山本ふみこさんのうふふ日記

2010/06/29(火)10:00

『小僧の神様』(志賀直哉著)  本のなかの暮らし〈6〉

Aは変に淋しい気がした。自分は先の日小僧の気の毒な様子を見て、心から同情した。そして、出来る事なら、こうもしてやりたいと考えていた事を今日は偶然の機会から遂行出来たのである。小僧も満足し、自分も満足していいはずだ。人を喜ばす事は悪い事ではない。自分は当然、ある喜びを感じていいわけだ。ところが、どうだろう、この変に淋しい、いやな気持は。何故だろう。何から来るのだろう。丁度それは人知れず悪い事をした後(あと)の気持に似通っている。                       『小僧の神様 他十篇』「小僧の神様」(志賀直哉著・岩波文庫)  東京神田の秤屋(はかりや)に奉公している仙吉。この小説は、仙吉が鮨(すし)をそっとおごられる話である。よくあるような話でもあり、反対に、いや、ありはしないなあとも思える話で、しかし、なぜだかふとした場面でたびたび、「ああ、これは『小僧の神様』だ」と思わされる。 いいことをしたつもりのあとで思わされ、人間業(にんげんわざ)とは思えぬ何かに遭遇したときも思わされる。「志賀直哉」(1883−1971)と聞けば、遠くはるかな時代の作家で、いまの自分たちの生活とはかけ離れた存在、関わりのない創作だと決めつけてしまいそうになるけれど。否、否、否。この世界を、創作を知ろうとすることは、「いま」を探りなおすことにもつながっていくようだ。忘れていただけで、なくしたわけではないものを、たしかめたり。見えないだけで、ここにこうして在るじゃあないか、と思い返したり。いろいろの意味で『小僧の神様 他十編』は、かんかんと、こちらに響く。 何より鮨をおごられる仙吉のこころも、それをしたAという紳士のこころも、じゅうぶんにわかりそうに思えることが、わたしには、うれしいのだ。うれしいという以上に、まずまず安心、という気がする。 昔もいまも、ひとというのは、ひとに対する思いをこんなにも繊細に紡いでいるのだ。そうでありながら、いまのわたしは、そういうところを隠そうとしたり、どうやら恥じたりして、素直に思い返しにくくなっている。人間関係の上では、さっぱりと、大胆に、何でもない顔で行き過ぎるのがスマートであるというのは、流行(はやり)だろうか、何だろうか。どうでも、わたしには、自分が素直であることを潔(いさぎよ)しとしない癖がついている。  仙吉には「あの客」が益々(ますます)忘れられないものになって行った。それが人間か超自然のものか、今は殆ど問題にならなかった、ただ無闇とありがたかった。彼は鮨屋の主人夫婦に再三いわれたにかかわらず再び其処へ御馳走になりに行く気はしなかった。そう附け上(あが)る事は恐ろしかった。 彼は悲しい時、苦しい時に必ず「あの客」を想った。それは想うだけである慰めになった。彼は何時(いつ)かまた「あの客」が思わぬ恵みを持って自分の前に現れて来る事を信じていた。  そう考えて生きている仙吉の「健気」。「あの客」なるAの「神経」。 その両方は、わたしの励みになっているのだった。 同時に、わたしの神様が、いきなり何かをもたらしたとき、それを素直に——恵みと思って——受けとれるように希っている。 ある日とつぜん、鯛が愛媛県宇和島から届きました。(友人からの、思いがけない贈りもの)。びっくりしました。いろいろのことが、頭をよぎりました。その日のうちにしてしまわないといけない事ごと。晩ごはんを食べる、頭数。いつどんな風にさばこうか。など。全長45cm。立派な鯛です。「小僧の神様」だと思いました。これは、「いま」のわたしにもたらされた「恵み」だと。何も考えず、書斎と台所を行ったり来たりしながら、その日、「恵み」のなかで過しました。 まず昆布〆に。これは、夕飯のときの姿です。 あら煮。 潮汁。 鯛のそぼろ。

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