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山本ふみこさんのうふふ日記

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2014/04/01
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カテゴリ:うふふ日記
 この春、85歳にして初めてひとり暮らしを経験している母のもとを訪ねる。びゅん、と自転車で行く。父はわたしに対して何かとうるさかったので、実家に行くときの緊張がやわらいで、びゅん、である。
 どんなふうにうるさかったか。
 「新聞を読んどらんな」とか、「このあいだの絵(新聞の連載にわたしが自分で描いている挿絵)はおかしかったな」とか。ひどいときには「おまえの考えていることは、さっぱりわからん」とやられた。
 母もときどきやりこめられていたから、それから解放された一面もあろうかと思うのだけれど、「やっぱりさびしい。うるさいことを云うのでもいいから、いてほしいわ」の一点張りだ。夫婦の不思議さである。
 そんな母だが、弟夫妻からの同居の申し出を「アフターファイブをたのしんでみたい」と云って断ったという。近年、痩せて弱ってきているが、それでもあたらしい何かをつかもうとしているらしい。
 ところで、アフターファイブって何だろうか。長年つづけてきた主婦業のあとの、自分の時間のことだろうか。それはかまわないが、「気を抜いちゃいけませんぜ、おかあちゃま」と、云いたくもある。たのしみたいなら、気を張ってもらわなければ。
 「たのしいのは大変」「たーのしいのはー、大変」「たーのしーいのはー、たーいへーん」と節をつけ、歌いながらペダルを踏みこむ。

 この日は長女も自分の家から自転車に乗ってやってくることになっている。
 掃除機をかけながら、長女を待つ。母がお茶を点(た)ててくれた。母の点てる抹茶はなぜだろう、いつもとてもおいしい。とがったところがまるでない。
 長女が黄色い小菊を抱えてやってきた。口を動かしながら、てきぱき働く。
 「さ、買い出しに行くよ。おばあちゃまは留守番してこの映画観ててね。高峰秀子の『二十四の瞳』借りてきたから。お母さんは観てないで。ほら、行きますよ」
 「へーい」
 母の数日分の食材と、重たい牛乳やしょうゆのほか、長女は自分の家の分の買い物をしている。
 そんな様子を見るにつけても、わたしの生活が場面展開しているのを感じずにはいられない。
 子どもたちは育ち、父は逝った。母のひとり暮らしを、ほどよく助ける必要が生まれた。日のめぐりに、つよい力で押しだされたようでもある。自分のなかで、声がする。
 わたしも、変わらないと、ね。
                 *
 これも、変化のひとつかもしれません。
 今回で、ブログ「うふふ日記」は閉じることにしました。オレンジページに守られて2007年からつづけてきたブログから独立して、あたらしい「場」をつくってみようと考えています。あたらしい題名は「ふみ虫・泣き虫・本の虫」。開設は2014年4月8日(火)の予定です。

引っ越し先アドレス: http://fumimushi.cocolog-nifty.com/(現在、工事中)

オレンジページの皆さまにこころからお礼を申し上げます。
7年間どうもありがとうございました。


ブログあしふ.jpg
母の家に1冊の帖面を置きました。
帖面の名は「あしふ」。
母のひとり暮らしを助けるための、連絡帳です。
「あ」「し」「ふ」はわたしの長女、
弟のお嫁のしげちゃん、わたし、の頭文字。
帖面を書くことが、わたしたちのちょっとしたたのしみになっています。






最終更新日  2014/04/01 10:01:30 AM
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2014/03/25
カテゴリ:うふふ日記
 父が逝ってから10日め、近所のノゾミさんと行き会った。
 このひとに父のはなしを聞いてもらわなければ、と思った。
 「夕方の散歩は、これから?」
 と訊く。 
 「ちょっとこれ(買いものの袋)を片づけたら、行こうと思う」
 と云うので、それなら、きょうはわたしも行きたい、聞いてもらいたいこともあるから、と頼む。
 「じゃ、4時半に」

 この家に引っ越してきてから半年が過ぎたころ、ノゾミさんと大きな犬と一緒の散歩に連れて行ってもらった。どうしてそうしたいと思ったのだったか、また、どういうふうにそれが実現したのだったか、おぼえていない。ただ、ノゾミさんにも大きな犬のサンにも、わたしは用事があるのだという気がして、機会を待っていたような気がする。サンはベルギー産の大型犬(ベルジアン・シェパード・ドッグ)で、ハンサムと思ったが雌犬だった。
 「サンは女の子だったんだね」
 ノゾミさんはわたしより3歳ほど年上だが、長く女子サッカーチームに属するサッカー選手でもあるから、びゅんと背筋をのばして颯爽(さっそう)と歩く。運動、とくにサッカーで使い過ぎた膝が痛いとのことだが、長い足がすっと前へ前へ出る。わたしは自分が歩くのが早いほうだと思ってきたし、どこも痛くないのだが、心していないと、遅れをとる。
 散歩の速度を決めているサンに、遅れないようにわたしも足を前へ前へ。

 午後4時半を前に家を出て、路地でノゾミさんとサンがやってくるのを待つ。二女に背負い鞄を借りて、両手を空けておく。いつかわたしがサンの手綱を持てるときがめぐってくるかもしれないし、そうでなくても散歩に必要な道具の入った提げ袋は持ちたいと思って。
 サンの吠える声だ。
 いい声。ときどき、家にいても吠え声が「ワンワン」(ほんとうはこんな音ではないのだが)と聞こえてくる。すると、いい気持ちになって、サンが何を云っているのかと考える。たまに自分が呼ばれているような気分で、「サン、サン」と吠え返してみる。
 あまりひとのいない路地や千川上水沿いを行く。サンは家では排泄をせず、散歩の途中、場所を選んで排泄する。
 「あ、止まった」
 排泄の意味がじかに伝わってきて、わけもなく感動する。出た出た、よかった、と思うのである。
 歩きはじめて10分たったところで、「じつは先週、父が逝ったの」と告げる。
 「そうだったの」とノゾミさんは云い、父が大往生であったことを伝えると、また「そうだったの」と云った。
 これでよし。このひとには伝わった。
 目を上げると、桜並木だった。花の準備をすすめるほの赤い枝が、空に網の目模様をつくっている。足元には無数のホトケノザ。春の斉唱(せいしょう)がはじまっている。
 わたしたちはその日、2時間歩いて帰ってきた。
 人間は罪深いが、まだこうして動物の仲間とともに在ることができる。つくづくとありがたく、サンに大きく手を振る。
 「またねー」

 帰宅してふと、『犬が星見た ロシア旅行』(武田百合子/中公文庫)を思いだしたて、本棚からとり出す。作家の武田泰淳が妻・百合子を「やい、ポチ」とおもしろがって呼んだことから、武田百合子はそれをみずからの旅行記のタイトルにしてしまう。そんな恐るべき感性世界に生まれた本である。
 旅のはじまりのこの夫婦のやりとりをうつしておくとしよう。

 「百合子、面白いか、嬉しいか」
 「面白くも嬉しくもまだない。だんだん嬉しくなると思う」

 そう云えば、わたしの側から父に紹介した唯一の著者が武田百合子だった。『富士日記』(上中下巻/中公文庫)と『犬が星見た』、それに『日日雑記』(中公文庫)の5冊だった。

ブログ富士山の絵.jpg
父は富士山が大好きで、富士山麓に小さな山小屋をつくり、
春、夏、秋によく通いました。
山小屋は、
『富士日記』に登場する武田泰淳・百合子夫妻の山小屋に
ほど近い場所にあります。

父が描いた富士山。






最終更新日  2014/03/25 02:13:47 PM
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2014/03/17
カテゴリ:うふふ日記
 父逝く。

 ごく縮めて記すなら、このような最期(さいご)だった。

 3月12日、昼過ぎ。
 近所の中華料理店にひとりで出かける。
 めあては老酒(ラオチュウ)と餃子である。母を誘ったが、母は「餃子はけっこう」と云って留守番宣言をす。
 老酒をひと口飲み、餃子をひとつ食べたところで倒れる。
 持病の大動脈瘤が破裂、急性貧血で眠るがごとき死だった。

 いろいろなことがあって(検死とか)、父は家にもどらなかった。
 弟が父に会いに行き、わたしは実家に母と残る。
 「あなたは、おとうちゃまのベッドで寝なさい」
 夜になり、母が何を思ってかこう云ったので、その通りにする。父の寝台には、父の匂いが染みこんでいた。思えば……、子どものころからこの日まで、父の寝台にもぐりこんだことなどなかった。枕に頭をのせ、横を見ると小机に雑誌「ユリイカ」がのっている。2006年の藤田嗣治(ふじたつぐはる*)特集号だった。美術の愛好家で、みずからも日曜画家であった父は、昔から藤田嗣治の作品をこよなく愛したのだった。あらためて、藤田を研究していたのだろうか。
 雑誌には2008年11月−2009年1月開催の「没後40年レオナール・フジタ展」(上野の森美術館)のチケットの半券と、新聞切り抜き2点、それに「大分麦焼酎」の領収証(2013年)がはさんであった。新聞の切り抜きは、どちらも長きにわたり愛読していた毎日新聞のもので、ひとつは藤田嗣治の大作修復を総指揮したフランス・エソンヌ県のアン・ル・ディベルデル・フジタコレクション担当学芸員のはなし(2008年)。ひとつは「ユリイカ」編集長による編集余話(2006年)で、「『ユリイカ』は、ギリシャ語で『我発見せり』という意味」というところに赤い線が引いてある。
 切り抜きはそれぞれ、「没後40年レオナール・フジタ展」と、藤田を特集した「ユリイカ」に関連しているものと思われる。なんだかたのしくなってきて、わたしは電灯のひかりをたよりに、夜更けまで雑誌と切り抜きを読んだのだ。
 父が、父らしく逝ったことがわたしのこころを明るくしていた。同時に、わたしのなかに、父から受け継いだものがたくさん生きて蠢(うごめ)いているのを感じることができた。それにそれに、寝台から見渡せる父の書棚にならぶ膨大な書物は、わたしを今後、あたらしい世界に導くだろう。
 この世とあの世に隔てられはしたが、不思議だ、父とのあいだが縮まった。

 次ぐ日、弟のお嫁のしげちゃんと、わたしの長女が、「おとうちゃまが夜いらしたような気がする」「わたしのところにも、おじいちゃまが来たよ」と話し合っていた。
 「ふんちゃんのところは?」「お母さんのところへ会いに来た?」としげちゃんと長女が同時に訊く。
 「わたしのところ? 来なかったよ。しげちゃんたちのところに向かうとき、『どうしておまえが、ぼくの寝台で寝てるんだ?』と顔をしかめてわたしの上空を通過したかもしれないな」

* 藤田嗣治(レオナール・フジタ)
1886−1968 
東京都出身の画家・彫刻家。
1913年(26歳)パリに渡る。モンパルナスの裏通りの同じアパートには、イタリアからやってきたモディリアニがいた。パリの寵児となるも、日本画壇は藤田に冷淡だった。さらに戦争中、戦争画を描いたことを戦後画壇に責任追及され日本との亀裂が決定的なものとなる。
藤田の業績が日本において真の意味で見直されたのは、近年と云ってよいように思う(山本記)。

ブログユリイカ.jpg
父は満90歳で逝きました。

父とは顔を合わせると本のはなしをし、
展覧会に行き(連れて行ってもらい)、
大人になってからはたくさん酒を飲みました。
これからは、読むたび、鑑るたび、飲むたび、
父がやってくるでしょうね。
それを考えると、
おもしろく読み、
自分勝手に鑑賞し(ひとに合わせたりせず鑑賞するのが約束でした)、
愉快に飲まなければならないなあ……。






最終更新日  2014/03/17 01:07:24 PM
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2014/03/11
カテゴリ:うふふ日記
 3月3日の朝だった。
母から電話がかかる。あー。
 ——まずい、まずい。
 「ま・ず・い」が、胸のなかに響く。谺(こだま)する。
 「お、おはよう、ございます」
 と云うなり、わたしは「ほんとに、ごめんなさい」をくり返していた。
 何が「ま・ず・い」かと云ったら、ひな人形のことである。ことし、実家のひな人形を、わたしは飾りに行かなかった。節分の翌日から、ときどき、「行かなくちゃ」と思った。思っては忘れ、忘れては思いだし……、結局、忘れた。忘れることに、した、のかな。
 年老いた母とわたしは、あと幾度ともにひな人形を飾ることができるだろうかという、儚(はかな)いお互いである、今生では。それは想像に過ぎないが……。
 想像に過ぎないにしても、母とふたりで、密(ひそ)やかに守ってきたひな人形のことを、忘れていいはずはなかった。
 「ほんとに、ごめんなさい」
 「ほんとに、ごめんなさい」
 受話器の向こうから母の声が聞こえる。「ほんとに……」とまた云おうとするわたしの耳に聞こえてくる母の声は、さびし気なものではなく、むしろ……、むしろ得意げなのだった。
 「あなたが忙しいのはわかってたから、ことしは、お内裏さまだけピアノの上に飾ったのよ。片づけるのも、あわてることないからさ、ゆっくり見にきてね。ばいばい」
 電話が切れたあと、ゆっくりたどり直してわかったのは、つぎの事実であった。
 当てにならぬ娘など待たず、七段飾りの(段段の組み立ては、とくに手がかかる)ひな人形のお内裏さまだけを、木箱から出して飾ったのだ。
 へへん。そうだ、母(85歳)にしたら、父(90歳)にしたら、「へへん」というほどの出来事だ。
 しかしなんという快挙。
 勝手ながら、讃えるべき出来事である。
 
 3月4日の朝だった。
 長女からメールが届いた。
 写真つきのメールで、それを開くと、おいしそうなご馳走がならんでいた。
・五目寿司。
・きゃべつと舞茸の汁もの。
・菜ものと油揚げの煮浸し。
・れんこん、にんじん、ごぼうのきんぴら。
・新玉ねぎのサラダ。
・トマトとモッツァレラチーズのサラダ。
・生ハム。
友人たちとのたのしいひな祭りであったらしい。
 「あらためて、お雛さま、飾りに来てくれてありがとう。最初、お内裏さまは怒ってるような顔をしていたのだけど、つぎの日見たら少し穏やかになってました。しょうがないからここにいるか、って感じでしょうか。とりあえず、そんなひな祭りでした。ありがとう」
* 三女が長女の家にお雛さまを届け、飾ってくれた。

ブログゼリー2種.jpg
ゼリーのことですが……。
最近わかったことがあります。
ゼリーをうちでもっともたくさん食べていたのは
長女だったという事実です。
ゼリーをこしらえても、長女が独立したいま、
かつてのようには「びゅんびゅん」なくならないのです。
気がつくと、わたしは持ち運びに具合のいい容器を
10個(写真左)をもとめていました(写真右は耐熱ガラス製)。
届ける当てもないのに、
きょうも、持ち運びゼリーを5個
つくっていました。
あはは。








最終更新日  2014/03/11 09:51:14 AM
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2014/03/04
カテゴリ:生活

 前回、友人の有り様(よう)を「変態」、「変態」と書いていたら、すっかり変態づいてしまった。何を見るにも、「変態」を想像する。すれ違う散歩の犬さんに「変態は?」と訊いて吠えられる。
 われながら頓狂(とんきょう)なことである。これはきっと、わたし自身の「変態願望」である。
 ひとは願望を持つだけで、そこへ近づくもののようだ。

 願望を持つだけでそこへ近づくものだとすると、願望の持ち方には気をつけないといけないことになる。そこで、わたしはしばし、「変態」に願望を持つことはどうだろうかと考える。
 ……いいんじゃないかと思えた。
 「変態願望」を持つことを支持したい。そう思った。
 とは云え、とつぜんひと皮剥ける(脱皮である)わけはなく、また、あたらしい手足が生えてくるわけではない。
 つまらないなあ……。
 ヘビやカエルの向こうを張って、これまでのわが変態を省みるうち、そんな時期には、がらりとあたりの風景が変わることがあったのに思い当たった。気がつくとまわりの人間関係が変わっていたとか、仕事の内容が変化していたとか。みずからの「変態願望」は支持したいが、大がかりな変化を受け入れる覚悟はあるのかと問われたら、威勢よく「ありますとも」とは答えにくい、いま。
 「ちょっとならありますとも」、「少しずつなら、かまわないです」というのが正直なところだ。
 そういうわけなので、いつものやり方を少し変えることにしてみた。
 
 遠まわりをして目的地まで行く。
 甘いものを食べる。
 ヒョウ柄の服を買う。
 仕事の順番を変える。
 夜道でスキップする。

 やり方を少し変えるだけで、ふだんしないことをしてみることで、「変態」とまではゆかないものの、自分の殻を壊す練習ができたような。


 
ブログ梅のつぼみ.jpg
庭の梅の、蕾。
雨上がりの様子です。
花の色は、薄紅。
梅は褒められようとして咲くのでなく、
「変態願望」なんかというおかしな考えも持たず、
ただひたすらに咲くのです。







最終更新日  2014/03/04 09:35:23 AM
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2014/02/25
カテゴリ:うふふ日記
 ごはんを食べにやってきた若い友だちが浮かない顔をしている。
 いろいろと不調で……、と話しはじめるその様子が気にかかり、後片づけの手をとめて、友だちの前に坐りなおす。わたしとしたら、自分のなかのひきだしをあけ、友だちの前に過去の不調の記録を全部ならべて見せようというほどの心持ちである。
 そうだ。わがひきだしには「不」のつく記録がごっそり入っている。
 どこかのひきだしの隅っこに成功例らしきものをみつけたとしても、用心しなければいけない。得意になってひっぱり出しても、裏面にはきっと不行き届き、不徳といった「不」の連中が貼りついている。そのことはとりもなおさず、わたしの数少ない成功が、さまざまの「不」にもめげずたくさんのひとの助けによってやっとのことでひきだしに納まったことを意味している。
 さて、友だちは云う。
 「変わりなく日日の仕事をこなし、変わりなくひとと接しているのに、いつものようにゆかない」
 それをことばどおりに受けとり(ひとのはなしを聞くとき、ともかくことばどおりに受けとることが大事、と心得ている)、聞いたことばを反芻(はんすう)する。
 「変わりなく……、日日の仕事をこなし……、変わりなく……、ひとと接しているのに……、いつものように……ゆかない」というふうに。
 反芻の効能だろうか、不意に「変態」ということばが胸に置かれた。へんたい。変態じゃなくて、変態。……何云ってるんだろう、ええと、昆虫やカエル、植物が、成長のなかで異なる形態をとることをさす変態である。ほら、オタマジャクシがカエルになるような、あれだ。
 「変態なんじゃないの?」
 友だちに直球を投げてみた。
 案の定「ぼくのどこが変態なんですか?」という顔をしたから、オタマジャクシに登場ねがって、説明す。
 「あなたが変化してるんじゃないかってこと。敏感なひとは、それを感じとって怪しむだろうし、わけがわからなくて苛立つこともあるんじゃないかな。変態の時期をどう過ごし、どこにつなげるかは自分で決めるしかない。ひとつだけはっきりしてるのは、カエルは、二度とオタマジャクシにはもどれないってことだよ」
 変態、変態と云いながら、家じゅうのみんなで友だちを囲み、日本酒を飲む(高校生は、お茶)。変態おめでとうの意味の酒盛りだったが、そのことは伝わったろうか。伝わらなくてもかまわない。ただただ、わたしは友だちの変態を見守ろう。

 翌日、ソチ冬季オリンピックの閉幕を迎えた。
 やけに熱心に競技を追いかけている自分に驚きつづけた2週間だった。いろんなことを気づかせてもらった。
 誰もメダルが好きだけれど……、メダル獲得はうれしいものにちがいないけれど……、メダルに納まりきれない事ごとに刮目(かつもく)する、その連続だったようでもある。
 閉会式を前に放送の「ソチ冬季オリンピック・ハイライトシーン」なる番組をテレビで観ながら、わたしはまた変態を考えている。友だちを「変態だ」と決めつけたことから、同じことばを自分自身に当て嵌(は)めているのである。
 かつてわたしも幾度かみずからの変態に気づいたことがある。ひとつひとつ数えたら、10本の指では足りないような気がする。ところが最近はどうだろう。この歳になったから、もう変態などはないと、高を括っているのではないか、わたしは。
 頭のなかがこんがらかってきた。こんなときは、手仕事にかぎる。
 夫の実家で穫れたもののほか、ほうぼうからいただいてたまった里芋をならべたて、ひとつひとつ皮をむいてゆく。
 ソチ冬季オリンピック。里芋。変態。
 何の関係もないように見える3つのものが手を組んで、わたしに何かを促す存在となっている。里芋はピンポン玉大のコロッケになった。テレビには、フィギュアスケート・フリープログラムで最高の演技を終え天を仰ぐ浅田真央選手の姿が映っている。
 ———この春、わたしも変態しなくちゃ。
 しきりにそう思わされている。                                                    〈つづく〉

ブログ雪のなかのブロッコリ.jpg
雪のなかのブロッコリ。
埼玉県熊谷市の夫の実家の
畑の様子です。
「お互いがんばろうね」
としみじみしました。

東京にまで降り積もった雪が、
ソチ冬季オリンピックに気持ちを近づかせて
くれたようでもあります。ね。








最終更新日  2014/02/25 09:51:08 AM
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2014/02/18
カテゴリ:うふふ日記
 東京・新宿のカルチャーセンターではじまった「エッセイを書いてみよう」の講座も、気がつけばじきに2年めを迎える。
 お話をいただきはじめてみようと決心したとき、先のことはまるで予測できなかった。自分にできることは4つ。皆さんの作品を読むこと、ちょっと添削すること、時時(ときどき)にふさわしい文章を紹介すること、わたしの知る限りの書くときのちょっとした約束事を伝えることだけだった。できることは一所けん命したいと思って、そうしてきたつもりだが、そのこととは別のところで講座は育ち、つづいてきた。
 12人からスタートし、現在は20代から80代まで20人のお仲間がある。20の世界がやさしくやわらかく咲いており、わたしはそのあいだを、唸りながら飛んでいる。そうだ、まさにそんな感じ。
 1年半が過ぎたころ、講座の皆さんと遠足をしてみたいと考えるようになった。いつか、そんな機会がめぐってくるといいなあと思いながら、遠足に行くなら……、と、行き先を考えるともなく考えていた。
 2月に1回、わたしの都合で休講しなければならない日ができたとき、あ、遠足!とひらめいたのは、自然なことだった。講座1回のかわりに遠足を計画したのである。そのときには2月の寒さを考えず、雪の予想もしなかった。ただただ、あたまのなかに「えんそく」のひらがら4文字がひらひらひらひら飛んでいた。
 大人としての配慮には欠けているが、配慮ばかりじゃおもしろいことの生まれる余地はない、とこっそりわたしは考える。
 遠足当日は雪の予想だった。
 東京へのことし2度めの大雪がくるという。
 予想は見事に的中し、その日の朝、起きたときにはあたりはもう白かった。  
 ……雪の遠足。笑おうとしたが、笑えなかった。思いきりうろたえた。
 よほど情けない顔をしていたのだろう、夫が「バスでの移動もあるから、ぼくも行くよ」と云ってくれた。当然のことながら、欠席の連絡が3人から入る。
 結局総勢14人の遠足となった。
 集まったひとりひとりの顔を見るなり、笑いがこみ上げてきた。たのしい遠足になりそうだった。
 テーマは、東京都武蔵野市めぐり(わたしの暮らす街である)。
 ひと・まち・情報創造館「武蔵野プレイス」、やさい食堂 七福(武蔵野福祉作業所)、武蔵野市立吉祥寺美術館である。
 やけにたのしくて、それぞれが何かをみつける不思議の遠足となった。このはなしは、いつかどこかでゆっくり聞いていただくとしよう。

 翌日は土曜日で、びっくりするほど雪が積もっていた。
 家のなかの感覚だと、綿のようなものにくるまれているようでもあった。静かな朝だった。
 静けさを破って、電話が鳴る。1月の半ばに家を出て、ひとり暮らしをはじめた長女からだった。
 「おはよう。雪、だいじょうぶ?」
 と挨拶。
 前夜、帰宅が遅くなった上、電車が動かず難儀したそうだった。最寄り駅から、暗くて長い道をひとりざくざく、ざくざく歩いて帰るところを、偶然友人のクルマに拾われて、帰宅したというはなしを聞く。
 奇跡のようなはなしだが、こちらも負けじと雪のなかの奇跡の遠足のはなしを聞いてもらう。電話を通して、笑い声が耳に響いた。
 「あのさ、ちょっともホームシックにならないの?」
 と尋ねる。
 「忙しかったから、かかる間がない」
 という答え。それは、こちらも同じだった。仕事や用事に救われて、さびしがる暇(いとま)がなかった。
 「一度遊びにいらっしゃいよ」
 と友だちに向かって云うような調子で云いながら、そんな自分の有り様(よう)だって、ひとつの奇跡だと心づく。
 「行く行く。あのね、お母さん、とっても暮らしがたのしいよ」
 
ブログぬか漬け.jpg
ことしは、冬期もぬか漬けを休まず(これまでは
冷凍していました)、やってきました。
食卓を支えてもらいましたし、
胃腸も守ってもらっているような気がします。
友人が、ぬか漬けめあてにやってきて、
ビールを飲んだりして、それも愉快です。
写真はブロッコリ(さっと茹でて漬けています)、セロリ、
かぶ、大根、にんじん。
ほかにこの季節は、
ピーマン、きゃべつ、いろいろの青菜、長芋を漬けます。
ぬか漬けを休まずつづけられたことも、この冬の奇跡でした。






最終更新日  2014/02/18 09:44:23 AM
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2014/02/10
カテゴリ:うふふ日記
 東京都心に27センチもの雪が積もった。
 わたしのところは都心のはずれだから、もう少し積もった。
 これほどの積雪は、45年ぶりのことだと云う。
 週末でもあったから、いつになくおおっぴらに雪をよろこぶ。
 寒さのきびしい土地の、ことに山間部を考えたら、本筋からずれるようだけれども、都心の場合、雪でもっとも困るのは、交通機関の乱れである。雪は降るたび、ひとの足を妨(さまた)げる。雪に不馴れな分、都心のひとの困り方には、目を覆いたくなるものがある。それで、とてもではないが、雪、雪、ばんざーい!などとは叫んだりできない。東北出身の友だちにそっと、雪うれしさのメールをするにとどめてきた。
 土曜日の朝早くから、あたりは銀世界に変わっていた。めずらしく粉のように細かい雪が、これまためずらしく吹雪(ふぶ)いている。窓越しに眺めていると、あっという間に雪かさが増してゆく。
 友人が、「息子がかまくらをつくりたがってね」と云っていたのを思いだした。このまま降り積もれば、かまくらづくりも夢ではないかもしれない。

 その昔、わたしが十(とお)くらいであった昔、東京に大雪が降った。
 父は生まれも育ちも北海道であったから、朝の早よから装備を整え(父は毛皮の耳当てのついた帽子をかぶっていた)雪かきにかかり、弟とわたしが起きだしたときには、当時空き地だった家の前まで、雪の道ができていた。少しの雪が積もっても、わたしたち姉弟(きょうだい)は、雪だるまをつくり、雪に遊んだものだが、それも両親、ことに父の雪うかれの後押しがあったおかげだ。
 東京の雪だるまは、どうかすると土混じりになったり、そうでなくとも、すぐと溶けていなくなってしまう。わたしが好んでこしらえたのは、雪だるまのきょうだいだったが、ならべてつくった雪だるまのきょうだいたちが、学校からもどるころにはふたり半くらいになっていた。長男から8男までの大家族なのだが、末に向かうほど小振りにつくるため、このような悲劇に見舞われるのだった。そうだ。雪だるまとのあっけない別れは、幼いわたしには悲劇としか云いようがなかった。
 さて、わたしが十だとすると、弟は九(ここの)つということになるが、その年、ふたりは、東京校外の実家前に、かまくらをつくったのである。後(あと)にも先にもかまくらは、つくるのも入るのも、そのとき一回きりだった。雪まみれになりながら、ふたりとも汗だくになった。掘る雪はどこまでも白く、どこまでも豊富だった。でき上がったかまくらは、ふたりがまるまってならんで坐るといっぱいのこじんまりとしたものだったが、それでもかまくらにはちがいなかった。母は、「おめでとう」と云って、湯を注いだ懐中汁粉を運んでくれた。
 そのかまくらが次ぐ日、どんなことになったかは、記せない。記憶から消えてしまっているからだ。かまくらのなかで、窮屈に弟と肩寄せあって食べた汁粉のところまでおぼえていれば、それでよかった。

 週末ニュースでくり返し伝えられた東京の、45年ぶりの大雪というのは、あのかまくらのときだったのだろう。そのときから45年の歳を重ねたわたしは、雪だからと云って外に飛び出したりはしない。窓辺でじっと雪の降るのを眺めている。出かける予定もなしにして、ひたすらぼんやりしていた。雪は等しくひとや小鳥、動物の目に映り、雪はどんな地面も、どんな草木も覆う。そうした目的を持って降るのではないにせよ、雪はこの世を浄めてゆく。
 日曜の朝カーテンをあけると、おもては前日とは打って変わって、雪に輝いている。雪はやみ、日が燦燦(さんさん)と照っている。かつても悲劇を思いださないこともなかったけれど、雪は分厚く、まだ、子どもたちのつくった雪だるまたちは無事だろうと思い直す。
 昼過ぎ、旅仕事からもどった夫が、玄関に荷物を置くなり雪かきをはじめた。前日からのぼんやりをまだつづけていたわたしが、ふと我に返ると、2時間以上が過ぎていた。夫はまだ雪と格闘しているらしい。2軒先のあたりに姿をみつけたので、声をかけると、「雪遊びだな」と笑った。
 「ご苦労さま」
 45年ぶりに降った雪は、わたしにぼんやりする時間をくれ、夫には近隣を思う機会を与えたのかもしれなかった。

ブログ雪だるま.jpg
雪から2日たった月曜日の午前中、
近所で雪だるまの無事を確認。
葉っぱの目、小枝の口。
壊れたカチューシャと葉っぱの蝶ネクタイも、
洒落ているでしょう?






最終更新日  2014/02/10 12:55:00 PM
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2014/02/04
カテゴリ:うふふ日記
 目覚めたとき、あたまのなかは節分でいっぱいだった。
 豆の準備よし、恵方巻きの準備よし、と確かめて布団をはね除けた。

 豆まきの豆と恵方巻き(うちのは、ひとり1本ずつの細巻き)があれば、じゅうぶんに節分を迎えることができそうにも思える一方で、わたしは何かをさがしている。いったい何を……?
 もぞもぞと動きそうな何かに向かって、目を凝らそうとしている……。
 湯を沸かしたり、弁当をこしらえたり、ぬか漬けの大根に塩をまぶしたり、洗濯物を干したりしながら、もぞもぞの主をさがす、さがす、さがす。
 ゼロ時限講習(1時限前の授業/数学)のため、早出の娘を高校へと送りだしたあとも、もぞもぞの尾はつかめそうでつかめず、洗濯ものを干すときスニーカーソックスのつま先にみつけた穴を繕うことにした。穴に気づかなかったことにして干すと、わたしは穴を忘れる。すると、穴あきの靴下が幾足もたまることになって、結局それらの繕いに半日かかったりするのだ。ごく最近、干すときに気がついた穴は、干す前の湿った状態で繕うようにしてみたら、これがなかなかいい具合だ。時に溜めこんだりしていたとはいえ、繕いものだけはやめるわけにはいかない。これほど、後世に伝えたいこともないというくらい、大事なしごとだ。
 繕いものは、わたしを、さがしていたもぞもぞに近づけたようだ。
 近づいた、近づいたと思って、胸のなかが晴れてゆく。
 そのこころが思いださせたのが、窓の敷居だった。
 家の窓の敷居に埃がたまっていたのを思いだしたのである。湯を張ったバケツと雑巾と、乾拭き用のボロ布と古歯ブラシを持って、ひとつひとつ、窓と対面す。古歯ブラシで埃をたたき出すうち、どうやら、このしごとは節分にふさわしい、と思えてきた。
 夜、皆がそろったら、「鬼は外」と、「福はうち」と云いながら豆をまくことになるだろう。子どものころから欠かさずつづけてきた立春前日の節分の豆まきだが、その日を迎えるたび、鬼とは何だろうか、福とは何だろうか、と考えてしまう。それこそが、この日、わたしがさがしていたもぞもぞの主だったか。
 鬼という存在のなかに福が宿るのを見ることも少なくはないし、福と呼ばれるものが鬼の一面を持っていることは、もっと少なくはない、というのがわたしの実感なのだ。歳を重ねるにつれて、鬼と福とを分けて考えられなくなってゆく。子どものころから、鬼を疎(うと)めない体質だった。これには、「泣いた赤鬼」(浜田廣介作)のものがたりの影響もあったかもしれない。
 家じゅうの窓の敷居の掃除を終えたわたしは、この敷居をまたいで、鬼がくるもよし(きたければ)、福が去ってゆくもよし(去りたければ)、と考えている。鬼も福も好きにしたらいいけれど、問題はわがこころだ。胸の「ここ」は、すがすがしくあらねばならない。何をするにも、何を捉えるにも、澄んでいなければしきれないことばかり、捉えられないものばかりだという思いが募っている。澄んでいなければ、と云っても、いきなり澄むわけではないから、正確に云うなら、澄みたいと希うことなのじゃなかろうか。

 夜になったら、「澄みたい、澄みたい」と思いながら豆をまこう。

ブログ石1.jpg
節分の朝、家のなかをうろうろしているときに、
飾り棚や書架で、
昔、絵を描いた石と目が合いました。
ひとところに集めてみました。

長いこと離ればなれになっていた石を
合わせるというのなんか、じつに節分らしいではありませんか。

ブログ石2.jpg
これは、食器棚のなかでうたた寝していました。
カップラーメンを食べるときの、
ふたの重石(おもし)です。






最終更新日  2014/02/04 09:44:15 AM
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2014/01/28
カテゴリ:うふふ日記
 到来物の白味噌の羊羹(ようかん)と、渋めのお茶を、と思った。
 休みの日の朝、このような甘味とお茶をたのしむことがある。文字通り「朝飯前」のひとときだ。食卓には、朝ごはんの仕度がほぼできているので、ちゃぶ台を出して……。
 そうだった、ちゃぶ台はなかった。
 ひとり暮らしをはじめた長女に持たせてやったのだった。

 ひとり暮らしの準備に際し、娘に伝えたいことがあった。
 「間に合わせのモノは持たない」
 というのがそれだ。
 が、なんとなく口に出して伝えるのは憚(はばか)られた。娘には娘の考えがあるのだから、との思いから、口にしかけて黙った。それに、「間に合わせのモノは持たない」ということなら、すでにじゅうぶんに伝わっているはず、と思いたくもある。
 わたしが娘ふたりと3人の暮らしをはじめたとき、テーブルは持たず、暮らしのまんなかに古いちゃぶ台を置いた。ちゃぶ台は、わたしの暮らしの原点であり、「間に合わせのモノは持たない」という、暮らしの象徴的存在だった。
 現在、娘の家にはないモノがたくさん。
 たとえば机。たとえばフライパン。包丁もない。包丁はただし、わたしが使ってきたペティナイフだけは持たせた。三徳(文化包丁)は、いずれ贈れたら……と考えているけれど。
 娘の引っ越しを手伝ったとき、荷造りの箱のなかに、おろし金をみつけた。
 「取材先でもとめたんだ。一点豪華というヤツです」
 うつくしくて頑丈な、純銅製だった。
 それを見て、ああ、これがこのひとの原点だな、と得心した。云うことは何もない、と思った。

 若いひとに伝えたいのは、調度の類いは間に合わせで持っても、吟味して持っても、長持ちするということ。気がつくと、軽く20年くらい過ぎてしまう。20年が過ぎたとき、間に合わせの道具の多くはそこで終わりを迎えるが、吟味して選んだモノの多くは、まだゆける。修理も利く。この実感だけは、若いひとにはつかみきれぬだろうと思うものだから、こそっと云っておきたいのである。
 老婆心のついでに書いておくのだが、家に食器棚が入り用、食卓が入り用、ソファが……、というのはどこかで誰かがつくり上げたイメージだ。このイメージに囚われて、暮らしをスタートさせるのはいかにも窮屈。
 自分がどんな暮らし方をしたいと考えるか、どんな好みを持っているかを尋ねつつ、計りつつ、ゆっくりゆくのに限る。ほんとうに欲していたわけではないのに、のせられてもとめてしまった調度に苦しめられる(空間を奪われる)のだけは、よろしからず。……である。

 ところで、朝飯前の甘味とお茶を、わたしたちは盆の上でたのしんだ。ちゃぶ台もよかったけれど、盆もいい。

ブログフライ返し.jpg
わたしが好きで、使いつづけてきたべこべこの
フライ返しです(右)。
娘にも同じモノを、とさがしさがして、
もとめました(左)。
押しつけがましいとは思ったものの、「べこべこ」を
愛するあまり……。






最終更新日  2014/01/28 09:37:28 AM
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