「イチキシマヒメ」への思慕(4)
さて冒頭画像の地図に示したオレンジ色の軸線は、これまでの連載で綴ってきた紀元前三世紀頃の「イチキシマヒメ(初代ウサツヒメ・セオリツヒメ)」が移住したと思われる主な三つの御山を中心とする拠点を、「御許山 ⇒連載の(2)」ー「大土山 ⇒連載の(3)」ー「弥山 ⇒連載の(1)」と時系列で示したものである。そこで、その”三つの御山”を直線で結んだものが”三点一直線”になるわけだが・・・では何故、この西南から東北へと精度の高い〔斜め45度の方位線〕が、”三つの御山”の山頂部にある〔磐座〕を意図的に一直線で結んだかのように形成されるのだろうか・・・という素朴な疑問が、この連載を書く過程において常に心中に渦巻いていた。すると不思議なことに・・・《「大土山」は今から約5,000年前の”高天原”だった‼》・・・という、私的に信頼できる有力情報が入ってきたのであった。これに触発され、「御許山」の山頂にある”三柱石”は、精密な天体観測と地文測量により紀元前2,250年頃(今から約4,274年前)に設営された可能性を指摘する書籍(以下に紹介)を思い出したのであった。◎参考書籍・・・書名『 縄文の星と祭り 』 堀田総八郎 著・中央アート出版社 (初版1997年)さらに加えて、「弥山」を山頂とする「宮島(厳島)」は、紀元前3,000年頃(今から約5,000年前)の天体「シリウス」が地上へ投影された聖地だったと説く書籍(以下に紹介)を思い出したのである。◎参考書籍・・・書名『 星空の卑弥呼(上)』 榊 晶一郎 著・星雲社 (初版2004年)ここまでくると、私の心中には…古代の離れた地域の人々が相互に情報を交換するイメージ…が浮かんできて・・・今から約5,000前には既にあったであろう各地域の、主要な祭祀場の要とされた山上の「磐座」を基点とする”古代縄文の〈光通信〉ネットワーク”(※)が観えてくるのであった。(※)岩面を磨いた”鏡岩”により太陽光や月光を反射させて、例えばその反射光を”モールス信号”のように利用し、離れた土地に住む人々と情報交換ができるようにした光通信網のこと。それは例えば、これまで取り上げてきた”大分県東部から広島県西部にかけての地域”は、歴史を遡るとさらに広い範囲の”東九州から西中国にかけての地域”を「豊国(とよのくに)」と呼んだとする「宇佐家(菟狭族)」の伝承があることから、もしかすると今回取り上げた〔西南の「御許山」から東北の「大土山」までの”磐座”を結ぶ方位線〕は、豊前国と安芸国の両国を結んでいた”屋台骨となる軸線”であり、さらにはもっと古く範囲の広い”縄文期の「豊国」”を安寧に治めるための、とても重要な〔中心軸〕ではなかったか・・・。縄文系譜の「磐座」の存在する各地域の拠点(上記の”三つの御山”)を結ぶ「軸線」を、おそらくは”なぞる”ようにして移動・移住していったのが、往時の「イチキシマヒメ」の御一行であり、そして「イチキシマヒメ」の終焉の地となった聖地が、三つの磐座を結ぶ方位線上の宮島の「弥山」であったと伝承されている。(連載終了)〔 追 伸 〕冒頭地図に”「空海」にまつわる東西軸”ということで、「空海」が名付けた宮島の「弥山」を貫く東西軸を描いたが、この軸線に関する記事は以下である。◎関連記事・・・「湯玉」の地勢と歴史について(下)また、同様に”山口と九州を貫く南北軸”ということで、「御許山」を南北に貫く軸線を描いたが、この軸線に関する記事は以下である。◎関連記事・・・「弥生」から『縄文』への意識転換(上)…山口と九州を貫く南北軸…