ほん(本)のidle talk(無駄話)

2009/09/22(火)18:10

神出小束野のため池を称える呉錦堂の顕彰碑

神戸歴史(108)

 兵庫県東播地方にはため池が非常に多い。『播磨のため池』という本によれば、「兵庫県にはため池が4万3597あり、全国一の多さです。2位の広島県は2万183ですから、2倍以上の開きがあり、3位は香川県で1万4619です。全国のため池数は約21万カ所で、兵庫県は2割を占めている」そうです。「全国では農業用水の87%は河川を利用しているが、兵庫県では46%がため池を利用している」とのこと。また、「播磨地域のため池数は1万101で、兵庫県全体の4分の1占めている。」  実は今は神戸市西区となっている元明石郡にもため池が非常に多いのです。神戸電鉄緑が丘駅から国道175号線に抜ける道を行くと、金棒池、神出神社参道、神出中学校を経て、兵庫楽農生活センターの表示板を右折すると兵庫楽農生活センターがあります。近くにはぶどう園もあります。このあたりに明石海峡大橋の舞子側アンカレイジのそばに移情閣を建てた呉錦堂のお屋敷がありました。ここから志染方面に行くと、顕彰碑があります。  顕彰碑は神出小束野(こそくの)集落の共有地内の2本の貝塚伊吹と思われる木にはさまれて建立されています。傍には正一位荒玉大明神や神出消防団小束野分団器庫、珍しく半鐘のある火の見やぐらがあります。  顕彰碑には次のように書かれています。 顕 彰 碑 呉錦堂君は若年にして上海から日本に渡来し行商をもって身を起こし帰化してのち社会事業に幾多の貢献をせられ、ことに明治の末期から約二十二年間に神出町小束野に水田約六十町歩を開墾し、また用水地として宮の谷池と小束野池の築造を完成して当部落が今日の繁栄の基礎をつくられた功績は誠に大きい。ここに君の偉業をたたえ永く感謝して、この碑を建てるとともに宮の谷池を呉錦堂池と改称して君の名を後世に伝える。                       中井宇三郎 敬書     昭和三十二年五月                       神出町小束野部落民一同  呉錦堂は1855年、中国(清国)の浙江省に生まれ、上海から鎖国していた中で開かれていた長崎を経て大阪、明治23年(1890年)神戸にやってきて貿易会社を作り、鐘ヶ淵紡績(カネボウ)とも懇意になります。  明治37年(1904年)に呉錦堂は日本の国籍をとり日本に帰化します。  明治40年(1907年)、明石郡神出村の小束野の141町歩の原野を買い、明治41年(1908年)から小束野の開拓を始めます。大正6年(1917年)まで約10年かけて小束野の開拓は行われました。  当初は果樹園にする予定でしたが、淡河川と山田川疎水の水利権を買い取り、神出にも用水路使用が可能となりました。その結果、水田に変更することになります。用水をためる水がめとして呉錦堂池(元宮の谷池)と小束野池の二つの池が造られました。これに感謝して小束野の集落民が建立したのが先の顕彰碑です。  呉錦堂池には記念碑があります。 孫文を顕彰する日本で唯一の博物館の孫文記念館(移情閣)、をご覧ください 呉錦堂・鈴久事件 鐘紡株三井家から呉錦堂、そして鈴木久五郎へ、をご覧ください 播磨のため池

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る