂に向けて(下の地図では紫の線のすぐ上の線)伏線として細い線を描いているが、この双耳峰の凹みがあることで、「冬」の”始まり”と”終わり”を的確に指標する基準になったと類推でき、おそらく縄文時代には重要とされた「冬の時期」において、特に冬場における太陽観測の施設であり、また陽光を反射する施設でもあった「鏡岩」を起点とし、《冬期120日間》の日数を数えたであろう古代人の営みが、今や私の脳裏に映るかのようである。



(地図左側の半島に描いた曲がりくねった緑の線は、この「鏡岩」を含む磐座群が散在する遊歩道だ。)

ところで、冒頭から何度も取り上げてきた黄色の軸線が示す「祝島」​から昇る朝日の月日はいつ頃であろうか・・・。その位置付けから憶測した私なりの見立てでは、横に長い同島からの日昇期間が「冬期の120日間」に2回あって、一方は12月2日~12月12日頃(同島の中央部からの日昇は12月7日頃)で、もう一方は12月31日~1月10日頃(同島の中央部からの日昇は1月5日頃)となる。

この「祝島」での2回の日昇期間が意味するところは判然としないのだが、後方の日昇期間が現行の「正月」の期間と重なるところが興味深い。いずれにしても、ここ岩屋山の「鏡石」からの太陽観測において、「祝島」との関係から見出せる2回の日昇期間に、おそらくは太古より連綿と続く縄文系の祭祀があったことが想像され、胸が高鳴るのであった。


今回の(特別編)として取り上げた、この〔山口と九州を貫く南北軸〕の軸線上にある岩屋山の「鏡岩」は、上記のように「冬期の120日間」を観測するための特別な施設と認識できることから、かねてよりこの南北軸を《「冬」の 南北軸 》と表現してきたことと、絶妙に符合すると感じ始めた今日この頃である。

☆関連記事・・・​「弥生」から『縄文』への意識転換(上)…山口と九州を貫く南北軸…

☆関連記事・・・​「弥生」から『縄文』への意識転換(下)…「宇佐」を要とする軸線…







最終更新日  2021年10月10日 21時30分26秒
2021年09月21日
カテゴリ:カテゴリ未分類


次に上の画像は、前回の日記で解説した磐座(重複した石板)を、下方から山頂に向かって撮影したものだ。

そこで画像の一番右側の、少し突き出た感じの岩に注目してもらいたい。以下に掲載する三枚の画像は、この右側(外壁)の巨大な石板について、三つの角度から撮影したものである。







上掲の三枚の画像に映る、この巨大な石板を見比べると分かるように、まるでこの岩面を平板状に削り、平らに均したかのようであり、古代には「鏡」のように磨かれていたことを想像する。

そして・・・この磐座を造形した古代人は、この石板を使って何をしようとしたのだろう・・・と自分に問いかけた時、思わず「光を照らす」との直観があり、すかさず周囲の景色を見回して目に留まったのが、下の画像に映る景観であった。

そして、前方の山並の遠方に薄らいでみえる山(山並の中央部)が気になったので、方位磁石で確認すると「真東」であった。

・・・なるほど、そういう”仕組み”になっていたんだ・・・と私なりに合点がいったので、その簡単な解説を以下に試みることにした。



おそらく・・・この巨岩の断面(太陽光の反射面)が少し下方に向かうよう全体として斜めに設定してあるのは、”春分・秋分”の真東から昇る朝日の反射光を、対岸の朝日が当たらない湾岸域で生活していた古代人へ伝えるための、”反射板”(反射鏡)としての役割があったのではあるまいか・・・。

そこで上の画像は、ここまで解説してきた巨大な石板の上から見て、「東」となる秋穂湾の方面を撮影したものだ。その画像中央部の遠方に見える山が、山口市の東隣となる防府市は向島の「錦山(標高354m)」である。



つまり、この「岩屋山」の山頂部にある磐座から見て、春分や秋分の真東から昇る太陽は、「岩屋山」から見て真東となる「向島」の山上から昇り、その朝日を受けて山頂の磐座が反射する光は、古代の地域住民に年間の大きな節目となる日時を伝えていたと考えられるわけだ。

おそらく春分・秋分を挟んだ7日間くらいは、朝日を浴びた磐座の発する反射光が、特定の地域(場所)を照らし続けたと推察できる。



最後に、この遊歩道を登り始たところで出会った「磐座群」を紹介しておこう。

まず、緩やかなスロープを北方に向かって登っていくと、この上の画像に映る「磐座群」に遭遇する。

この磐座の並びは、南北の方向性を感じると思って反転して前方を見遣ると、案の定というか海原の向こうの山並に、「由布岳・鶴見岳・御許山」の三山を見出せたことが印象に残っている。



次に上の画像は、その一枚上の画像に映る中段の磐座に近づいて撮影したものだ。

いかにも古代人が、この三つの大岩を組み合わせて、まるである天体が狙いすました日時に出現する、”その方向”を指し示した感じが伝わってきて、嬉しくなったのを憶えている。

また下の画像は、上の画像に映る磐座の、さらに上段にあった磐座で、なかなか複雑な組み合わせで構成され、やはりこれも矢印のような”ある明確な方向性”を感じさせる造形であった。

もちろんこの他にも、ここかしこに意味深な磐座が点在しているので、この「臼美(うみ)歩道」の散策は、イワクラ研究者”や”巨石愛好家”にとって、周囲を展望できるの美しい景観も含めた、たまらないスポットになりそうである。


そういえば本日は、今年の「中秋の名月」(旧暦8月15日)の月日に相当する9月21日(火)である。

「月」の満ち欠けを基準とする「旧暦」において、年間で「満月」が最も美しく輝く日取りに、この日記を掲載できたことを有り難く思う。







最終更新日  2021年09月21日 17時14分32秒
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つい先日、山口市秋穂二島の「岩屋山(標高101m)」をピークとする全長約1.3kmの​臼美歩道(うみほどう)」という遊歩道(今年の3月に完成)を歩いてみた。(冒頭の地図では青のマーキングの位置)

するとそこには、素晴らしい景観と古代人が設営したと思われる「磐座群」が待ち構えており、結果として自説の〔山口と九州を貫く南北軸〕を強く後押ししてくれる軸線を確認することができた。

この〔山口と九州を貫く南北軸〕については、この日記で何度か取り上げているが、以下にリンクした関連記事に詳しい。

※関連記事・・・観えてきた「夏の大三角」の地上投影図

※関連記事・・・〈弥生〉から《縄文》への意識転換(上)…山口と九州を貫く南北軸…



この遊歩道を歩いていてまず驚くのは、周囲を見渡せる美しい景色もさることながら、ここかしこに意図的な配置が読み取れる磐座群があることだった。

まず上の画像は、「岩屋山」の山頂に向かう最終地点の凹部に、まるで石橋を架けたかのような立派な磐座である。私なりの見立てでは、「高さ約3m×長さ約10m×幅約50cm」の平らで大きな石板を、画像では左右に3~4枚重ねて、山頂への”架け橋”を造った気配を感じる構成だ。(次の日記でさらに解説)

この画像の撮影地点は、山頂からほど近い場所で、そこから下方に向かって、この磐座が指し示す「南」の瀬戸内海方面を撮影したものである。

後で調べて分かったのだが、冒頭地図で示したように、ここ「岩屋山」と海を挟んだ「御許山」(おもとさん/大分県宇佐市に鎮座する豊前国一宮[宇佐神宮]の神体山)は、精確な南北軸を形成していたのであった。

さらに今回、この記事を書いている際に判明したのは、(これも地図で示したように)山口の「御伊勢山」と大分の「由布岳」、そして山口の「火の山」と大分の「鶴見岳」が、同様に南北軸を形成していることであった。



そこで、上掲の岩屋山から南方を映した画像の上方に、瀬戸内海の遠方に映る山々が薄っすらと映っているのだが、上記の”三本の南北軸”が形成する南の起点たる三山を拡大して示した画像が上である。

〔山口と九州を貫く南北軸〕の関係性を、ここまで明確に分からせていただけるとは・・・大いなるものの導きに感謝である。

これでいよいよ〔山口と九州を貫く南北軸〕は、私的感得を超えた”普遍性”を帯びてきたと言えよう。(つづく)


《 追 伸 》
ここで以下、冒頭地図に示した山口市の「火の山(標高304m)」と「御伊勢山(標高183m)」に関する記事に加え、(冒頭地図には示さなかったが)同じ山口市の地元「小郡(おごおり)」の山を代表して「禅定寺山(標高392m)」に関する記事を添えておく。

☆関連記事・・・ふるさと「山口」の山野を歩く(5)… 火の山 …

☆関連記事・・・ふるさと「山口」の山野を歩く(7) … 御伊勢山 …

☆関連記事・・・ふるさと山口の「県央部」を観る … 禅定寺山 …







最終更新日  2021年09月21日 21時58分50秒
2021年09月19日
カテゴリ:カテゴリ未分類


日本最高峰の「富士山」と本州最西端の「毘沙ノ鼻」(山口県下関市)を結ぶ軸線(冒頭地図の赤線)と、「山口と九州を結ぶ南北軸」(萩ー山口ー宇佐を貫く青線)とのクロスポイント(交差点)が、はたして県内の何処になるかについては、かねてより気になっていた。

そして、ようやくその場所を知る時が来たのであろう・・・様々な条件が整って”ここがクロスポイントだ!”と直感する運びとなり、現地を訪れたのは今年(2021年)の5月末であった。

そこで下のリンクは、まず前提となる上記の”「富士山」と「毘沙ノ鼻」を結ぶ軸線”を、なぜ引くことになったのか・・・その経緯等を書いた記事である。

※関連記事・・・・・・観えてきた「扇(奥義)」(上)



地図を広げて”ここに違いない”と見出した場所は、山口市吉敷に鎮座する「畑河内神社」であった。

上の画像の、田植えを終えたばかりの田んぼの先に、こんもりとした小さな森があるが、この樹林のなかに当社は鎮座し、その境内にクロスポイントの「磐座」は存在した。



もちろん当社は初めての参拝だった。その参道の入口は、田んぼの先にある丘陵部の、ちょうど反対側となる付け根にあり、そこから上方の境内地に向かって、上の画像のように急な階段が続いていた。

そこで上の画像の、当社への入口となる石段の左側に、「肥中街道」と刻まれた石碑が確認できると思うが、以下のように関連サイトにあった解説を纏めてみた。

◎歴史の道「肥中街道(ひじゅうかいどう)」

周防と長門(現在の山口県域)を統一し山口に拠点を定めた大内氏の時代に、「肥中街道」は領国の西半分を横断する道として整備された。山口の中心部 道場門前の”安部橋”から吉敷地域を経て美祢市を通り、大内氏の海上支配の要港であった下関市豊北町の”肥中港”に至る約62㎞を結ぶ。

この「肥中街道」は、守護大名の大内氏が朝鮮王朝や中国大陸(明との勘合貿易)との
交易窓口などに使ったといわれており、肥中港の先は日本海、響灘、玄界灘、対馬、朝鮮半島とつながり、その位置は"海の道"の拠点であった。

※ちなみにこの石碑は、ここ吉敷地域の街道沿い(計16ヵ所)に、今年の3月に設置されたばかりであった。



さて急な石段を登り、高台に鎮座する当社拝殿と、その左前に根を張る「磐座」を映した画像が上だ。

当社の境内にある「磐座」は、大きく二ヶ所に分かれており、上の画像のように拝殿前の左側に”小さな磐座”、そして本殿背後の左側に”大きな磐座”を確認することができる。



まず、拝殿前の左側にある「磐座」を撮影したものが上の画像である。これまでも社殿の近くに存在する数々の「磐座」を見てきたが、久しぶりに醍醐味のある佇まいであった。


同じ「磐座」の別角度を撮影した下の画像を見れば分かるように、全体の半分くらいは草に覆われていたのだが、それでも威厳あふれる存在感を漂わせていた。



しばらく見ていると…今すぐにでも周囲の草を除去して、その全貌を様々な角度から見てみたい…という強い思いが湧くほどに、魅力的な「磐座」であった。



そして次の画像は、本殿裏手の広い範囲にあって、まるで渦を巻くかように山型に組まれた貫禄のある磐座群で、その中央部から新緑のカエデの木が自生していたのも印象的であった。



その加工した大岩を意図的に配置した雰囲気が伝わるように、同じ磐座群の上方部分を別角度から撮影した画像が上だ。

その苔むした大岩のカット面は、ここから天体観測や地文測量をするために必要な”ある方向”を確実に示しているはずだと、いつものように如実に感じた次第である。



そして、実はこの”大きな磐座”の左側に続く一段と高い場所にも、ここかしこに小さな石組みが散見されたが、なかでも特徴的だったものが、上の画像に映る石組みである。

それは上下の画像のように、手前にある一つの扁平な石と、向かい側にある直立する二つの石の、計三つの石組みであった。



そういえば、おそらくこの石組みが、当社の境内にある磐座群の中で、一番高い位置にある石組みでもあった。

そこで上の画像は、この三つの石で東西南北の”四方位”を示すかのように配置された石組みを、上方から撮影したものである。(方位が分かるよう下方に磁石を置いてみた)

まさしくこの石組みが、浮上してきたクロスポイントの”中核”を象徴する「磐座」だといえよう。

​​

上の画像は、当社境内の西側から、北方の山々を撮影したものだ。ちなみに、右側遠方に見える電波塔の立ち並ぶ山が「西鳳翩山(標高 
742m)」である。そして、上の画像の左側に映る小道が、おそらく上で解説した北浦方面に続く「肥中街道」であろう。

その後、この
「肥中街道」の終点となる「肥中港」を訪ねる機会があり、その港に近い素敵な浜辺にて、島々の狭間に沈む幽玄な夕陽を撮影した画像が下である。








最終更新日  2021年09月19日 23時08分28秒
2021年09月17日
カテゴリ:カテゴリ未分類
​​

さて、冒頭の地図にも示したように、これまで「鯖釣山」を中心とする地域で、主に「湯玉」に縁の深い社寺を紹介してきたが、その「鯖釣山」から東方に直線距離で約11kmのところに「狗留孫山(くるそんざん/標高標高 616m」がある。

(※上の地図では「鯖釣山」と「狗留孫山」の関係性を示そうと、双方の山頂から二本の東西線を引いてみた。ちなみに、この二本の緯度の間隔は約200mである。)

その「狗留孫山」の山麓に、「狗留孫山 修禅寺」(冒頭地図の右側)という知る人ぞ知る名刹が鎮座しているので、今回の連載(下)の記述は、この密教寺院の紹介から始めよう。(以下は関連サイトより)



「狗留孫山 修禅寺」は、長府毛利家の祈願寺。長府藩の庇護を受けて栄えた真言密教寺院です。

由緒は古く古墳時代にまでさかのぼり、本堂横にそびえたつ巨石は自然崇拝の対象とされ、

後に観世音菩薩の化身といわれるようになりました。

奈良時代には、東大寺建立の四聖の一人〔行基〕が、狗留孫山で修行したとされ、平安時代には、
弘法大師〔空海〕が狗留孫山に登り、「十一面観世音菩薩」を彫刻して奉安しました。

これが現在の本尊となっています。

臨済宗開祖〔栄西〕も狗留孫山に登り、それぞれの聖人が狗留孫山の観音岩に、

観音菩薩の尊容を感得したということです。(以上、転載文)



以前、縁あって当寺院の参詣後に、「狗留孫山」に登頂した際の記事は以下。


※関連記事・・・「秋の旅」の余韻




そこで上の画像は、先日登頂した「鯖釣山」と並ぶ「湯玉城山」の山頂から、ほぼ真東となる「狗留孫山」を撮影したものだ。威風堂々とした貫禄のある山である。

上記のように、当寺院の歴史に〔空海〕の伝承があるのだが、より詳しいサイトを参照すると

・・・平安時代の初め、大同元年(806年)中国「唐」より帰朝された真言宗の開祖 弘法大師〔空海〕は、九州は筑前箱崎沖の船中より、はるかに「狗留孫山」の霊光を拝し、翌年大同2年(807年)霊光を目指して登山されました。・・・


とあるので、あの平安時代の宗教界を代表する〔空海〕が、「狗留孫山」に登頂したのは史実であろう。

そして今回、この記事を書いている過程で、その史実を裏付ける”ある「仮説」”に遭遇したのであった。

実はかねてより、ここで取り上げる下関市の「狗留孫山」の緯度が「北緯34度13分」であり、
〔空海〕が開いた真言密教の聖地「高野山」とは同じ緯度と認識していたのだが、その「仮説」との遭遇により、さらにこの緯度線上に〔空海〕の生誕地とされる香川県の「善通寺」や、〔空海〕が修行した中国は長安(現在の陜西省西安)の「青龍寺」までが、ほぼ同緯度となる東西の軸線上に並ぶことを知ることになったのであった。


その”ある仮説”を
簡単に説明すると・・・〔空海〕は”太陽の影”を利用してかなり正確な緯度を測定する測量方法を、あらかじめ知っていたうえで、長安の「青龍寺」を起点とする東の延長線上に、「善通寺」や「高野山」を置いたのではないか・・・ということである。

・・・となれば、「北緯34度13分」の緯度線上にある「狗留孫山」(北緯34度12分52秒)は勿論のこと、その東方の海側にあって寄港地になったであろう「湯玉」や、ほぼ同じ緯度となる「鯖釣山」(北緯34度12分57秒)にも、往時の〔空海〕を先達とする一行は訪れていたと考えられるわけだ。

それにしても、こんな広範囲な話の展開になろうとは、この三部作となる連載を書き始めた当初は思いも寄らなかったのだが、ご参考かたがた以下、「善通寺」が麓に鎮座する象頭山(大麻山)に登った関連記事(1)と、開創1200年を迎えた年に参詣した「高野山」にまつわる関連記事(2)を紹介しておく。


※関連記事(1)・・・
四国行脚の巻(1)… 象頭山(大麻山)


※関連記事(2)・・・高野山 開創1200年


先に弘法大師〔空海〕の業績に関連して、「北緯34度13分」の東西線上にある中国は長安の「青龍寺」を取り上げたが、最後はその寺院と同じ緯度にある「湯玉」と、1973年に中国で発見された古代遺跡「河姆渡遺跡(かぼといせき)」との関係を少し紐解いて、この連載を終えることにしたい。

この
「河姆渡遺跡」は、中国浙江省に紀元前5000年~3300年頃にかけて存在した新石器時代の遺跡で、発掘調査から稲(水稲)の栽培が人工的かつ大規模に行われていたことが判明し、世界でも最古の稲栽培の例とされている。

驚くことなかれ…この
「河姆渡遺跡」から見た「湯玉」の位置が、真東から北に約30度となる「夏至の日の出」を示す”聖なる方位”となることから、「河姆渡遺跡」の周辺地域で稲作農業をしていた古代中国の人々が、「湯玉」に狙いを定めて移り住んできた…という説があるのである。


この説を知った時、まず私の脳裏に浮かんだのは、今回が初めてとなった「鯖釣山」の登山中に、その山頂に近い丘陵地で見出した、全体として”夏至の日の出(冬至の日の入)”を示す「磐座群」であった。

また、この
「鯖釣山」を神体山とする「宇賀八幡宮」に祀られた祭神「宇迦御魂大神」の「宇迦(ウカ)」とは”穀物・食物”を表すことから、この神名は「稲に宿る神霊」を意味することになるので・・・もしかすると、太古の稲作農業の痕跡(河姆渡遺跡)が発見された揚子江下流域から、海を渡って「湯玉」に移住した人々がいて、元々「湯玉」に漁猟を主に生活していた縄文系住民と合流し、現在の「宇賀八幡宮」を拠点に周辺地域を治めていたのかもしれない・・・という想いが、自然に湧いてくるのであった。

私にとって第二の故郷「湯玉」の、先人たちによって連綿と築き上げられてきた歴史は、これまで解説してきたように別格の地勢だったことも含めて、なかなかに”根が深い”と感じ始めた今日この頃である。







最終更新日  2021年09月17日 18時26分42秒
2021年09月15日
カテゴリ:カテゴリ未分類


さて、いよいよ「鯖釣山(さばつりやま)」への登山の様子を記すことになるが、その前に幕末の頃の「湯玉」の歴史について少し触れておきたい。

当地の〔湯玉浦〕は北浦にある漁村の一つだが、この「鯖釣山」が浦を守るように聳えていたため、良港として「北前船」も寄港しており、旅館なども設置され栄えていたそうだ。

かの吉田松陰は”北浦巡視”の際に「湯玉」に宿泊し、松陰の日記『廻浦紀略』には…150戸で近頃200余戸になった…と書かれ、往時の繁栄の様子が感じられる。また同日記には、湯玉の「善念寺」についての記載があり…すこぶる高朗の地にある…と書かれている。(山門傍に松陰来訪の石碑あり

ちなみに、この「鯖釣山」の山麓に鎮座する「善念寺」(地図上に表示)は、確かに〔湯玉浦〕を一望できる高所にあり、寺内には長府藩初代藩主 毛利秀元の位牌が安置され、藩の庇護を受けてきた由緒ある寺である。

また慶応3年(1867年)4月、「湯玉」の庄屋 石川良平の長女”お友”は、奇兵隊軍監 山縣狂介(有朋)に嫁ぎ、後の山縣有朋夫人 山縣友子となっている。(婚礼の儀は湯玉の石川家邸宅にて)

実は先ほど「湯玉」に関する歴史を調べる過程で、松陰の門下生であり明治維新の功労者となった山縣有朋の正妻が「湯玉」の出身であったと知る運びになり、山縣公に少なからず思いを寄せる私としては感慨無量であった。

◎関連記事・・・明治の元老 山縣有朋公の誕生地を訪ねて


さて、ここで本題に戻ることにしよう。諸条件が整った2021年9月5日(日)、冒頭の地図にある「鯖釣山(標高 182m)」と少し右上にある「湯玉城山(標高 192m)」と、この双耳峰たる両山への初めての登山が実現したのであった。

そこで今回は、冒頭地図に示したように、この二つの山を登り下りするため、その登山過程における要所での説明がしやすいように、登山ルート(ピンク色)に①から⑧までの番号(青色)を付けたので、その番号順に解説していくことにした。



まず①は、当山の駐車場に向かう道中にある「鯖釣山城」の解説版(上の画像)が設置された場所を示したものだ。どうやら「湯玉城山」の山頂部に、江戸時代の城よりも古い型の山城があったらしい。

次に②の場所は、普通車が3台は停められる駐車場の位置だ。ここで身支度を整え、ピンク色で示した登山道を登り始めた。この登山道は途中の尾根筋から左右に分かれており、その左側となる登りの険しい坂道が「鯖釣山」へ向かうルートとなる。​​



なかなかの急斜面を、ルートを示す赤テープを頼りに登っていくと、見晴らしの良い岩場に到着した。地図では③の位置で「磐座群」と示した場所だ。

そこで上の画像は、付近で一番高い岩の上から、方位がほぼ真東となる「狗留孫山(くるそんざん/標高 616m)」の方面を撮影したものである。

午前7時頃で曇り空ではあったが、山上の清々しい朝を体感することができた。

この一つのピークとなる山上には、おそらく意図的に配置されたであろう「磐座群」が、全体的に「夏至の日の出」と「冬至の日の入」を指し示すように並んでいたのが印象的で、これまでの経験から”古代の天体観測所”だった気配を感じた。

ただ残念なことに「磐座群」の周囲に草木が茂っていたため、俯瞰して全体把握できる撮影が叶わなかったので、私的に印象に残った一つの「岩組」に絞って、以下に披露することにした次第である。



この上の画像に映る「岩組」が、当地の「磐座群」のなかで、私なりに最も印象的だった磐座だ。

まるで抱きかかえられるかのように中心に据えられた大岩の、西側となる岩面を真正面から撮影したものである。



次に上の画像は、同じ「岩組」を西南から東北方面に向かって撮影したものである。

どうやらこの「磐座」には、「東・西・南・北」等の方位が分かるように、人為的なカッティングが施されており、例えば岩の上方の右側断面は「東西」の方向性を示しているようだ。



そして上の画像は、岩の上に置いた方位磁石を見れば分かるように、ほぼ垂直にカットされた磐座の西側断面を、真南から真北に向かって撮影したものだ。古代人による実に見事な石工技術である。



この岩組を撮影した最後の画像(上)は、斜め上方から西方に向かって撮影したもので、画像下の東側となる背後から、2つの精密に加工された岩塊によって、中央部の大きくカッティングされた磐座がV字状に支えられ、この岩組全体の構造安定化が図られているように感じられた。

しかし、この私の大先祖に当るかもしれない先達の卓越した石工技術を、かくも目の当たりに見せつけられても、様々な感情を越えて対象を冷静に俯瞰し、ただただ実直に観察する自分がいるのであった。



そして午前8時頃、いよいよ念願であった「鯖釣山」の山頂(④)に到着した。すると、それまで曇り空だったのに、山頂部の生い茂る木々の狭間から、忽然と朝日が射し込んできたのであった。何だか嬉しくなって、思わずその景色を撮影した画像が上である。



次に上の画像は、山頂を示す三角点の石標を中心に、ここ「鯖釣山」と南北軸を形成し、南の起点となる「英彦山」に向かって撮影したものだ。

残念ながら樹林に包まれた山頂部には、周囲を見渡せる展望はなかったのだが、ここから「英彦山」へ思いを馳せる一時は、なかなかに感慨深いものがあった。



その山頂部で見つけた”テングタケ”の一種と思われるキノコを映した画像が上である。その大きく開いた傘は直径20㎝を優に超えており、とても愛らしく存在感にあふれていた。



「鯖釣山」の山頂では十分に時間を取り、心身をじっくりと空間に馴染ませてから、先ほどの「磐座群」を経由する山道を降りていき、岐路となる凹部の尾根筋から、今度は「湯玉城山」の山頂へ向かった。

よく整備された山道をゆっくりと登り、地図に描いた登山ルートの⑤の地点で振り返り、先ほど登った「鯖釣山」の方面を撮影した画像が上である。

画像の向かって左側の峰が、撮影地から見てほぼ真南となる「鯖釣山」の山頂で、そこから右側の少し低い峰へのなだらかな山並は、ここから展望すると手前のシダ類の生えた丘陵地を含めて、まるで山容を成型したかのようにシンメトリーな景色で美しかった。



次に上の画像は、⑥の場所から西南方向を撮影したもので、手前に映る細長い島が”本州最西端”の響灘に浮かぶ「蓋井島(ふたおいじま)」である。(※下のリンクは同島へ渡った際の関連記事)

※関連記事・・・本州最西端の島(上)

ちなみに、蓋井島の左側に浮かぶ島は北九州市の「白島(しらしま)」、同じく蓋井島の左端と重なって見える二並びの山は、左側から宗像市の「孔大寺山(こだいしやま/標高 499m)」と「湯川山(ゆがわやま/標高 471m)」だ。

そして蓋井島の右端と重なって見える島影が宗像市の「地島(じしま)」、そして地島の右側の海上に薄っすらと見える細長い島影が、
福岡県で一番大きな島の「宗像大島(むなかたおおしま)」である。



同じく⑥の場所から西方を展望した画像が上で、実はこの海上の中央部の遠方には、宗像大社の沖津宮(おきつぐう)が鎮座する”世界遺産”の「沖ノ島(おきのしま)」が映っているはず(当地では「沖ノ島」が確実に視認できた)なのだが、この画像では何度確認しても映っていないように見えてしまうのであった。(ちなみに画像の右下に映る小島の名称は「壁島(かべしま)」)

いずれにしても、ここから「沖ノ島」が目視できるということは、古来より同島が「対馬」と「湯玉」を航路で繋ぐ重要な中継港(沖ノ島は直線航路として海路の真中に位置する)だったのであり、その意味でもここ〔湯玉浦〕が、古代より大いに栄えた良港だったことが伺える。



さて、いよいよ「鯖釣山」と並ぶ「湯玉城山」の山頂にある「城山展望台」に到着。上の画像のように広い頂上に到着した直後、私に気づいた一匹の野生の”鹿”が、ハイジャンプをしながら森の中に消えていった姿が印象的であった。

ちなみに、この「湯玉城山」へ向かう登山ルート沿いの群生林には、約100本の《白の八重椿》などの「椿」が群生し、”隠れた椿スポット”として知られており、毎年3月上旬~中旬の日曜日には「椿祭り」が開催され、中腹のイベント会場では「しし鍋」や「焼き芋」、山頂では「ぜんざい」のふるまいなど、多くの観光客で賑わうようである。



この上の画像のように、東西に長い展望台からの眺めは風光明媚で、特に〔湯玉浦〕を下方に望んで南方に連なる綺麗な山並に心を魅かれた。

そこで下の画像は、南方の山並を少し拡大したものである。画像に映る山並の左側に、美しく映える二峰があるが、右側の山が「鬼ヶ城(おにがじょう/標高 619m)」で、左側の山が「狩音山(かろうとやま/標高 577m)」だ。

ちなみに下関市豊浦町で一番高い山が「鬼ヶ城」で、二番目に高い山が「狩音山」ということから、この二峰で「夫婦山」と言っているそうである。



当日は全体として曇り空ではあったが、先ほどの登山過程にあった高台では、響灘の沿岸域からは展望の難しい「沖ノ島」が見えたことから、もしかするとここ「鯖釣山」と南北軸を形成する「英彦山」が遠望できるのでは・・・ということで、真南の方位を方位磁石で確認しつつ何度も南方を見遣るのであった。

すると、どうだろう・・・幽かではあるが、遠方に「英彦山」らしき山影を確認することができたのであった。当日はまだ、それが「英彦山」であるかどうかは定かではなかったのだが、後日になって地図等と照合するため、南方を撮影した上の画像の「真南」を示す中央部を、さらに拡大した画像が下である。



私なりに精査して辿り着いた現時点での答えは、手前の二つの山並が形成する谷間の向こうに重なる山々(それぞれの山容に縁取りを施した)の、近くて低い山が北九州市の「足立山」であり、遠方の高い山が「英彦山」である。

ということで、初めて登った「鯖釣山(湯玉城山)」の山上では、当初は想像だにしていなかったのだが、「西」の遠方に「沖ノ島」を、そして「南」の遠方に「英彦山」をそれぞれ視認することができたのは、やはり”先祖の導き”に違いないと、改めてその有難味を噛み締めるのであった。

おそらくこの「鯖釣山」は、徹底した天体観測や地文測量を通して古代人が選別した聖地だと考えられ、この「湯玉」は我が先祖の故郷だったことを含め、当初の予想を遥かに超えた素晴らしい地所であった。



そして今回の記事で最後に紹介するのは、「鯖釣山(標高 182m)」から見て東北方位となる山麓(⑧)に鎮座する「宇賀八幡宮」である。(冒頭地図には、神体山の「鯖釣山」と当社を直線で結んでいる。)

この社名の「宇賀」は「ウカ」と発音し、上記の「湯玉」の地区を含む周辺の地名でもあるので、この「宇賀八幡宮」は、古くは「宇賀村」という広い村域の総鎮守だったことが分かる。

下の画像に映る《由緒》にあるように、当社は「宇迦御魂大神」を祭神として祀り、この神名にある冒頭の「宇迦」は「ウカ」と読み、”食物”の古語である「食(ウケ)」につながることから、五穀豊穣と海産物豊漁を祈願する当社の社名や当地の字名である「宇賀」になったと考えられている。

そういえば、当社を初めて参拝したのは今から30年以上前になるのだが、上の画像のように立派な拝殿の前にある石垣に、山本姓が刻まれた奉納の石柱を沢山見かけたので、この地域は山本姓が多いという印象を受けたことを、今更のように思い出すのであった。


当日は早朝より、「鯖釣山」の界隈を時間をかけて散策したため、なかなかにくたびれてしまったので、冒頭地図では右下となる「大河内温泉」のトロトロの湯浴みを楽しみ、心身を癒してから帰途に着いた。

ちなみに、この「大河内温泉」の由来を調べてみると、天保10年(1840年)に当地の田圃から冷泉が発見され、当初は 山本五兵衛・山本孫兵衛等の有志数名が湧出地を柵で囲っていたとのことだ。やはりこの温泉地でも、山本姓の方々が活躍していたのであった。(つづく)







最終更新日  2021年09月16日 09時23分01秒
2021年09月12日
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前回の日記に続き、北部九州の「英彦山」を南の起点として南北軸を形成する「鯖釣山」(下関市豊浦町宇賀)の東南麓に広がる港町「湯玉(ゆたま)」の地勢と歴史について論じてみることにした。

特にその歴史に関しては、主に江戸時代の初期以降になることを、ここで確認しておきたいと思う。

そこで冒頭の画像は、「鯖釣山(さばつりやま)」を南方から撮影したもので、下の同地域の地図を参照すると、下方にある「犬鳴岬」から右方の湯玉浦の街並みを含め、北方に連なる「鯖釣山」の山並みを撮影したものだ。

その山並みで中央部のピークが、次回の日記で登山の様子を綴る「鯖釣山(標高182m)」である。



上に掲げた地図には、豊浦町の湯玉漁港の左上に「大敷網漁業発祥地の碑」と矢印で示した場所があるが、その立派な石碑を現地で撮影した画像が下である。

碑文には『日本大敷網漁業発祥之地』とあり、農林大臣 周東英雄(すとうひでお/山口県長門市出身)の時代なので、1961年頃に建立されたものと考えられる。



ここで以下、「大敷網」の発明と伝搬について、元宇賀村長 多々見茂平 の編集による『宇賀郷土読本』を参考にまとめてみた。

・・・山口県豊浦町湯玉浦が発祥地とされる「湯玉式大敷網」(定置網の一種)は、江戸時代初期の明歴2年(1656年)、湯玉の漁師〔 山本 惣左衛門 〕が回遊している魚の群れを見て、これを一挙に捕獲しようと模索し、建網(刺し網)を工夫して魚群の誘導路を持つ魚敷網を発明したのが由来とされている。この敷網の考案は当時としては画期的なもので、現在各地で行われている大型定置網の元祖になったとされている

この「大敷網」が発明された明歴2年から2年後の萬治元年(1658年)、惣左衛門の子である〔 山本 勘兵衛 〕が小舟で航行中に暴風雨に遭い、長崎県・五島列島は福江島の玉之浦(現五島市玉之浦町)に漂着。瀕死の状態にあった勘兵衛は角平という男に救出され、帰郷後の萬治3年(1660年)に角平を頼って五島を再訪、玉之浦の黒瀬に敷網を設け、「湯玉式大敷網」が九州に伝わるきっかけとなった。勘兵衛は次に長崎県・平戸に移って三ヶ所に敷網漁場を開き、いわゆる「五島式」と呼ばれるシビ(マグロ)の大型定置網の発達は、勘兵衛の敷網が元で起こったものであった。

勘兵衛は寛文6年(1666年)、父・惣左衛門の他界に伴い湯玉に帰郷、敷網の浮子を桐材から竹材に改良したりして、遂に「湯玉式大敷網」の母型はここに完成し、この漁法は次第に西日本の各地に広がり、漁業技術に大きな革新をもたらすことになったのである。また勘兵衛は、新しい漁法の考案に心を砕き、巧妙な「地引網」の開発にも成功したのであった。・・・

※「大敷網」は定置網類のなかで、最も古くできたものとされている。明治末期から大正時代には、沿岸各地に敷設され、沿岸漁業の一翼を担った。大規模なものはクジラからイワシまで漁獲し、百人を超える乗組員によって操業されていた。



上に抜粋した「湯玉」で発祥した「大敷網」に関する文章内容については、おそらく私の先祖にまつわる功績だということで約30年前より認識しており、その縁からであろう…五島列島は福江島の「玉之浦(たまのうら)」(上の地図では左下)を、これまで三度訪ねたことがある。以下のリンクは、その際の関連記事だ。

☆関連記事・・・​九州中部地域の歴史探訪(4)

上の関連記事にも書いたように、この「湯玉式大敷網」の漁法が、江戸時代の初期に今の「玉之浦」の地域へ伝わったことから、地名も「湯玉」の「玉」をいただいて「玉之浦」になったという伝承がある。

加えて「玉之浦」では、周囲の海原を一望できる見晴らしの良い山頂部に、大敷網で魚群の捕獲を指揮する指令塔としての施設が現在も残っていた。

その「玉之浦」で視認した山頂の痕跡から類推するとすれば、山口県は「湯玉」の海原を展望できる背後の山に、なぜ「鯖釣山」という魚の名前を入れた山名が付けられたかの理由が分かるというものであり、この漁法を指揮する施設が「鯖釣山」山頂部の何処かに残っていても不思議ではないと感じるところだ。


また、同じ五島列島の北端となる「宇久島」には、これまでに三度渡っており、その際の関連記事が以下である。

☆関連記事・・・​宇久島(五島列島)へ渡る(中)

上のリンク記事にもあるが、この「宇久島」には平家伝説があり、文治3年(1187年)平 家盛( 平 清盛 の異母弟) が同島に上陸して、山本の地に居館を築き領主になったという伝承がある。

この家盛が居館を築いたとされる山本地区には「山本神社」(当社の由来等は上の記事を参照されたし)が鎮座することから、私的には様々な経緯を含め”「平家」と「山本」の名称や姓の関連性”に着目するところである。

実は私の父親から聞いた話なのだが・・・故郷の湯玉は、『壇ノ浦の戦い』(平安時代末期の寿永4年3月24日〈1185年4月25日現在の山口県下関市で行なわれた「源平合戦」における最後の戦い)で負けた「平家」の一団を乗せた船が漂着した港の一つで、山本家はその平家の末裔という伝承がある・・・とのことであった。

さらに最近知った当地の平家にまつわる伝承によると、湯玉の今倉には「安徳天皇の弟君の墓」があり、その石碑には『 人王八十一代帝  安徳天皇弟宮霊 』と記されているということから、おそらくこの地域を流れる犬鳴川の上流域には、源平合戦で生き残った平家の落人が隠れ住んだ集落があったのであろう。

いずれにしても、山口県の西方となる響灘(ひびきなだ)の湾岸域には、”平家の落人伝説”が各地に伝承されてきたことは確かであり、上記の宇久島における平家伝説とも濃厚に繋がる気配を感じるのであった。



さて、冒頭画像から2枚目(地図)の左側下方に、この湯玉浦に鎮座する「川嶋神社」を指し示しているが、当社の拝殿には上の画像や下に続く画像のように、これを見る者の心を思わず釘付けにするような大型で立派な奉納絵馬が数多く掲げられていた。


また、当社参道の石畳が「対州石」で敷き詰められていることから、長崎の対州(対馬)との特別な交易が営まれてきたことを伺い知ることができるので、おそらく〈対馬沖ノ島湯玉と、対馬から真東へ流れる海流・海路を利用した貿易が盛んに行われていたのであろう。

加えて江戸時代において、長州は湯玉で発祥した「大敷網」は、対馬の領主 宗家の絶大な庇護を受けていたのだが、その背景には萩の毛利氏と対馬の宗氏の間に二度の婚姻があり、この血脈が長州と対馬を政治的にも経済的にも強く結びつけていた模様である。


上の画像は、長崎県・対馬の漁民から「川嶋神社」へ、明治39年に奉納された大敷網漁の絵馬、そして下の画像は、長崎県・平戸生月(長崎県平戸市生月町)の漁民から当社へ奉納された大敷網漁の絵馬である。

明治時代から「大敷網」を通じて、「湯玉」との漁民交流が伺える貴重な絵馬といえよう。
(つづく)

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最終更新日  2021年09月12日 22時45分01秒
2021年09月07日
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この度の​展示会​では、開催期が「夏季」ということもあり、会場に展示した100点を越える「立体アート」の作品群の中でも、夏の夜空を象徴する「夏の大三角」を模した3つの作品を大きく取り上げた。

実はこの「立体アート」展の会期中から、自分の見た「夢」や仲間の助言等を含め様々なヒントがあったのだが、おそらく当個展の開催が契機となり結果として観えてきた心象風景が、冒頭地図の下方に赤線で示した「夏の大三角」の地上投影図である。

既に気付いた方もいると思うが、この画像の投影図は、通常の「夏の大三角」からすれば反転した形状になっている。実は、列島各地に残された数々の天体投影図の中には、意図的に星座等の配置を反転して地上に写した例があることから、この私なりの着想による「夏の大三角」の地上投影図も有り得るとした。


さてここで、冒頭画像の地図に描いた図形等の、簡単な解説を試みるとしよう。

まず山口県域の県央部を貫く二重の南北軸については、当ブログで何度か取り上げてきた私的感得による「山口と九州を貫く南北軸」を意味しており、その一方は南の起点を《御許山》にした南北軸、もう一方は南の起点を《由布岳》にした南北軸を、それぞれ浮きだたせるべく二重に線引きしたものだ。

☆関連記事・・・​​山口と九州を貫く南北軸(上)​
☆関連記事・・・​山口と九州を貫く南北軸(下)

​次に山口県の西端に線引きした、九州の《英彦山》との関係を示す南北軸についてである。実は数年前から気になっていた、この県西部の「山口と九州を貫く南北軸」を体感すべく、その北端に位置する「俵島」を訪ねたことがあった。

※関連記事・・・​向津具の「俵島」を訪ねて
​※関連記事・・・​「潮干珠」と「潮満珠」に想いを馳せて(上)
​※関連記事・・・​「潮干珠」と「潮満珠」に想いを馳せて(下)

​(ちなみに、冒頭地図の二本の南北軸に沿い、赤点で示した山名等は、かつて私が登ったことのある山々である。)


以上の背景や経緯もあって、今回の展示会が終了した直後に、同展示会を陰に陽に支えてくれた仲間から…《英彦山》が「ひこぼし(わし座アルタイル)」に、《御許山》が「おりひめ(こと座ベガ)」に観えてきた…との連絡が入ったのであった。

確かに「英彦山(ひこさん)」という発音の「ひこ」は、そのまま「ひこぼし」の「ひこ」に繋がると考えられるし、宇佐神宮の神体山である「御許山」は、古来より「姫神」を祀るという伝承があることから、「おりひめ」に相応しい御山と解釈できる。

となれば、「白鳥座 デネブ」に対応する御山があるのではないかと私なりに詮索すると、夏季の夜空を彩る「夏の大三角」が反転した形で浮上した、「豊後富士」と謳われる《由布岳》が見出せたのは嬉しかった。

しかもこの《由布岳》の位置は​展示会で解説した​ように、私の出生地であり展示会場のある〔小郡〕から見て「真南」に当たる事実を含め、この得られた深い見識(「夏の大三角」の地上投影図)は、今回の展示会を開催し盛会裏に終えた有り難きご褒美と感じたところである。

そこで以下のリンクは、その「夏の大三角」を象徴する三山への登山記事である。

◎《英彦山》への登山・・・​一文字の「龍雲」あらわる!
◎《御許山》への登山・・・​台風を追い風に「宇佐神宮」への参拝
◎《由布岳》への登山・・・​「由布岳」登山の回想


ところで、上記の”「夏の大三角」の地上投影図”という見識を得てしばらくすると、改めて地図上で《英彦山》を南の起点とする南北軸を、精確に引いてみたくなるのであった。

するとその南北軸は、私の姓である「山本」の先祖が江戸時代の初期から居住していた港町の「湯玉(ゆたま/山口県下関市豊浦町宇賀)」を通ることが新たに解ったのである。

さらにその南北軸は、その湯玉地区では北方の背後にある「鯖釣山(さばつりやま/標高182m)」(画像ではピンクのマーキング)の山頂を通ることも分かって、いよいよ先祖の導きを感じつつ9月初旬に当山へ初登頂する運びとなり、県内では他に類を見ない別格の聖地だと認識できたことは、自身のルーツを探るという意味においても、とても有意義かつ醍醐味のある貴重な経験となった。

次回の日記より数回に分けて、この「鯖釣山」を中心として営まれてきた我が先祖の港町「湯玉」について、綴っていこうと考えている。






最終更新日  2021年09月07日 23時11分35秒
2021年08月23日
カテゴリ:カテゴリ未分類


昨日(8月22日)をもって《綿棒で作る「立体アート」展》は終了した。お陰様で会期中は、ご来場の皆さんと充実した時空を堪能することができ、有り難き幸せを身に染みて感じている。

さて冒頭の画像は、夜空にきらめく「天の川」に流れる星々をなぞらえて、紺色の卓上に並べた立体の数々と、「夏の大三角」を投影した大きな三つの立体(金色のアルタイル・銀色のベガ・極彩色のデネブ)、その奥に60本の白竹で組んだ一人乗りの「竹かご宇宙船」、そして展示場内の北壁に演出した「北極星・北斗七星・カシオペア」(8月中旬で午後9時頃の北天を代表する星々の配置)を撮影したものだ。



次に上の画像は、以下の解説文にある「五芒星」系の『星型立体』(中央にある複合立体)と、その展開図形を撮影したものだ。

例えば二つの正四面体(ここでは緑色と赤色の二つ/画像の左下)を一つに和合して「星型8面体」(緑色と赤色の二つの正四面体が重なった形状)を作り、中央にある複合立体を取り巻く5つの「星型8面体」を、全て統合した造形が『星型立体』である。

『 星型立体 』  
 
 中心部にある星型立体は、構成単位の「正四面体」が
 全部で十個からなる緻密な組み合わせで出来ています。
 
 この星型立体の周囲には、その複合関係が分かるよう
 十色に塗り分けた「正四面体」を展開してみました。
 (※この星型立体の全体の形状は「正12面体」です。)
 
 ☆当会場に展示してある”大きな”『竹かご宇宙船』は、
 この”小さな”『星型立体』と、実は同じ仕組みであり、
 全部で60本の「竹」を組んで作った複合立体です。

冒頭画像にも映っているのだが、上の解説文にあるように、この下の画像に映る大きな造形は、小さな『星型立体』を”ひな型”として作った​『竹かご宇宙船』​である。

この一人乗りの『竹かご宇宙船』は、展示会における出展作品の中で、ダントツの”一番人気”であった。

この宇宙船に乗船された人の中には、”おもしろい体験”(その内容はブログでは書かないことにした)をされた方もいて、その様々な体験談を聞くことが、いつの間にか私の楽しみになっていった。

ちなみに下の画像の、右下に映る解説文の前に置かれた造形は、この『竹かご宇宙船』の縮小版で、市販の「竹ひご」(一本の長さは約36㎝)を組んで作ったものである。



今回の展示会は、会場である当資料館の館長をはじめ担当スタッフの方々、テレビ・新聞・雑誌等の取材を担当された方々、最初の準備や最後の後片付けを手伝ってくれた方々など、本当に多くの方々の協力や支援があって開催することができた。

末尾を以って、お世話になった方々に感謝申し上げる。ありがとうございました。







最終更新日  2021年08月23日 22時07分44秒
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