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カテゴリ:神戸歴史
清盛塚・十三重の塔と琵琶塚から兵庫運河を跨ぐ清盛橋を渡ると、薬仙寺があります。
薬仙寺の地は、奈良時代行基菩薩が開いたと伝えられる大輪田の湊に接し、平安時代にはたびたび千僧供養が行われた所です。承元元年(1207年)法然上人が讃岐に下るとき、この薬仙寺へ立ち寄り大衆を教化され、文久元年(1861年)には英国初代公使オールコックの一行が兵庫開港予定地を視察するため宿泊した由緒ある寺院です。(薬仙寺にある神戸市教育委員会説明板による) この薬仙寺境内には、戦災・震災モニュメントと神戸大空襲犠牲者慰霊碑があります。戦災・震災モニュメントの説明板には次のように書かれています。 大輪田橋は神戸の誇る名橋として全国的に 知られている。1945年(昭和20年) 3月17日の大空襲では、この橋近くに避難 した500名を越すともいわれる市民が犠牲 となり、橋も炎で真黒に焼け焦げた。それから 丁度半世紀、1995年(平成7年)1月17日 の大震災でも大被害をうけ、親柱などの石材が 大崩落した。修復にあたり旧石材破棄するに 忍びず、ここにその一部をモニュメントと して保存した。大空襲、大震災の惨禍を後世に 伝え、また犠牲者に鎮魂のまことをささげる ものです。 また、神戸大空襲犠牲者慰霊碑の説明板には次のように書かれています。 今時大戦中神戸は空襲により大被害をうけた。なかでも 昭和20年3月17日・6月5日の大空襲被害は大きく、 市街の大半を焼却し多くの尊い生命をうばった。 私達市民は二度と戦争の惨禍をおこさない決意をあらたにし、 あわせてその犠牲者約一万名の霊の安らかならんことを 心から祈念し、遺族市民から寄せられた浄財によって この碑を建立した。 除幕 昭和50年3月16日 碑石 大阪府下能勢の黒御影石 約10トン デザイン 環境造形Qグループ(山口牧生 増田正和 小林陸一郎各氏) 卍 焦熱地獄の熱風と平和の風を象徴 慰霊祭毎年3月17日午後1時より碑前にて 施主 神戸空襲を記録する会 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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後醍醐天皇が福厳寺に泊まられて置きながら、
わざわざ薬仙寺から水をとりよせたか? ご利益とかの理由ではなく、 福厳寺で頭が痛くなったことを、 何かを盛られたと考えたようです。 そしてわざわざ薬仙寺より水を取り寄せたのが真実です。福厳寺は鎌倉幕府の菩提寺建長寺の関連で大覚という坊さんの流れで、後醍醐天皇は信用していなかった節があります。 鎌倉幕府は後鳥羽・後醍醐と二人の天皇を隠岐に 流していますが、 後鳥羽天皇が毎夜夢見て果たせないまま崩御された 「帰京」を後醍醐天皇は僅か一年余で実現されたのでしたね。 かって皇位にあった身で流人生活を送ったのはこの他、 淳仁天皇、崇徳上皇、土御門上皇、順徳上皇ですが、 配流地から脱出したのは後醍醐天皇だけですものね。 すざましいまでの執念の天皇です。 倒幕を掲げる後醍醐天皇が鎌倉方の密命を受けた使者 によって毒を盛られると考えられたとおもわれます。 臨済宗南禅寺派の福厳寺は後醍醐天皇の史跡 として有名です。また神戸の港の歴史におい ても重要な地位をしめます。境内には塔頭二ヶ寺、 起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃 寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲 庵と言う事になりました。また和田〔和田岬〕 にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福 厳寺に合併されています。 (2011.04.27 06:48:56)
はじめまして。
ご訪問ありがとうございます。 あらためまして後醍醐天皇の非常に強い執着を感じます。 福厳寺についてのご詳細な説明ありがとうございます。 久しぶりに訪れてみたいと思います。 (2011.04.27 16:17:45) |