2021年09月15日

「湯玉」の地勢と歴史について(中)

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さて、いよいよ「鯖釣山(さばつりやま)」への登山の様子を記すことになるが、その前に幕末の頃の「湯玉」の歴史について少し触れておきたい。

当地の〔湯玉浦〕は北浦にある漁村の一つだが、この「鯖釣山」が浦を守るように聳えていたため、良港として「北前船」も寄港しており、旅館なども設置され栄えていたそうだ。

かの吉田松陰は”北浦巡視”の際に「湯玉」に宿泊し、松陰の日記『廻浦紀略』には…150戸で近頃200余戸になった…と書かれ、往時の繁栄の様子が感じられる。また同日記には、湯玉の「善念寺」についての記載があり…すこぶる高朗の地にある…と書かれている。(山門傍に松陰来訪の石碑あり

ちなみに、この「鯖釣山」の山麓に鎮座する「善念寺」(地図上に表示)は、確かに〔湯玉浦〕を一望できる高所にあり、寺内には長府藩初代藩主 毛利秀元の位牌が安置され、藩の庇護を受けてきた由緒ある寺である。

また慶応3年(1867年)4月、「湯玉」の庄屋 石川良平の長女”お友”は、奇兵隊軍監 山縣狂介(有朋)に嫁ぎ、後の山縣有朋夫人 山縣友子となっている。(婚礼の儀は湯玉の石川家邸宅にて)

実は先ほど「湯玉」に関する歴史を調べる過程で、松陰の門下生であり明治維新の功労者となった山縣有朋の正妻が「湯玉」の出身であったと知る運びになり、山縣公に少なからず思いを寄せる私としては感慨無量であった。

◎関連記事・・・明治の元老 山縣有朋公の誕生地を訪ねて


さて、ここで本題に戻ることにしよう。諸条件が整った2021年9月5日(日)、冒頭の地図にある「鯖釣山(標高 182m)」と少し右上にある「湯玉城山(標高 192m)」と、この双耳峰たる両山への初めての登山が実現したのであった。

そこで今回は、冒頭地図に示したように、この二つの山を登り下りするため、その登山過程における要所での説明がしやすいように、登山ルート(ピンク色)に①から⑧までの番号(青色)を付けたので、その番号順に解説していくことにした。



まず①は、当山の駐車場に向かう道中にある「鯖釣山城」の解説版(上の画像)が設置された場所を示したものだ。どうやら「湯玉城山」の山頂部に、江戸時代の城よりも古い型の山城があったらしい。

次に②の場所は、普通車が3台は停められる駐車場の位置だ。ここで身支度を整え、ピンク色で示した登山道を登り始めた。この登山道は途中の尾根筋から左右に分かれており、その左側となる登りの険しい坂道が「鯖釣山」へ向かうルートとなる。​​



なかなかの急斜面を、ルートを示す赤テープを頼りに登っていくと、見晴らしの良い岩場に到着した。地図では③の位置で「磐座群」と示した場所だ。

そこで上の画像は、付近で一番高い岩の上から、方位がほぼ真東となる「狗留孫山(くるそんざん/標高 616m)」の方面を撮影したものである。

午前7時頃で曇り空ではあったが、山上の清々しい朝を体感することができた。

この一つのピークとなる山上には、おそらく意図的に配置されたであろう「磐座群」が、全体的に「夏至の日の出」と「冬至の日の入」を指し示すように並んでいたのが印象的で、これまでの経験から”古代の天体観測所”だった気配を感じた。

ただ残念なことに「磐座群」の周囲に草木が茂っていたため、俯瞰して全体把握できる撮影が叶わなかったので、私的に印象に残った一つの「岩組」に絞って、以下に披露することにした次第である。



この上の画像に映る「岩組」が、当地の「磐座群」のなかで、私なりに最も印象的だった磐座だ。

まるで抱きかかえられるかのように中心に据えられた大岩の、西側となる岩面を真正面から撮影したものである。



次に上の画像は、同じ「岩組」を西南から東北方面に向かって撮影したものである。

どうやらこの「磐座」には、「東・西・南・北」等の方位が分かるように、人為的なカッティングが施されており、例えば岩の上方の右側断面は「東西」の方向性を示しているようだ。



そして上の画像は、岩の上に置いた方位磁石を見れば分かるように、ほぼ垂直にカットされた磐座の西側断面を、真南から真北に向かって撮影したものだ。古代人による実に見事な石工技術である。



この岩組を撮影した最後の画像(上)は、斜め上方から西方に向かって撮影したもので、画像下の東側となる背後から、2つの精密に加工された岩塊によって、中央部の大きくカッティングされた磐座がV字状に支えられ、この岩組全体の構造安定化が図られているように感じられた。

しかし、この私の大先祖に当るかもしれない先達の卓越した石工技術を、かくも目の当たりに見せつけられても、様々な感情を越えて対象を冷静に俯瞰し、ただただ実直に観察する自分がいるのであった。



そして午前8時頃、いよいよ念願であった「鯖釣山」の山頂(④)に到着した。すると、それまで曇り空だったのに、山頂部の生い茂る木々の狭間から、忽然と朝日が射し込んできたのであった。何だか嬉しくなって、思わずその景色を撮影した画像が上である。



次に上の画像は、山頂を示す三角点の石標を中心に、ここ「鯖釣山」と南北軸を形成し、南の起点となる「英彦山」に向かって撮影したものだ。

残念ながら樹林に包まれた山頂部には、周囲を見渡せる展望はなかったのだが、ここから「英彦山」へ思いを馳せる一時は、なかなかに感慨深いものがあった。



その山頂部で見つけた”テングタケ”の一種と思われるキノコを映した画像が上である。その大きく開いた傘は直径20㎝を優に超えており、とても愛らしく存在感にあふれていた。



「鯖釣山」の山頂では十分に時間を取り、心身をじっくりと空間に馴染ませてから、先ほどの「磐座群」を経由する山道を降りていき、岐路となる凹部の尾根筋から、今度は「湯玉城山」の山頂へ向かった。

よく整備された山道をゆっくりと登り、地図に描いた登山ルートの⑤の地点で振り返り、先ほど登った「鯖釣山」の方面を撮影した画像が上である。

画像の向かって左側の峰が、撮影地から見てほぼ真南となる「鯖釣山」の山頂で、そこから右側の少し低い峰へのなだらかな山並は、ここから展望すると手前のシダ類の生えた丘陵地を含めて、まるで山容を成型したかのようにシンメトリーな景色で美しかった。



次に上の画像は、⑥の場所から西南方向を撮影したもので、手前に映る細長い島が”本州最西端”の響灘に浮かぶ「蓋井島(ふたおいじま)」である。(※下のリンクは同島へ渡った際の関連記事)

※関連記事・・・本州最西端の島(上)

ちなみに、蓋井島の左側に浮かぶ島は北九州市の「白島(しらしま)」、同じく蓋井島の左端と重なって見える二並びの山は、左側から宗像市の「孔大寺山(こだいしやま/標高 499m)」と「湯川山(ゆがわやま/標高 471m)」だ。

そして蓋井島の右端と重なって見える島影が宗像市の「地島(じしま)」、そして地島の右側の海上に薄っすらと見える細長い島影が、
福岡県で一番大きな島の「宗像大島(むなかたおおしま)」である。



同じく⑥の場所から西方を展望した画像が上で、実はこの海上の中央部の遠方には、宗像大社の沖津宮(おきつぐう)が鎮座する”世界遺産”の「沖ノ島(おきのしま)」が映っているはず(当地では「沖ノ島」が確実に視認できた)なのだが、この画像では何度確認しても映っていないように見えてしまうのであった。(ちなみに画像の右下に映る小島の名称は「壁島(かべしま)」)

いずれにしても、ここから「沖ノ島」が目視できるということは、古来より同島が「対馬」と「湯玉」を航路で繋ぐ重要な中継港(沖ノ島は直線航路として海路の真中に位置する)だったのであり、その意味でもここ〔湯玉浦〕が、古代より大いに栄えた良港だったことが伺える。



さて、いよいよ「鯖釣山」と並ぶ「湯玉城山」の山頂にある「城山展望台」に到着。上の画像のように広い頂上に到着した直後、私に気づいた一匹の野生の”鹿”が、ハイジャンプをしながら森の中に消えていった姿が印象的であった。

ちなみに、この「湯玉城山」へ向かう登山ルート沿いの群生林には、約100本の《白の八重椿》などの「椿」が群生し、”隠れた椿スポット”として知られており、毎年3月上旬~中旬の日曜日には「椿祭り」が開催され、中腹のイベント会場では「しし鍋」や「焼き芋」、山頂では「ぜんざい」のふるまいなど、多くの観光客で賑わうようである。



この上の画像のように、東西に長い展望台からの眺めは風光明媚で、特に〔湯玉浦〕を下方に望んで南方に連なる綺麗な山並に心を魅かれた。

そこで下の画像は、南方の山並を少し拡大したものである。画像に映る山並の左側に、美しく映える二峰があるが、右側の山が「鬼ヶ城(おにがじょう/標高 619m)」で、左側の山が「狩音山(かろうとやま/標高 577m)」だ。

ちなみに下関市豊浦町で一番高い山が「鬼ヶ城」で、二番目に高い山が「狩音山」ということから、この二峰で「夫婦山」と言っているそうである。



当日は全体として曇り空ではあったが、先ほどの登山過程にあった高台では、響灘の沿岸域からは展望の難しい「沖ノ島」が見えたことから、もしかするとここ「鯖釣山」と南北軸を形成する「英彦山」が遠望できるのでは・・・ということで、真南の方位を方位磁石で確認しつつ何度も南方を見遣るのであった。

すると、どうだろう・・・幽かではあるが、遠方に「英彦山」らしき山影を確認することができたのであった。当日はまだ、それが「英彦山」であるかどうかは定かではなかったのだが、後日になって地図等と照合するため、南方を撮影した上の画像の「真南」を示す中央部を、さらに拡大した画像が下である。



私なりに精査して辿り着いた現時点での答えは、手前の二つの山並が形成する谷間の向こうに重なる山々(それぞれの山容に縁取りを施した)の、近くて低い山が北九州市の「足立山」であり、遠方の高い山が「英彦山」である。

ということで、初めて登った「鯖釣山(湯玉城山)」の山上では、当初は想像だにしていなかったのだが、「西」の遠方に「沖ノ島」を、そして「南」の遠方に「英彦山」をそれぞれ視認することができたのは、やはり”先祖の導き”に違いないと、改めてその有難味を噛み締めるのであった。

おそらくこの「鯖釣山」は、徹底した天体観測や地文測量を通して古代人が選別した聖地だと考えられ、この「湯玉」は我が先祖の故郷だったことを含め、当初の予想を遥かに超えた素晴らしい地所であった。



そして今回の記事で最後に紹介するのは、「鯖釣山(標高 182m)」から見て東北方位となる山麓(⑧)に鎮座する「宇賀八幡宮」である。(冒頭地図には、神体山の「鯖釣山」と当社を直線で結んでいる。)

この社名の「宇賀」は「ウカ」と発音し、上記の「湯玉」の地区を含む周辺の地名でもあるので、この「宇賀八幡宮」は、古くは「宇賀村」という広い村域の総鎮守だったことが分かる。

下の画像に映る《由緒》にあるように、当社は「宇迦御魂大神」を祭神として祀り、この神名にある冒頭の「宇迦」は「ウカ」と読み、”食物”の古語である「食(ウケ)」につながることから、五穀豊穣と海産物豊漁を祈願する当社の社名や当地の字名である「宇賀」になったと考えられている。

そういえば、当社を初めて参拝したのは今から30年以上前になるのだが、上の画像のように立派な拝殿の前にある石垣に、山本姓が刻まれた奉納の石柱を沢山見かけたので、この地域は山本姓が多いという印象を受けたことを、今更のように思い出すのであった。


当日は早朝より、「鯖釣山」の界隈を時間をかけて散策したため、なかなかにくたびれてしまったので、冒頭地図では右下となる「大河内温泉」のトロトロの湯浴みを楽しみ、心身を癒してから帰途に着いた。

ちなみに、この「大河内温泉」の由来を調べてみると、天保10年(1840年)に当地の田圃から冷泉が発見され、当初は 山本五兵衛・山本孫兵衛等の有志数名が湧出地を柵で囲っていたとのことだ。やはりこの温泉地でも、山本姓の方々が活躍していたのであった。(つづく)






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最終更新日  2021年09月16日 09時23分01秒